新!サブやんの気まぐれ調査研究

サブやんの気まぐれ調査研究の続編です

山口素堂と松尾芭蕉の部屋

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誤伝素堂の背景 真実の素堂像に迫る 素堂と記載資料点検
素堂の伝記で『甲斐国志』以前、素堂の伝書として最初に登場するのは『連俳睦百韻』で安永八年(1779)の刊行である。この書は佐々木来雪の〈三世素堂号襲名記念集〉で、その寺町百庵(素堂の家系にある)序文中に素堂の家系を伝える部分がある。『甲斐国志」より三十年以前の書である。後世この著述部分と『甲斐国志」記述を併せて素堂伝記としてしまった研究書もあるが、これが素堂像を更に大きく歪める原因に成ってしまった。これが芭蕉伝であれば異論百出であるものを素堂や他の俳人であれば誰も深く追求はしない。『甲斐国志』の著述者はこの『連俳睦百韻』や素堂著の『甲山記行』、逝去の翌年の追善集『通天橋」を読んでいたのであろうか。
 『甲斐叢書』は『甲斐国志』を拡大解釈して素堂の関与の定まらない「濁川改悛工事」を【素堂堤】に格上げしてしまった。改浚工事とは「どぶ悛い」であり、堤を築く目的ではなく浚った土砂を両側に盛ったもので工事も短期間であり、内容も幕府の河川事業として業者に区間を分け請け負わせた工事である。地鎮碑を建立した斉藤正辰は桜井孫兵衛の兄致蕃の孫致命の子供で斉藤六左衛門正高の養子となる。享保十八年には検見の一員として甲斐に来ている。(この項別述)
 『甲州俳人伝』は素堂を教来石村山口に確定して山口市左(右か)衛門家を生家として紹介して山口黒露の追善集『澪つくし』に記載がある「山ロ黒露が仮居していた所に素堂も仮居していたと」あるのを「素堂が濁川改竣工事の指揮に当たった時に仮居していた」と決めつけて、さらに素堂は一生妻を娶らずとしてしまった。これは『俳家奇人伝」の記載内容で大きな間違いである。
 「人あるひは妻を迎へん事をすすむるに、固辞してやみぬ」である。もしこの『俳諧奇人談』の言が正しいとすれば、それは元禄七年(1694)に素堂が妻を亡くした後の事である。ならば理解は出来る。
この『俳家奇人談』も素堂の没年を享保二年と誤っている。(正しくは享保元年・1716) 又「素堂は江戸の人」「俳諧は季吟門」の記述もある。素堂伝において決定的な影響を与えたのは昭和七年の『山口素堂の研究』である。著述者本人は自らの記載内容を総て肯定してはいないが、著名人やその道の権威者の言は後世素堂誤伝少なからず与えた影響は大きい。 高名、著名な方の研究記述は反論する人も少ないないし、例え誤りがあっても素直な訂正は無く、さらに深めた研究はされないのが普通で、従って定説となってしまう危険がある。既に現在の辞書や辞典には此の誤った内容が取り入れられて定説となってしまったものが多く見られる。 一旦定説となるとそれを覆すことは至難の業に近いことで歴史関係にはよくある詣である。
『山口素堂の研究』の誤伝のうち、特筆すべきは素堂が元禄八年(1694)母の願いの身延詣でを目的に甲斐入りした折に編んだ『甲山記行』の存在を無視(又は未読)している事である。他にも下記の点が誤っていると思われる。
その一、前の『甲斐国志』と『連俳睦百韻』を合体してしまったこと。
その二、素堂の妻が寛文始めに死去したとしたこと。
その三、素堂の母の没年を誤ったこと。(墓所を含めて)
その四、素堂の甲斐入りの事由を知らなかったこと。
その五、『甲斐国志』の記述の信憑性を調べなかったこと。
 著者は資料の不確かなものは「私説」 「推説」として記している。しかしこの「私説」 「推説」がくせ者であり、それ以後の素堂紹介書にはこの著説が事実として一人歩きして多くの書に紹介されることとなった。また俳諧を論じる識者たちもこの説を疑う事無く引用している。
 廷宝七年(1679)頃までは素堂は芭蕉と違って仕官の身であり、元禄七年(1695)妻の死〜元禄八年(1696)母の死までは家庭もあり、勿論子供も孫もいた。(山口素安の存在)隠士生活に入った廷宝八年(1680)以降も多忙な日々を送る。この辺りも誤り伝わるところである。「素堂は妻は娶らず」は誤伝である。
 素堂は隠士であってもその持つ教養の深さからか没年まで多忙な日々を送っている。隠士然の生活でありながら多くの俳誰人や文人の為に尽くした功績は芭蕉をもってしても遠く及ばない。そうした素堂を「句作に淡泊であり、追求する態度が見えない」との評価は当たらない。
 素堂と芭蕉はある意味で陰と陽の関係にある。感情あらわに排他的な芭蕉と温厚な素堂、人はとかく表面に出たもの(作品)で人間評価しがちであるが、宗匠として門人を抱える芭蕉と門派に拘ることなく多くの俳誰人や文人と交流して指導や便宜を図った
素堂とではその土俵が違い比べてみてもしかたがないことである。業として俳諧三昧に明け暮れる芭蕉と漢詩人素堂が芭蕉没年直前(元禄六年・1693)まで深い交友が続くのは陰と陽の関係を保ったからであり、素堂という土俵の上で芭蕉の句作や苦悩は続くのである。研究者の中には素堂の句は淡泊で愚作が多いと酷評している人もいるが、では芭蕉はどうであろうか、芭蕉とて元禄頃になってはじめて見るべき句が現れると伝える書もある。素堂との妥協、離反が芭蕉の句作や俳論に大きな影響を与えたことは素堂と芭蕉の書した数ある序文や俳文でも判ることであり、序文・詞書・俳文それに書簡を年代順に並べてみるとよく理解できるのである。芭蕉の第一の門人とされる宝井其角にしても、素堂を慕ってくるのを素堂が[あなたは芭蕉の門人ですよ」(小川健三氏談)と芭蕉のもとに行かせている。(号の中に其角は晋子、素堂は子晋もある。『続虚栗』序文)
 現在も芭蕉を崇めるあまりに芭蕉が幼少から文学の天才であったような記述される研究書が多い。人間として優れていても必ずしも作品が優れているとは限らない。またその逆もある。
 他人を卑下してその人の優位性を固辞し保つ記述方法はよくあることではあるが芭蕉の場合はどうであろうか。
 一つの句作、俳文に対して推敲に推敲を重ねる芭蕉と多くは即興で詠じる素堂(中には推敲した句もある)の句を並べ比べ優劣を論じて見てもそれは意味の無いことである。
誤伝素堂の背景 真実の素堂像に迫る 素堂と濁川改悛工事
『甲斐国志』は素堂の生誕地を甲斐巨摩郡教来石村字山口と当時の時代背景や時代考証が為されず誤解されるような記述をしている。いわゆる「推論」の領域である。甲府市の魚町山口屋市右衛門との関連も全く不明であり、確定する資料は存在しない。功刀亀内は『甲州俳人伝」で「写本酒之書付」.「貞享上下府中甲府再見」を引用して魚町山口屋市右衛門家を『甲斐国志」に併せ素堂の生家としてしまった。確かに山ロ屋は存在していたが、その規模は小さく、この時代とても「山口殿」といわれるような富豪酒造家が出現する背景にはない。
 素堂の生まれた当時の甲斐の国は度重なる不作による飢饉に襲われていてその悲惨さは諸本が伝えるところである。甲府府中の町並みも田舎然としていた。そうした中、幕府管轄下の酒造業山ロ屋が特別富裕であったなどとの事はありえず、ましてや山口屋が「山口殿」と時人に呼ばれていたなどの事などは資料を持たない「推察」である。『甲斐国志』「素道の項」の記載内容の間違いや推察は是にとどまらず随所に見られる。しかしそれは史実のように伝わる事となった。他の歴史書との妥協を許さない〈国書〉とは恐ろしいものである。
 『甲斐国志」の著述は濁川の畔にある斉藤正辰の建立した【桜井孫兵衛の地鎮碑】の刻文を参考にして工事に関与したと伝えられる山口官兵衛を素堂に仕立てて展開している。
素堂は資料で見る限り「衆道」や「官兵衛」は名乗った形跡は認められない。又この【地鎮碑】は孫兵衛没後に斉藤正辰の命に
より蓬沢・西高橋村が建立したものである。現存する【石祠】は長い間【生祠】として伝えられてきたが、今もある桜井社と称する【石祠】は裏面に享保十八年建立と明確に刻されている。ちなみに孫兵衛の没年は享保十六年である。
 
誤伝素堂の背景『甲斐国志』の素堂記述の矛盾について(2)甲斐は妻の故郷
 素堂について、出生や甲斐甲府在住を証した歴史書や文献はなく、『甲斐国志』(文化十一年・1814)刊行の後に於いてそれを引用した書物のみが散見出来、それに著者の私見を挟み現在の素堂像を創り挙げてきたもので、『甲斐国志」の編纂は、甲斐と江戸で行なわれて、甲斐の編纂者の知る事のない記載内容もあった事も窺われる。『甲斐国志』は編纂完了後は幕府に納められた後、時を経て一般の者が見る事が出来たのであり、以後『国志」を基に様々な書物が甲斐でも編集され、『甲斐国志』の記載内容は見直す事なく、〈素堂の俳諧事跡〉より歴史資料に見えない〈素堂と濁川改修工事〉に重きを置き世の中に伝わっている。
 歴史はその時代々々の積み重ねであるが山梨の歴史はその為政者の変遷に伴い主体性が無く、ある面では前時代の歴史を消すことが歴史であり人々の生きる術ではなかったのか。
 素堂と甲斐の関わりを『甲斐国志」を見て知り、その後に於いて歴史を確認し、祖先の出身が北巨摩郡教来石村山口ではないかと有る記述を、素堂翁が出生したとして、当時の甲斐の状況を鑑みても不可能な甲府酒造業山口屋市右衛門をその生家と定めてしまったのである。
 『甲斐国志」には「山口市右衛門は多分家名であろう」として断定はされていない。(蓋シ家名ナリ)そして「史実」でない「紙実」がまるで真実のように独り歩きしてしまったのである。素堂逝去後百年を経て編纂された『甲斐国志」の信憑性はいかばかりであろうか。確かに素堂は何度(資料確認2)か甲斐に来ている。或いは甲斐で生まれたのかも知れないが、それを示す歴史資料が無いのに『国志」を以て断定する事は歴史の真実を歪めることにもなりかねない。(素堂翁の著した『甲山記行」では【甲斐は妻のふるさと】とある。後述)
 素堂関連の書物から実証出来るのは元禄八年(1695)の、亡き母(八月に死去)の願いを果たす為に身延詣でと(『甲山記行」)、山口黒露追善集『みをつくし」(久住・秦蛾編。)に見られる久住の句文である。句文には 「露叟(黒露)の葬は府(甲斐府中)の柳町といふにつゝきし緑町と申所なり、町つつきのおもしろきにや、
 〈むかし素堂も此所にしはし仮居せられしとなん〉
  柳 に は 緑 の 名 あ り 庵 の 琴   久住
とある。この記載内容の年代が明確には出来ないが、元禄八年(1695)の「身延詣で」の際か、元禄九年(1696)の濁川工事の時(?事実とすれば)なのかは資料不足で断定できない。元禄八年(1695)は素堂の『甲山記行』によれば「外舅野田氏宅を宿にする」とあり、これに依り元禄八年の素堂の在府中の宿は「外舅野田氏宅」であり、「緑町の仮居」は元禄八年(1695)ではないと云う事になる。(元禄八年の『甲山記行」は日程の一部記述が抜けて折、その間の行動は不明である)。野田
氏は素堂の妻の父親の可能性であると思われる。(当時の府中町奉行、野田勘兵衛か)『甲山記行」に〈甲斐は妻のふるさと云々〉の記述がある。では元禄九年(1696)の「濁川改悛工事」の時であろうか。これも史実を示す資料は無く言及できない。又、元禄八年素堂が墓参とあるがこれも史実とは違う。素堂の『甲山記行』にはこの事実を示す記述はなく、又府中山口市右衛門の母の墓(甲府尊詠寺)もその没年の違いが明確であり、後世の建立である。(素堂母の没年は元禄八年夏)、元禄七年十月中には妻の死去により親友芭蕉の死にも忌中で立ち会えなかった。(【素堂曾良宛書簡】による)
 素堂の父親については資料がなくその没年については解からないが、この時代背景からは父・母・妻は素堂の墓所である谷中感応寺に埋葬されたとする方が自然である。未だ推察の域を脱しないが、素堂の親族の墓所は府中には無く、尊詠寺の墓所は後世のものと考えられる。尚、尊詠寺の山口家の墓所は二箇所に別れ、代々の山口屋市右衛門の墓石もなく、中には甲府勤番士名の墓石も含まれ、時代の変遷と混乱が窺われると共に、山ロ殴と云われた富家の墓とすれば余りにも淋しい。これは現在の山口家の墓所であり、素堂を結ぶものはない。傍らの小さい墓石は新しい物であり、墓所を所持する両家とも現在でも健在であり、この山口両家は江戸・明治時代に活躍した山口屋伊兵衛の所縁の家柄ではないかと推察される。
明治時代後半に『甲斐国志」記載の内容が明らかになり、当時の山口屋の関係者が墓石を建立したり、墓所の一部に素堂の石像を建立したものと考えられる。明治二十七年に発刊された、『山梨鑑』によれば、
〈甲府市和泉町 山口屋 山口建造〉 
〈同町 山口屋 山口次郎兵衛〉 
〈同町 山口屋 山口清助〉
〈緑町 斗桝屋 山口忠左衛門〉 
〈同町 河内屋 山口吉太郎〉 
〈柳町 米 屋 山口栄兵衛〉
 の山口姓が見える。素堂の碑を建立した山口伊兵衛がどの家に関係する人物かは定かでないが、何れにしても、山口素堂と家系が結び付く可能性は少ない。現在迄に拝読した諸文献・資料によれば、素堂翁の甲斐の出身を示す史実資料は『甲斐国志』以外にはなく、『甲斐国志」を以てしても北巨摩郡救米石村山口で生まれたという事実は限定できない事となる。
 『甲斐国志」の記述は確証がなく、定かでないものに就いては、諸説を取り入れて限定せず、又は後世の課題としている箇所も見える。それは、甲斐側の編纂者の誠実さの現れであり、松平定信が編纂を指示した当時、既に甲斐には歴史の史実を伝える資料も少なく、書物や文献も少ない事を憂いた松平定信が、編纂を急ぐ必要性を訴えて事業が開始されたと云う。散逸した資料収集や整理には語り尽くせない労苦が伴なった事が推察できる。
 素堂死去より、約百年弱経ての編纂である。その間、素堂に関する俳書や解説書にも素堂と甲斐を結びつける文献は少なく、『甲斐国志」の孫兵衛と素堂との出会い場面は講談調で他の項と比べて異質であり、もし事実であるならどんな資料や文献から引用されたか知りたい所である。時代間が大きく今では如何ともし難い事である。
 しかし、歴史はその都度創られた部分と事実の部分が混用されて成り立つものであるが、その時代の創作歴史を信じて疑わない事の方が情けない気がする。『甲斐国志』の編纂者が云う、後世に課題を残した部分や新しい事実を取り入れて真の山梨県の歴史書を創る事が急務である。尚、幕府関係の書物には、桜井孫兵衛は元禄十年には大阪代官触頭となっていて、宝永二年にも上方代官として謹仕している。又、『甲斐国志』編纂者が『連俳睦百韻」やその他の資料を読んでいたら素堂の項の展開も変った筈である。『連俳睦百韻」は現在、山梨県立図書館に在り誰でも見る事が出来る。『連俳睦百韻』には素堂の祖先は蒲生氏郷の家臣、山口勘助とあり、甲斐の出身とは書されてはいない。後世の歴史家・俳諧研究者は『甲斐国志』を重んじ『連俳睦百韻』を軽んじて論じ、何時の間にか、
〈北巨摩郡教来石宇山口出身で府中魚町に移住し、忽ち酒遺業で家は富み、時の人に山口殿と崇められて、素堂は幼少より江戸へ勉学の為に遊び、酒造業を弟に譲り、二十才の頃江戸に出て林家に学び、云々となる。〉
 
 素堂の生誕地については、
〈北巨摩郡教来石宇山口説〉 
〈甲斐酒折言説〉 
〈江戸説〉 
〈甲府魚町説〉
とあり、どれも確証がないのであり、『甲斐国志」一書をもって素堂の総てとする訳にはいかなのである。盟友松尾芭蕉の故郷は伊賀と本人も言っており間違いない事ではあるが、その生誕地や誕生日については確たる資料が無く未だに論争が続いている最中に辞典・辞書類では確定されて書されている。素堂関連の資料を幾ら読破しても、素堂が甲斐で生まれ、甲府魚町山口屋市右衛門家の出自であることはあり得ないのである。これが筆者の結論である。
甲斐は妻のふるさと…………甲山記行
誤伝素堂の背景『甲斐国志』の素堂記述の矛盾について(1)
甲斐国志」は文化三年(1806)に始まり文化十一年(1814)に編纂終了した貴重な山梨県の歴史資料書であり、現在に於いてもその価値観は変わらない。しかし伝記については一部誤りも見られ、著述者も確定できない事項については後世の研究に委ねている。
 
山ロ素堂翁の研究を初めて以来、『甲斐国志」の素堂の項を何回読み直して見ても疑問なのは、
元禄九年(1696)の濁川改悛工事において、時の代官桜井孫兵衛政能が、山口素堂に依頼してようやく工事が完了した事や、素堂がこの工事を指揮したとされる事である。当時の河川工事は幕府直轄事業であり、幕府の差配と資金で実施された事業で、この改悛工事も三百五十両弱の多額の出費されている。当時甲斐は赤字が累積していて、甲斐は更に財政の悪化が予想され、幕府としても簡単には着手する事は出来なかったと思われる。そうした事情がこの工事を遅らせた大きな原因の一つである。当時は将軍網吉の時代で、幕閣には武田家滅亡の折徳川家厳に登用された武田遺臣の家系ある人物が多くかの柳沢吉保も元禄元年(1688)則用人に当用され、元禄七年(1694)には川越藩主となり、網吉の絶対の信任を受け、その後も比例なき大出世をする。又甲斐に所縁ある荻原重秀も勘定奉行に元禄九年(1696)に登用されている。
山口業堂の産まれたとされる甲斐国巨摩郡教来石村の近隣(川筋)からは多くの人物が徳川家厳に仕え、数多くの武将が徳川家に仕え、近隣の曲淵家も代々江戸幕閣に仕えている又、柳沢吉保の妻曽雌氏(韮崎市)は隣の同じ武川衆から出ている。その他折居氏、青木氏などと枚挙に暇がない。
当時に於いて山口業堂が甲斐の出身であるなら当然周知の事であったに違いない。俳誰人の松木青雲は甲斐の出身で業堂と同俳書に入集しているが、同郷人の意識は窺われないのである。素堂や甲斐と関係の深い人達や俳諧人、奏学者、詩人の間から素堂が甲斐の出身とする言は無い。
 代官桜井孫兵衛は度重なる洪水と排水のままならぬ状況、地元民の困窮と田畑の不作に思い余って工事の至急着工を幕府に促した。そんな行き詰まりの中、孫兵衛は素堂に懇願し翁の助言に依り幕府も着工を決める。(『甲斐国志」による)こうした事は孫兵衛より業堂が幕府に対して立場が上位だった事になる。その素堂が孫兵衛の「手代」になって工事の指揮に当ると云うのは考えにくい。孫兵衛の親族である斎藤正辰の「碑文」にも素堂の名は見えない。又、地元の人々が建立したとされる桜井霊神・山口霊神の生碑も、桜井霊神は有った事は実証されているが、これも生祠ではない。山口霊神については資料には見えず、否定されてもいる人もいる。
 (『文学と歴史」・第六号、「甲斐の和算家」四・山口勘兵衛の項 弦間耕一氏著に、加藤玄智博士の談として記載)
 筆者の調査では、素堂死去(享保元年)から『甲斐国志」までの間の書物には「濁川改修工事と素堂翁」を結びつける記述のあるものは未だに目にすることは出来ない。『甲斐国志」の素堂の項は他の項と比べて突出して記述内容が異なっている。推論ではあるがこれは『甲斐国志」の編纂者の中に桜井孫兵衛の関係者、もしくは斎藤正辰の家系に含まれる人物が居たと思われ桜井孫兵衛の業績を際立たせる為に記述したものと推察も生まれ、当時の忠孝、忠義の時代背景も大きく影響して「人のためにつくす」ことの大切さを記述した書が多く、勿論『甲斐国志」の編纂者にもそうした意図が有ったことは否めない。時の代官は管轄する地域の年貢取り立ては厳しく業績が上がらないと致任に追いやられことは屡々で、幕府に納める年貢の不足分は自前で充当する事もあった。地域住民の為の行為としてより、年貢の安定確保と拡大こそ代官の使命であったのである。
素堂の紹介『國文學』 解釈と鑑賞 昭和三十年発行。松本義一氏著 素堂  
 山口素堂は寛永十九年五月五日(一説に正月四日)甲斐北巨摩郡教來石字山口に、郷士山口市右衛門の長子として生まれた。名は信章、字は子晋また公商、通称は勘(官)兵衛といった。初め來雪と號し(延寶六年初見)、後素堂と改めたが、(同八年)それは堂號素仙堂の略で、隠棲後の呼名素道と音の通ずるところから俳號に用ゐたものといはれてゐる。別に信章斎、松子、蓮池翁とも號し、且つ茶道の庵號として今日庵、其日庵等があつた。享保元年八月十五日、武蔵葛飾に於て病歿。享年七十五歳、法名廣山院秋厳素堂居士、遺骸は上野谷中感応寺中瑞院に葬られたが、別に小石川指ケ谷厳淨院に山口黒露の建立の墓があり、元禄九年故郷甲斐濁河の治水に、代官櫻井孫兵衛政能の懇願によって助力したので、里人その恩に感じ、後年蓬澤に祠を營んで山口靈神と稱してゐるのである。
山口家は彼の少青年の頃、甲府に移り、魚町西側に居を構へ、酒造業を營む富商として、時の人から山口殿と稱せられゐた。
 彼はかゝる境遇に恵まれつつ好學の若き日を送つたが、寛文の初年頃であったらうか、遊學のため江戸へと志した。家督を弟に譲ったいふのもこの頃であったと推定される。  
江戸では林羅山の第三子春斎より經學を授けられ、京へ赴いて和歌を清水谷家に(或は持明院家ともいふ)書道を持明院家に學んだといはれる。かくて延寶年間、何かの公職に就いてゐたらしいが、同七年の頃、職を辞して上野不忍池畔に退隠した。その剃髪も改號(素堂)も、この時にかかはりを持つものであったらしい。
 
 ともあれ、ここに隠士素堂の生活が開始された。彼は更に閑居を葛飾の阿武(あたけ) に移した。不忍退隠後は、漢詩・和歌・俳諧・書道・茶道(宗旦流)・香道・猿樂(寶生流)・等に瓦つて廣く樂しみ、葛飾へ移住後は、葛飾隠子、又は江上隠士として悠々隠逸の境に徹し、庭池に蓮を植ゑ、菊園を造り、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」といつた、京都東山隠士木下長嘯子の言葉をあはれみ(芭蕉『嵯峨日記』)ひたすら簡素・静閑の世界に端然と起居したのであつた。
 
 けれど、至孝を捧げた母を失ひ、且つは小名木川を上下して親しく交渉したる芭蕉をも引續いて失つてからは、とかくこの閑居を出ることが多くなつた。即ち、元禄八年には父母の展墓のため甲府に歸り、身延に詣で、その翌年も甲府に赴いて濁河の治水に努め、爾後、東海道を西へ、京都を中心として、山城・近江・伊勢・尾張等への旅を屡々試みてゐるのである。而も千年の古都京の風光を酷愛し、その地に居を移さうとする心持さへ抱いてゐた。
 その老後には、瘧を煩つて危篤に瀕し(寶永七年か)、正徳三年の師走には火災にあつて翌年の新春を他郷で迎へ、また山口本家が零落するなどと、人生の不幸を味つたが、それやこれやでその生活は不如意であつた。だが彼は清貧のうちに身を高く持してゐたもののやうであつた。
 素堂の俳壇への登場は寛文七年(時に廿六歳)、加友撰の『伊勢踊』で「江戸山口信章」として五句入集してゐる。もとよりその句振りは           
   かへすこそ名残おしさは山々田  
 
といつて具合に、貞門風そのものであつた。かくて延宝二年十一月には上洛して季吟以下の歓迎百韻の席に臨んでゐる(『廿日會集』)。けれど翌年五月には、大阪より東下して談林風を鼓舞してゐた總師宗因を中心に、桃青(芭蕉)らと百韻興行に参加し、新風への關心と接近を示したのであつた。時に彼の周囲には桃青あり信徳あり幽山ありで、「江戸両吟集」(同四年)・「江戸三吟」(同六年)・「江戸八百韻」(同年)と、談林讃美の心から、談林風の俳諧をものし、甚だ熟情的に活躍した。
 當時の彼の俳句、「江戸新道」(同六年)所収。
 
かまくらにて
 目には青葉郭公はつ鰹   
は諸書にも採録されて、彼の作品中最も有名であるが、古歌以来の初夏の風物として青葉と郭公に更に鎌倉名物の初鰹を添へたものである。
 最初の「目には」・で、以下「耳には」・「口には」を類推させるあたり、談林作家としての彼の得意の程が思はれる。その軽快の調べと、江戸っ子の愛好した初鰹のあしらひとが、初夏の清新さを表現して、大衆の人気を獲得したのであつた。延宝に於て芭蕉と交渉を持った素堂は、天和に入ると愈々その親交の度を加へて行つた。當時は所謂虚栗(みなしぐり)調流行時代で、それは芭蕉の新風開發の劃期的まものであつたが、その漢詩や和歌を取り入れた佶屈な句作りは、漢學や古典の教養深き素堂の得意とするところで、ここに再び彼の制作熱が燃え上り、新調のよき支持者となつたのである。
 
荷興十唱(中一句)  
 浮葉巻葉此蓮風情過たらん (虚栗)
この句の「蓮」はレンと音讀せねば一句の趣きがないと芭蕉は評したが(『草刈笛』)、それはこの句全體の格調が破れてしまふからである。一句としてよりも生硬を免れ得ぬものの、彼一流の高致の気概が内在する。 貞享から元禄にかけて、その閑居葛飾が深川の芭蕉庵に程近い關係からか、芭蕉一門との交渉が益々繁くなつた。
 貞享度はもとより『冬の日』・『春の日』が公にされて蕉風の確立を見たが、これに續く其角編の『續虚栗』(同四年)の序に於て、
 素堂は、景情の融合を望み、
更に『時の花』・『終の花』の論に及び、
 時の花は一時的興味的美であり、終の花は永遠的生命的詩情であると、
 蕉門の不易流行説の先驅説を述べてゐるが、當時の彼は自然を凝視し静観する制度に立って氣高き幾つかの作品をうたひ上げた。      
雨の蛙聲高になるも哀也  (貞享三年・『蛙合』)   
春もはや山吹しろく苣苦し (同四年・『續虚栗』)   
 かくて世の聲望を得つつ元禄期に入り、その三四年に至るまで、相當數の作品を制作したものの同五年の沾徳撰の『一字幽蘭集』の序文に於て、彼は、
自己を絶對視して他の排撃することを避け、是非・新古は畢意鑑別しがたく、俳諧の風體は推移に任すべきである
と、主義主張にかかはらぬ自由の態度を示すに至つた。これは、一門の總師として、この一筋に繁がり、ひたぶるに新味を追求し、新風を宣揚したやまぬ芭蕉の生命を賭しての俳諧態度とは全く對蹠的で、清閑の世界にその多趣味を樂しみつつある隠逸者の性格と生活の自づからなる歸結であつたのであらう。この態度はその命終に至るまで變る事が無かつたが(『とくとくの句會』自跋参照)、かくて彼自身の制作熱が微温的となり、而も俳諧の良友たる芭蕉を失つてからは、愈々それが低下の一路を辿つて行くのであつた。
 だが彼は寛文以来長きに瓦る作家であり、且つは高潔の人格と和漢の深き學識の故に、人々の尊信を得つつ、依然として俳壇の高き位置を占めてゐたのであつた。
 彼と芭蕉との交渉に就いては記すべき多くの事柄もあるであらうが、ともあれ彼は芭蕉より二歳の年長とはいへ、彼の及び難い芭蕉の俳諧的力倆を畏敬したことであつたし、芭蕉も素堂の學識と人格を尊重しつつ、彼の俳諧を推進するに當り、素堂の心からなる支持に多分の喜び力と得たことであつたに相違ない。
 真実二人はこよなき俳友であり心友であった。
素堂の俳系は門下の長谷川馬光(素丸)に継承され、彼は葛飾正風の開祖と稱された。もとより彼はさうした意識はなかつたのだが、かく開祖と仰がれるところに彼の徳望の自づかからなる現はれであり、のみならず、葛飾蕉門がその後長く栄えて行つたことはまことに慶祝であつた。彼の句集には、荻野清氏の好著「元禄名家句集」中の素堂篇がある。(大分大学教授)

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