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2009年9月1日に『横道坊主』中村義人さん、上田和史さんライヴに
白葉がゲスト出演いたします。
故・槙 健一さんを偲んでのライヴです。
上田さんの槙さんへの思いを紹介させていただきます。
また、ライブ詳細は白葉ホームページ・インフォメーションをご覧ください。

http://www.i-hakuyo.com/

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さて、不肖、私'上田ウッピー和史'と槙健一との最初の出会いは、さかのぼる事かれこれ10年前、'93の暮れに、彼のデビューアルバムのレコーディングの為に向かった湘南のレコーディングスタジオで訪れたのでした。

彼の華蕃なその容姿から、私は色んな意味で彼の線の細さを、危惧していたのですが、作業を重ねて行く内に、デビューと言う日を迎えるまでに積み重ねて来た、彼の苦労と、彼の音楽に対しての思いと、そしてこれからプロとしてやって行こうとする夢に満ちあふれた視点を見据えた一人の青年の様々な気持ちが、熱さが、僕には、ガンガン伝わって来て、何とかこの人のこのアルバムを、ただ単にお仕事で呼ばれて、ギターを弾きに来た人の作業で終わるんじゃなく、何とかしてめちゃくちゃ良いアルバムに仕上げたい!という気持ちで、頑張った日々を思い出します。

そして、制作の仕切りの中、彼はプロデューサーやアレンジャーと言った今まで出会った事のない人種の人に出会い、自分の作品がああでも無い、こうでも無い、とかいってどんどん変えられて行く時に、言い様のない表現の出来ない迷いの表情になっていました。
そんなときに、僕が彼に掛けた一言が、彼と僕との付き合いの深さの歴史の1ぺ一ジの始まりだった気がします。
その一言とは、“お前は周りの人に変に気を遣い過ぎてて、自分を見失ってる。そんな優等生な、あたりさわりの無い歌い手じゃなく、何年も掛けて積み重ねて来たお前の苦労を、思いを、こんな訳の分らん奴らに、左右されたまま、一度しか無い人生のデビューのアルバムに、絶対に、悔いを残すな!!”でした。

その気持ちを受け取ってくれた次の日からは、彼は、自己表現を、はったりでもなく、虚勢でもなく、今日、今、現在有る自分を、何のてらいも無く、これだけのものしかないけど、これを、本当にまっすぐに表現したいという姿勢に変わりました。
そして、その姿勢と気持ちを僕は、僕で、自分の持ってる全てをギターの音で出して支えてあげようと思いました。そして、そのアルバムの制作作業が終わり、デビューを迎え、キャンペーンに出る時に、良く有る話ですが、最初は予算が無いので、アコースティックな少人数編成でという話になった時に、絶対に、僕のギターで唄いたいと、指名をしてくれました。

Vocalist から、この人のギターじゃ無いと歌えないと言ってもらえるのは、歌ものが大好きでギターをやってきた僕にとっての最高の勲章でした。
そして、お互いの思いを、良い物を作る為にぶつけあい、時に、喧嘩もし、わかり合い頑張りあえた日々でした。でも、そうこうする内に、デビュー前から抱えてた病気の、肺に穴があく病気の肺気胸が、再発し、片肺が開いては治療し、そしたら、もう片肺も空き、そして両肺とも同時に空いたら、死んでしまうので、肺がそんな時の為に、耐えられる様に、しぼまない様に、薬で肺を内臓壁に癒着させるというくらいの状況をしてまで、でもこれからアーティストとして活動する為にその病気の事は、痛みは、公にはファンの人の前では一切明かさず頑張ってました。

Vocarist にとって、肺の病気は、どれほど、辛かった病気かは、皆さん、想像がつきますよね。(肉体的、精神的に、、、)でも、槙は、自分を表現する手段として、歌しか、無かったので、唄い続けようとしました。
がしかし間が悪く、2ndアルバムが出来上がり、さあ、これから、と言うキャンペーンの時に、良い物が出来上がったのに、キャンペーンに回れずスケジュールに穴を空けてしまったという経緯等から、プロシンガーとしての活動が出来ないでいる健康状態の槙に、ビクターが契約の続行不可能を言い渡しました。

悔しかったと、思います!!!、、、本当に、、、

でも、マイナス指向でなく、取りあえず人間何をするのも体が一番と言う事で故郷に帰って、環境の良い所で、空気の良い所で体を直す事に専念しようとしました。

でも、彼の創作活動の意欲は長崎にいても沸々と沸き上がり、こんな曲を書いたとか言っては、良く僕に電話をくれたりしてました。そして、じゃ長崎に居て少しでも良くなったのなら、俺が長崎に行くからといって、その時してた中山美穂さんのツアーが終わるや否や、すぐに、ギターとシーケンサーを持って長崎に向かったのでした。

いわゆる、RED(Real Emotion Drive)の誕生でした。

そして、メジャーレーベルで、出来なかったうっぷんを、本当に自分が何も気にせず表現できる音楽表現を目指して、槙と僕との作曲、アレンジ、そしてレコーディングの作業が始まりました。





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