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ボクの擬人化日本史
各時代の擬人化家庭教師と現代っ子との歴史雑学

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番外編(伊豆2・シーラカンス)
 
前回に引き続き、旅行記を投稿します。
今回は日本史ではありませんが、僕の好きな古代生物というジャンルに関する記事となりますので、ご興味のある方はお付き合いください。
 
 
小学生くらいの頃、新聞の日曜版で衝撃的な写真を見つけ、目が釘付けになりました。
恐竜や地球創生に関心があった時期の僕にとって、古代生物が生きた時代から姿を変えずに生き続けた深海魚がいるという記事は心躍るものでした。
その日、僕はシーラカンスという生き物を初めて知りました。
その時からずっと、大人になってもずっと、シーラカンスという生物に魅了されたままなのです。
 
1938年12月のある日、南アフリカの小さな博物館に「奇妙な魚があがった」と言う連絡が入ります。
電話を受けたラティマー女史は現場へ向かい、見たこともない形状の謎の魚を持ち帰り調べますが、何者なのが判断ができません。
そこで魚類学の権威であったスミス博士にスケッチを送り、7500万年前に絶滅されたという魚であると判明したそうです。
餌を探すために比較的浅瀬まで浮上することで、時折網にかかっていたシーラカンスは、地元民からは「まずくて食べられない役立たずの魚」と呼ばれ捨てられていたそうです・・・その魚が、3億5000年を生き抜いた奇跡の生物とも知らずに。
 
 
伊豆へ旅行する計画を立てる際、沼津港深海水族館シーラカンス・ミュージアムという施設があると知り、どうしてもそこへ行くと言い張りました(千葉から向かい、予定していた熱川や下田と別方向ですが)。
 
鎧のようなコズミン鱗という硬い鱗に覆われ、170cm80kgの体に約5gの脳、足で歩くように動く胸鰭や腹鰭、卵ではなくお腹で孵してから稚魚を産む・・・ビックリすることだらけでした。
背骨もなく、脊柱と言われるホース状の管が体の芯を支えているそうで、手触りはプラスチックに似てました。
そしてここで、本物のシーラカンス(剥製)とようやく対面できました。
飽きてしまって沼津漁港の観光へ行きたがる家族を無視し、写真を撮りまくり、ガラスにへばり付いて見とれてしまいました。
「シーラカンス」はギリシャ語の「空っぽの脊柱」が由来だそうです。
カッコいいです!深海の神秘です!
 
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2回にわたり伊豆旅行記の記事を投稿しましたが、次回からは通常通りの内容に戻ります。
マニアックなチョイスでスミマセン、僕の自己満足の回でしたね。
またどこか旅先で勉強することがありましたら、未熟な文章とイラストで精一杯ご紹介させていただきます。
 
 
このブログは、日本の各時代を僕の解釈によって擬人化し、歴史雑学を分かりやすく楽しめるようにしたエッセイで、登場するのはすべて擬人化された時代で、名称もその時代です。
更新は月曜と木曜を予定しています、次回は月曜です。
 
番外編(伊豆1・唐人お吉)
 
先週行った、伊豆での旅行記です。
下田の開国関連の史跡と、沼津や熱川の爬虫類系動物園での体験記を、今回と次回の2記事でご紹介していきたいと思います。
 
 
黒船来航後、日米修好通商条約の締結と、初代領事の就任のために来日したタウンゼント・ハリスという人物を、手塚治虫の「ひだまりの樹」で読んで知り、いつかその縁の地を巡ってみたいと思っていました。
そこで驚いたのは、作中の登場人物の「お吉」という女性が実在していたという記録でした。
「唐人お吉」という小説や映画でご存じの方もいるでしょう、その女性です。
 
日本での慣れない生活に体調を崩してしまったハリス領事は、幕府側に「看護婦」を付けてくれるよう頼みます。
しかし、医学も未熟な上に「看護婦」という概念のない日本人には、「身の回りの世話と肉体的な奉仕も可能な女性=妾」を要求しているのだと誤解してしまいます。
そして白羽の矢が立ったのは、当時下田で人気のあった17歳の斎藤きちでした。
すでに婚約者のいた彼女は要請を断りますが、他に引き受けてくれる女性がいないと言う役人たちに負け、仕方なく奉公することを了承します。
 
ハリス領事は幕府側の誤解に立腹しますが、体調が回復するまでの3ヵ月間、侍女として彼女を雇うことにします。
その時の報酬がわずか3ヵ月(実際には2ヶ月と数日)にもかかわらず高額であったことと、「金と引き換えに異人に肌を許した恥知らず」という噂のため、奉公明けは、周囲の人々から「唐人」「らしゃめん」と罵られるようになり、まともな暮らしも長くは続かずに酒に逃げるようになってしまいます。
最期は自ら川に身を投げて命を絶ちます・・・
年配のハリス領事とは逆に、妾を必要としていたのは通訳として雇われていたオランダ人・ヒュースケンの方で、まだ21歳と若い彼は、数人の日本人女性に手を出していたそうです。
ちなみにヒュースケンは外出中に攘夷派の一団によって暗殺されてしまいます。
 
 
「ひだまりの樹」はフィクションではなく、史実に基づいて描かれているのだと、改めて読み返したくなりました。
鎖国の影響で外国人に対して偏見や怖れを抱いていた日本側の様子や、諸外国が日本とどのように接していたかなどが、下田の開国博物館に残されてます。
黒船が太平洋側からではなく、インド航路を回ってやってきたということも初めて知りました。
幕末に詳しい方からしたら勉強不足な記事であることは承知していますので、ご指摘などはお手柔らかに・・・
 
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前回もそうですが、どうも幕末ネタになると内容が暗くて重めになってしまってスミマセン。
斎藤きち以外にも、吉田松陰や長州ファイブなどメジャーな資料もあったのですけど、僕的には滅びゆくモノの方に美しさと魅力を感じてしまうので、勝者の華やかさが苦手で・・・
 
次回も旅行記の続きを投稿します。
けれど、ちょっと(だいぶ?)「日本史」とは路線が違います、僕の趣味は全開ですが。
投稿は月曜と木曜を予定しています、次回は木曜です。
 
 
番外編(会津2・白虎隊)
 
先の記事の続きです。
鶴ヶ城から3キロほどの距離にある飯盛山の中腹に、僕の一番行きたかった場所があります。
白虎士中二番隊が火にまかれる城を仰ぎ、「もはやこれまで」と自害した斜面です。
そこで自害したものは白虎士中二番隊42名のうち、飯盛山までたどり着けた20名、うち一人蘇生するので19名で、彼らの埋葬された墓と慰霊碑があります。
この時、ただ一人命をとりとめた飯沼貞吉さんがいなければ彼らの悲劇は後世へ伝わることはなかったのです。
 
戊辰戦争が勃発し、本来予備の部隊として編成されていた少年である彼らまで戦場へ向かうことになりました。
装備していた銃も旧式で、刀さえ(前回も書きましたが)正規の刀より見劣りするモノでした。
武士の息子として日新館で学んだ少年たちは、銃剣の訓練だけでなく、忠義を貫き、そのために全身全霊で戦い死ぬことを学んでいたのでしょう。
16歳から入隊が認められましたが、生年月日を改め15歳で入隊した者、中には13歳で志願した者もいました。
 
そんな彼らが、傷つきながらも必死に山中を駆け抜け、目指した城が炎上している様を見てどう思ったでしょう。
 
正確には城が焼け落ちたのではなく、城下に火が回っているのでしたが、見誤るほどの極限状態のせいで、言い表せない絶望感に襲われてしまったことでしょう。
少年たちの中には、どうせ死ぬなら玉砕覚悟で城へ加勢に行くという者もいたそうですが、満足に戦える装備もなく足手まといになるだけと、そして敵に捕らえられ生き恥をさらすくらいなら潔く自決しようと決まったそうです。
自ら腹を突いた者、余力がなく立てた刀に倒れる者、幼馴染同士で斬り合う者・・・
今の同世代の少年たちに、そこまで純粋に懸命に生きられる情熱はあるのでしょうか?
 
僕が新政府軍に嫌悪を持っていた理由の一つに、戦後の処置があると先の記事でも書きましたが、彼らへの仕打ちも我慢がならないことでした。
官軍として戦った新政府軍の戦死者は靖国神社へ祀られ慰霊されますが、旧幕側だった白虎隊や彰義隊などは「朝敵」「賊軍」として埋葬することさえ許されず野ざらしにされ続けたそうです。
見かねた地元の寺が哀れに思い密かに仮埋葬をしたのだそうです、密かに、です。
思想が違っていたとしても、敗者にここまで非常な行いをする新政府側が嫌いでした、が、やっつけの同盟も政治的な派閥で結局は争うことになるのですが・・・
 
前回に続き、重苦しい内容で申し訳ありません。
明日からはまたお気楽でゆるゆるしたエッセイに戻りますのでご容赦ください。
 
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あ、ちなみに僕は大河ドラマを観ていないので、八重推しの町内には少々閉口しました。
番外編(会津1・鶴ヶ城)
 
先日、福島県の会津若松へ旅行へ行きました。
目的は白虎隊に関する史跡めぐり・・・修学旅行のルートのおさらいです。
小学生の頃、友人が何かの舞踊で「白虎隊」を披露した舞台をきっかけに、幕末、特に旧体制側に付き「賊」として打たれていった人たちに興味を持つようになりました。
新撰組、白虎隊、彰義隊・・・
時間制限や団体行動でザックリとしか見学できなかった会津を、僕はもう一度気持ちの赴くままに散策しました。
 
真っ先に鶴ヶ城(正式には若松城)へ向かいました。
急な夕立に濡らされて入った城内で、僕の印象に強く残った展示品を二つご紹介します。
一つ目は、砲弾に撃ち抜かれ、半壊状態となった天守閣の当時の写真です。
実際に撃たれた砲弾や、弾丸の傷の残る鎧や防具も一緒に展示されていて、見入ってしまいました。
この壮絶な城内で女性たちは砲弾に動じることなく、ケガ人の救護や食事の支度、武器の手入れなどをしていたそうです・・・もちろん、その父や夫、息子も離れた戦地で戦っていたことでしょう。
 
二つ目は、脇差(わきざし)です。
武士のことを日本差(にほんざし)というのは、大刀と小刀を二本差しているためで、小さい方を脇差と言います。
会津藩が組織した部隊で最年少の白虎隊は、戸主ではない息子たちで編成されていたので、家の中で一番良い刀ではなく一ランク落ちる刀を帯刀していたそうです。
まだ小柄な彼らには脇差ほどの大きさのほうが使い勝手がよかったのでしょう。
その少年たちが、大人と同じように戦い、近代的な武器で殲滅されていったことに胸がつまりました。
 
家老に反対されますが、幕府側の要請に押し切られ京都守護の役目についた会津藩主・松平容保は、新撰組も組織し、京都の治安維持に務めます。
けれど天皇と将軍が相次いで亡くなったのち、薩長に影響を受けた天皇や公家たちによって、わずか数年で朝敵として成敗される側になってしまいます。
 
旧体制が滅び、新時代への過渡期には少なからぬ犠牲が出ます。
学生の頃は忠義を貫き命を散らせた幕府側に感情移入しすぎ、攘夷志士への仕打ちの報復をするような新政府側に嫌悪することさえありましたが、今はどちらの生き方も理解しようと考えることのできるまで、なんとか成長できました。
でも正直、納得できない事もいくつか残っています。
会津戦争後、故郷を追われた会津の人たちも相当ご苦労されたそうです。
「もう昔のことだし、水に流しませんか?」とは、部外者が軽々しく言えるものではないのだと、城内の資料を読めば分かります。
 
いつもコメディー調のエッセイだったのに、少し難しい内容になってしまってスミマセン。
言葉を選んで、なるべく重すぎないように書きましたが、難解で面白くなかったかもしれませんが、「そんなことがあったんだ」と少しでも知っていただけたら幸いです。
 
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