梢のぶつぶつ

最近は高い木が少なくなったけれど、それでもこうしてとまっていると遠くのものも見えてくる。

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「事故が作り出した影の中で、
ひっそりと生きてきた『福島の50人』」
ジャスティン・マッカリー / ザ・ガーディアン(英国) 
1月11日

 
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【 今語られる、福島第一原発の地獄 】〈第3回〉[ 福島の50人 ]

↑より転記↓画像拝借
 
 
▽ 喪・失

危機が始まって最初の二週間、
現場の作業員は2日分の水として
500mlのペットボトル1本だけを与えられました。

「2週間ぶりでカップ一杯のコーヒーを飲むことが出来ましたが、
何とも素晴らしい味がしました。」

長時間労働、貧しい食事、そして慢性の睡眠不足が、現場にいる人々の健康を徐々に蝕んでいきました。
吉澤さんも急激に体重が減り、血圧が異常に高くなりました。

2011年12月、
政府が福島第一原発の事故を起こした原子炉が
『冷温停止状態』に到達したと宣言するまで、
吉澤氏と彼の同僚が以前と変わらぬ規則的な勤務を行った日など、
1日もありませんでした。

事故発生から約2年、
福島第一原発の現場に留まり続け、
事態がそれ以上悪化しないよう懸命の戦いを続けてきた男は、
福島第一原発の事故後この国を支配する微妙な空気の中で、
居心地の良くない思いをしています。

2010年に発生し、暗い穴の中に69日の間閉じ込められ、
生き延びたチリの鉱山労働者は英雄とたたえられました。

一方、福島第一原発の現場で戦った多くの労働者が、
目には見えない事故後の影の中でひっそりと生きてきました。

東京電力はインタビューの申し入れのほとんどを却下します。
これまで公の場でコメントをしたのは、大勢の関係者のうち、たった2人だけでであり、それも匿名が条件でした。

ほとんどの関係者が口をつぐむことを選択しました、一緒に戦った仲間たちが暮らす世界からひとり追放されることを恐れて。
 

彼らは懸命の戦いを挑みましたが、
一帯を放射能汚染にまみれた場所にしないための戦いに
勝つことはできませんでした。
 

今後数年間、否、数十年間、
 
この場所は
汚染されたままの状態続くでしょう。

吉澤氏には人々の怒りが解っていました。
「概ね日本の人々は、
私たち東京電力が事故を起こしたと考えています。
私たちもそれを心にとどめておく必要があります。
私たち東京電力の職員は、
今回の事故の責任を取らなければなりません。
そして2度と事故が起きないようにしなければなりません。
それが人々の信頼を回復するための道のりです。
そのためにはしかし、ずいぶんと時間がかかるでしょう。」

「振り返ってみれば、
私たちの備えは充分なものでは無かったかもしれません。
しかし、事故が発生してからは、
私たちはできる限りのことをしてきたつもりです。」

福島第一原発における不適切な運営により事故が起き、
事故の収束にもずいぶん手間取っている、
そんな認識が
日本社会の隅々にまで浸透してしまっているようにも感じられます。

事故後1年8カ月たって、
当時の野田首相が福島第一原発の現場を訪れ、
『福島の50人が日本を救ってくれた』ことに対し、
公的に謝意を表しました。

そして今年の1月にも、
安倍新首相が同じパフォーマンスを繰り返したのです。
 

▽ 感謝
フクシマの50人に対し感謝を表すためのメッセージが、世界中から長きにわたり寄せられつづけ、福島第一原発で戦い男たちを支えてきました。
そうした感謝の言葉が書き込まれた巨大な日本の国旗が、中央制御室の壁にも貼られています。

昨年10月に訪れた野田首相が福島第一原発にとどまっていた時間は、
わずかに1時間でした。

吉澤氏はこう語ります。
「私自身は自分を、ヒーローだなどと考えたことはありません。でも世の中の人々が私たちのしていることに感謝してくださっている、それを聴いたときは素直にうれしいと思いました。」

彼が事故後急きょ福島第一原発の現場に戻り、
一カ月余りを過ごした際の報告は、
『フクシマの50人』の知られざるヒロイズムについての
最も信頼すべき情報かもしれません。

家族と2、3日を共に過ごすために、他の何人かの作業員とともに福島第一原発を後にした際、吉澤氏は彼に来ているものを脱ぎ下着姿になり、義務づけられた放射線量の測定を行いました。
そして体に合わない、
彼には大きすぎる上下揃いの運動着に着替えました。
彼の髭は伸び放題で、4週間もの間ふろにも入らず、シャワーも浴びることが無かった髪の毛はもつれあったまま、
皮膚にべったりと貼りついていました。

数時間後に、彼らの乗ったバスが東京駅に到着しました。
それから彼らはめいめいの自宅へ向かう電車へと乗り込んでいきました。


「我々の姿はきっと胡散臭いものに見えたにちがいありません。
長いあごひげと見るからに不潔な髪の毛、
体に合わない運動着を着てバスから降り、
多くも無い荷物をビニール袋に入れてぶら下げて歩いていましたから。」

「私たちが駅構内に入ると、一度私たちの方を見た人は、二度と視線を向けようとはしませんでした。まるで福島第一原発の事故など無かったかのように、東京駅の構内は普段と変わらない様子でした。電車に乗って座席に着くとすぐ、誰も私の隣に座りたがらないことに気づきました。」

吉澤氏は自身の累積被ばく線量を明かそうとはしませんでした。

彼は被ばく線量が異常な値であることは認めましたが、
福島第一原発で2度と働けない程高い訳ではありません。

「私は自分の健康について心配することはもう止めました。」
 

吉澤氏は福島第一原発を離れた後、
たった一度だけカウンセリングを受けただけです。
「他の人はもっと頻繁にカウンセリングを受けているようですが、
大事なことはだれか隠し立てする事無く、
話ができる相手を持つことだと思います。」

「でも私は自分を欺くことはできないし、もう以前と同じ自分には戻れないでしょう。東京電力の社員として、また同じ生活に戻ることは不可能です。」
 

日本の人々の意識の中から、
『フクシマの50人』の姿がゆっくりと消え去ろうとしています。
 

しかし、
 
もし彼らが
 
事故の真っただ中に
 
 
留まり続けることが無かったら、
 
福島第一原発はさらにひどいことになっていた可能性がありました。

 
 
『フクシマの50人』が
そこで過ごした時間について忘れることはありえない、
彼はそう語りました。
 
「私たちの間には、特別な絆が出来ました。」
吉澤氏が語りました。

「言葉で表現することはできませんが、互いを強く思いやる、同じ戦場で戦った戦友同士のようなものだったと思います。」

「私たちの場合、
敵は原子力発電所でした。
 
私たちはその敵に、

転載元転載元: 模型飛機

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【 今語られる、福島第一原発の地獄 】〈第1回〉[ 福島の50人 ]

↑より抜粋転記
 
 
「自分たちのすべてを犠牲にする事を求められた、神風特攻隊のような気持ちでした。」

チェルノブイリ以来最悪の事故がもたらした放射性物質をどうするか、苦悩が続く日本で、福島第一原発のスタッフたちは誰の目にもとまることなく事故の影の中で生きている。
東京電力の職員、吉澤厚文(よしざわあつふみ)氏がこう語りました。

ジャスティン・マッカリー / ザ・ガーディアン(英国) 1月11日

胸ポケットに会社のロゴが印された青い作業服に身を包んだ
吉澤厚文氏は、一年の大半を過酷な戦いの連続の中で
過ごした人のようには見えません。
しかしそんな彼自身の口から語られたのは、
日本史上最悪の原発事故の真っただ中に留まり、
自分の命を危険にさらしながら働いた現場の技術者、特殊作業担当者、自衛隊員、そして消防士たちの物語です。

世界のメディアは彼らを
『フクシマ・フィフティーズ / 福島の50人』と名づけました。
しかし、福島第一原子力設備で3基の原子炉のメルトダウンに対処するため、その場にいた作業者の実際の数は数百人に上りました。

彼らは、この巨大災害の英雄になりました。
世界は彼らの勇敢さと献身的な行動に賛辞を贈りつづけました。

そして、その割を食うように、何ら有効な手立てを持たない日本の原子力行政にたずさわる人間たちと政治家に対しては、世界中から批難が浴びせられました。

しかし日本国内にあっては、『フクシマ・フィフティーズ / 福島の50人』の人々の名が知られることはほとんどありませんでした。
何割かの人々は、英雄として脚光を浴びることを潔しとはしませんでした。
しかし[ 福島の50人 ]の中で一番多かったのは、チェルノブイリ以来最悪の原子力事故を引き起こし、放射性物質をまき散らし、政治的な問題まで引き起こした福島第一原発に関わっていたことにより、何者かに報復されることを恐れていた人々だったのです。

数少ないインタビューのひとつとなった会見の中で、吉澤氏は危機が登勢のように展開したのか、そしてなぜ自分を英雄とは思えないのか、胸の内を明らかにしました。

2011年3月11日の午後、マグニチュード9.0の地震が東北沿岸を襲った時、吉澤氏は2つの事だけを考えていました。
自分は決して逃げない、そして死ぬことは無いだろう。

最初の強力な衝撃が見舞われたとき、54才の原子力技術者は
福島第一原発における勤務シフトを終えようとしていました。
凶暴な揺が襲い、天井からパネルが次々と剥がれ落ちました。

発電所の主制御室の外の廊下に居た吉澤氏は、
自分の机の近くにあるシェルターに行くこともままならず、
その場にしゃがみ込むしかありませんでした。

「何とか態勢を建て直して窓の外を見ると、地震のものすごい力で、駐めてあった車が上下にボンボンはねていました。そんな光景を見たのは、生まれて初めてでした。」
東京電力本社で最近行われたインタビューで、吉澤さんがこう話しました。

大学を卒業してすぐに東京電力の社員となった吉澤さんは、当日午後に福島第一原発内に居た6,000人の作業者のうちの一人です。
当時このうち約2,000人の人が、
6基の原子炉の立ち入り制限区域内で作業を行っていました。
吉澤さんの頭にとっさに浮かんだのは、東京の南郊、横浜市内で暮らす妻と2人の娘のことではありませんでした。
彼女たちについては、無事だと思うしかありませんでした。

彼が考えたこと、それは福島第一原発のほとんどの職員の家族が、
発電所近くに住んでいるという事でした。

▽ 津波

痩せて根金をかけている吉澤氏は、かつて東京の本社にいた時はネクタイにスーツ姿でした。
しかしこの時、一旦揺れが収まった後、彼は自分が部長を務める核燃料サイクル部門の部屋で、素早く放射線防護スーツを身に着け、
今後の対応をどうするか検討するため幹部職員が集まっていた、
耐震工事を施した避難棟に向かいました。

その場所で吉澤さんは、
予想もしない現実に直面させられることになったのです。

地震発生から一時間も経たないうちに、
福島第一原発が高さ3メートルをはるかに超える津波が襲われたと、
ニュースが何度も繰り返して伝えました。

伝えられた津波の高さは、福島第一原発の防波堤が想定する高さを、はるかに超えるものだったのです。

彼らがいた避難棟には窓が無かったため、津波が原子炉建に襲いかかる場面を実際に見た人間は一人もいませんでした。

行く手を阻むものすべてを根こそぎ押し倒し、何もかも飲みこんでしまった真っ黒な濁流を。

「私の耳に飛び込んできたのは、電気の供給に問題が発生したという報告でした、そして海の上一面に破片が浮かんでいるという報告も。」
吉澤氏が語りました。

しかし、進行していた現実はもっと恐ろしいものだったのです。

津波は福島第一原発の予備電源装置を破壊し、
発電所内は闇に包まれました。

そして闇より恐ろしい事態が発生しました。

もし吉澤氏がかろうじて助かった、そう思う事があったとすれば、
それは2機の原子炉、5号機と6号機が
すでに冷温停止の状態にあった事でした。
この2機は定期点検のため、稼働を停止していたのです。

しかし送電停止の状態が続けは、
残り4基の原子炉内部では核燃料棒が熱のために溶けてしまい、
大量の放射性物質の放出
つながる危険性があります。
そうなれば、放射性物質の飛散は福島の県境を越え、
はるか遠くにまで広がることになります。
引用終わり
 
↑より↓転記
 

▽ 撤退

この時点における状況について、当時の菅直人首相は、もはや打つ手が無くなったと判断した東京電力が、福島第一原発内の全従業員撤退の準備に入ろうとしていた、そう主張しています。
菅前首相は、撤退などすればその時こそ東京電力が終わりを迎える時だと周囲に語りました。

彼は2011年秋、辞任に追い込まれた後、
反原子力発電に立場を変えました。

後の回想によればその時がもっとも厳しい瞬間でしたが、
菅前首相は首都圏に居る3,500万人の人々の避難計画を作るため、
心の準備を始めました。

吉澤氏によれば、
東京電力による福島第一原発の総員退去の申し出が
東京において却下された、
そうした類いの話は前線で働いていた人の耳には
一切入りませんでした。
しかし、東京電力の下請け作業を行っている膨大な数の企業の中には、従業員に対し、
福島第一原発から撤退するよう命令した会社もあったのです。

彼らの家族もまた、
他の従業員同様、家族は津波に襲われた一帯、
あるいは福島第一原発の事故の影響を
まともに受ける場所で生活していました。

家族と連絡が取れた従業員は一人もいませんでしたが、
津波で家を流されてしまった従業員は
家族を探すために福島第一原発から帰宅して行ったのです。
どの部署においても、そこに留まる事を強制されることは無かった、
吉澤氏はそう述懐しました。

「私は部署を放棄するつもりはありませんでした。そこに留まり、状況を把握する必要がありました。従業員たちが自分たちの家族についてどれほど心配をしていることか、そう考えることはありましたが、自分の家族のことは思い浮かびませんでした。」
 
「私たちに代われるものが、誰もいないことが解っていました。留まる事を強制された人間は一人もいませんでしたが、その場にいた全員が、最後まで取り組み続けなければならないと解っていたのです。原子力発電所を守れる人間は、私たちだけだという事が解っていました。考慮の余地など無かったのです。」

吉澤氏にとって最もつらかったのは、危険な事故現場に部下を送り込むことだったと語ります。
福島第一原発は度々強い余震に襲われ、電気装置付近の水には感電の危険があり、そしてもちろん、放射線障害の危険性がありました。

津波が襲った翌日、福島第一原発の施設は2号機で起きた水素爆発により、再び大きく振動しました。
そして数日のうちに、別の2基の原子炉も爆発を起こしてしまったのです。

「何人もの作業員が水素爆発によって負傷しました。なのに危険な場所に戻るよう部下に命じるのは、本当につらい決断でした。
しかし吉田所長は誰にも、不可能なことをしろとは命令しませんでした。
そんなことをすれば、人命を危険にさらすだけだという事が解っていたのだと思います。
そうする代わり所長は、私たちが団結して事故処理に取り組めるようにしたのです。」

▽ 爆発

吉澤氏が福島第一原発から5kmの場所にある危機管理センターに移動したとき、つかの間の平安が訪れました。
しかし彼がその場所にいた間に、事故は一層深刻な様相を帯び始めていたのです。
 
加熱しすぎている燃料棒の温度を何とか下げようと、現場では冷却水を原子炉内に直接流し込めるようにするための作業を続けていたのですが、2度に渡り原子炉建屋で発生した爆発により、すべての努力が水の泡と化してしまったのです。

危機管理センターに移動して3日後、吉澤さんとその同僚たちは、この上は福島第一原発の現場に再び戻る他は無いと思い定めました。
吉澤さんたちが再び戻ったことにより、福島第一原発の事故現場では消防士、警察官、自衛隊員、そして東京電力関係者が一体となって事故と戦うことになりました。

「第二次世界大戦中の特攻隊員のように、自分のすべてを事故処理に捧げる覚悟でした。」
その時の気持ちについて、吉澤さんはこう語りました。

「事故現場に居並ぶ人々は、多くを口にしませんでした。でもそこにいたすべての人々の表情には、生きては帰れないだろうという覚悟が表れていました。」

この頃から海外のメディアが吉澤さんたち現場で戦っている人々を『フクシマ・フィフティ / 福島の50人』と呼ぶようになりました。
実際に現場にいたのは数百人で、大気中を浮遊する放射線被ばくを極力少なくするためには、短時間で勤務を交代する必要がありました。

「『福島の50人』については耳にしました。しかし実際に居たのは数百人で、現場には私が考える以上の数の人々がいました。そして、誰もが覚悟を決めていたのです。」

続く何週間もの間、『福島の50人』たちは延々と繰り返される勤務シフト、頭のてっぺんからつま先まで覆う防護服を身に着けての長時間労働、そして放射線防護対策を施された建物の床で眠る不快な夜に耐え続けました。

災害規模は大きく、福島第一原発内の器材は何もかも不足していました。
ある場所では現場内を行き来するための防護服が不足し、一人一人の被ばく線量を計測するための線量計は津波に流されてしまっていました。
 

「通常なら外部に注文することが出来ますが、私たちがいた場所は原子力災害の現場の真ん中でした。しかも東日本全域が災害の真っただ中にあった当時は、誰も福島第一原発に近づくことなどできなかったのです。」
「あるもので何とか間に合わせるしかありませんでした。」

最初の内、口にできるものといえばビスケット、そして乾燥食品の類だけでした。
多数の自衛隊員が津波のがれきの中から遺体を探し出す懸命の作業を行っている以上、緊急時の補給を期待することなど問題外でした。
水も不足し、備蓄されていたカップ麺に入れるお湯さえなかったのです。

〈『 喪・失 』に続く〉

http://www.guardian.co.uk/environment/2013/jan/11/fukushima-50-kamikaze-pilots-sacrifice?INTCMP=SRCH

転載元転載元: 模型飛機

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