梢のぶつぶつ

最近は高い木が少なくなったけれど、それでもこうしてとまっていると遠くのものも見えてくる。

この国のこと

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戦時中と変わらない

この国の行政・思考法が
戦時中から
何にも進歩してない
ということを
端的に表す画像。

昨年
北朝鮮のミサイル危機を
安倍政権がひたすら煽っていた頃の
小学校、中学校での訓練の様子だ。

ダンゴムシになって身を守りましょう

イメージ 1

イメージ 2


バカか?




もうヤフブロもお終いに近いけど
ここ、読んどいてね。

メディアはN国の取り上げ方をよく考えて

一部抜粋転載

気に入らない発言は力尽くで封じるN国の素顔
 N国は、今月4日に投開票が行われた千葉県柏市議選挙に候補者を擁立。その選挙戦で立花氏が街頭演説をしている最中に飛んだ批判的なヤジに対する執拗な対応からは、一般市民に対して牙をむく彼らの素の姿が見てとれる。
 「嘘つき!」と一言叫んだ男性を、立花氏はマイクを持って追いかけ、「選挙妨害だ」などと詰め寄り、支援者らが取り囲んで口々に怒鳴りつけた。「参議院議員の立花孝志です」と肩書きをつけて警察に通報して警官を呼び、支援者が撮影しながら、どこまでも男性を追いかけ、タクシーを止めて乗り込もうとすると、それを妨害し、「私人逮捕」と称して身体を拘束し、罵声を浴びせた。道路を塞いでのこうした振る舞いに、通りがかりの女性が見かねて抗議をすると、N国の候補者や支援者は彼女に対しても怒鳴り、追い返した。
 しかも、一連の映像を「柏市議会議員選挙中に選挙妨害があり妨害者が逃亡を企てたので現行犯逮捕して柏警察に引き渡しました」というタイトルで、一般人である男性の顔にモザイクをかけることもなく、そのままYouTubeにアップした。
N国のYouTubeから、男性がタクシーに乗り込もうとするのを妨害するN国候補者
N国のYouTubeから、男性がタクシーに乗り込もうとするのを妨害するN国候補者
 ちなみに、この程度のヤジが犯罪に当たらないことは言うまでもない。
 このように、N国が気に入らない発言や質問をした人を力尽くで排除したり、「私人逮捕」と称して大立ち回りを演じたりすることは、この時だけではない。昨年6月の松戸市長選では、ごく当たり前の質問をした市民メディア関係者を追い回し、腕をつかんで転倒させ、けがをさせたりもしている。
 被害者は、フリーランスライターの畠山理仁氏に「N国は揉め事を起こして人気を取る。私を訴えようとして住所を教えた人に10万円の懸賞金をかけた。私は『えじき』にされた気がします」と語っている。
 けれども、大きなメディアはこうしたN国の”真の姿”を、まず報じない。


暴力が自由な言論を封じる。

そしてそれを大勢が囃し立てる。

言葉を
より過激な暴力に変えたものが
支持を拡大する。
内容はどうでもいい。
デマでも構わない。

一種のストレス発散で
その牙が向く場所にいなければ心地いい。
牙の向かない場所へ場所へと移動していけば
自然、力を持って叩く側の陰に入る。

やがて
正義も人の心もどうでもよくなる。
叩く側にいなければ
叩かれる側に回される。

イジメと同じ構図だ。

安倍政権の高支持率の秘密がここにある。
安倍政権はポピュリズム政権だよ。
そして、それをさらに先鋭化したN国党が登場し、
あれよあれよと言う間に拡大してゆく。

この国はかなり危ういところまで来てるよ。
いいかげん目ぇ覚ませよ?
ほんとに流血沙汰を経なければ
戻れなくなるぜ?




エヴァ貞本義行、くるり岸田繁まで…あいちトリエン“慰安婦像”攻撃で露呈した無自覚なヘイト、表現の自由の矮小化


エヴァ貞本義行、くるり岸田繁まで…あいちトリエン慰安婦像攻撃で露呈した無自覚なヘイト、表現の自由の矮小化の画像1 「表現の不自由展・その後」公式サイトより


あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」中止問題は、皮肉にも、安倍政権下の日本でどれだけ「表現の自由」が抑圧されているかを表してしまった。市民による展示中止撤回の抗議運動や署名も広がる一方で、本来、「表現の自由」を擁護する側のクリエイターの一部から、戦中の慰安婦問題を象徴する「平和の少女像」の展示等を批判する声が出ている。

 たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズのキャラクターデザインやコミカライズなどで知られる貞本義行氏が9日、こんなツイートをしたことが物議をかもしている。
〈キッタネー少女像。
天皇写真を燃やした後、足でふみつけるムービー。
かの国のプロパガンダ風習
まるパク!
現代アートに求められる
面白さ!美しさ!
驚き!心地よさ!知的刺激性
が皆無で低俗なウンザリしかない
ドクメンタや瀬戸内芸術祭みたいに育つのを期待してたんだがなぁ…残念でかんわ〉
 少女像を「キッタネー」と言い、韓国を「かの国」と表現するこの極めて露悪的なツイートには、一般ユーザーから差別性を指摘されるとともに、貞本氏のファンからも〈貞本さん、本気の発言ですか。その方向に行ってしまうのですか〉〈貞本さんからそんな言葉が出るとは!心底がっかりです〉〈長年エヴァのファンでしだが、ガッカリしました〉と失望の声が集まった。すると、貞本氏はこのように言い訳し始めた。
〈国籍差別も女性蔑視も自覚ないから、はぁそうですか? としか… 寧ろ日頃、助けて貰ってる身だから感謝しかないけどね… 社内にも友達にも後輩にも上司にまで韓国人や在日さんいるけど、皆んな基本真面目だし、いい人だから普通に意識もせず仲良く接してるしこれからもそうする〉
〈一昨年、プチョン映画祭招待されたのでノンギャラでサイン会やりました 去年は風邪でドタキャンになっちゃいましたが… 時間超過しても1人1人サインに添えてイラストまで描いて握手して アレ、差別意識あっら最初から断ってるでしょ? 違うかな?ま、もういいけどさ〉(引用者の判断で改行を省略した)
 貞本氏は「私にも韓国人や在日の友達がいる」と述べているが、実はこれは「I have black friends」と呼ばれる差別主義者が自分を正当化するためによくもち出す論法だ。「私には黒人の友だちがいる」「私には在日の友だちがいる」と豪語したところで、その属性の人に対する差別の感情がないという証明にはまったくならないし、社会に差別がないことを証明するものではけっしてない。実際、ユーザーから批判が殺到した貞本氏のツイートには、ネトウヨから同調の声が多く出ている。仮に「差別意識はなかった」としても、差別を煽動していることには変わりはないのだ。
 しかし、差別煽動は論外だとして、貞本氏のツイートで考えなければならないのは、前述の「キッタネー少女像」ツイートを批判され、こんな釈明をしていたことだ。
〈韓流アイドルも好きだし綺麗なモノは綺麗と正直に言ってます
造形物として魅力がなく汚い仕上げと感じたまでで生で見たら又印象違うのか?
モデルになった方がいるなら申し訳ない…
プロパガンダをアートに仕込む行為も全く否定しないけど正直
アートとしての魅力は俺には全く響かなかった〉
 ようするに、「平和の少女像」は「造形物として魅力がなく汚い仕上げ」で「アートとしての魅力」がない「プロパガンダ」だから批判したのだ、と貞本氏は言いたいのだろう。だが、この貞本氏のツイートには、いくつもの陥穽が潜んでいる。いい機会なので検証してみたい。

町山智浩が貞本義行の「キッタネー少女像」ツイートの差別性を喝破

 まず言っておきたいのは、「平和の少女像」の造形が美的に優れているかどうかは個人の感じ方次第ではあるが、これを「キッタネー」と差別的に罵る行為が批判されるのは当たり前だということだ。
 映画評論家の町山智浩氏は、一般ユーザーの〈貞本義行氏が例の慰安婦像を酷評した件で叩かれているが、あれを普通に芸術品としてみた場合、ぶっちゃけゴミ同然の価値じゃないの〉というツイートに対して、このように投稿している。
〈いや、像そのものはさておき政治的背景が嫌だと言ったほうがまだマシ。政治的文脈抜きに純粋に造形物として見た場合、あの像は典型的な韓国人少女をプレーンに描いたものでしかないので、それをゴミとか汚ねえと罵倒するほうが差別的。例えば黒人を写実した像に対してそう言ったらどう取られるか。〉
 まさに町山氏の言うとおりだが、これに対して貞本氏は〈尊敬してる町山さんに言われると辛いですね…〉と言いつつ〈今回の一件、米軍に轢き殺された少女の背景まで知りませんでした〉などとツイートをしている。“少女像はもともと米軍装甲車に轢き殺された少女の像としてつくられ、のちに慰安婦問題を象徴する像として転用された”というのは、数年前からネット上で流布している事実無根のデマだ(過去記事参照https://lite-ra.com/2017/12/post-3635.html)。
 いずれにしても、「造形物としての魅力」と「キッタネー」という言葉遣いには明らかに距離があり、やはり後者が差別煽動として批判されねばならないのは当然なのである。
 次に、「平和の少女像」が「プロパガンダ」(政治的宣伝)なのかどうかという点だ。たしかに、日本の安倍政権と韓国の文在寅政権が慰安婦問題で対立している以上、この作品が政治的に扱われてきたことは言をまたない。
 だが、本サイトでは繰り返し説明してきたように、制作者は「ハルモニ(おばあさん)たちの苦難の歴史、世界の平和と女性の人権のために闘うハルモニたちの意思まで込めようと思いました」と語っている(「週刊金曜日」2016年9月16日号)。つまり、戦争被害と女性の人権侵害という悲劇を再び起こさないようにというメッセージであり、あえて分類すれば、広島県の平和記念公園にある「原爆の子の像」(通称・禎子像)と類似のジャンルであって、これを「プロパガンダ」とは言わない。
 むしろ、「少女像」を巡る経緯や事実関係を考えれば、批判するべきは作品そのものではなく、利用しようとしている政治のほうだろう。安倍政権は2015年のいわゆる日韓合意で韓国内の少女像の撤去を要請した。これ自体が市民の表現行為に対する政治の介入そのものであって、それゆえに「少女像」は強い政治性を帯びているのである。
 その文脈の上で「表現の不自由展・その後」というコンセプチュアルな展覧会のなかに「少女像」が位置づけられたのだ。こうした経緯を無視して、単に「プロパガンダだ」と批判するのは、それこそ「アート性」の理解を放棄した“決めつけ”としか言いようがないだろう。

くるり岸田繁のツイート「あれは表現の自由か」に見る浅薄な理解

 そして最後に、実はこれが一番のコントラバーシャルなのだが、貞本氏の“言い訳”のなかには「アートと政治を切り離すべき」という主張が感じられることだ。この点については、多くの人が誤解しがちなところなのでちゃんと整理しておきたい。
 実際、似たような意見は、貞本氏以外のクリエーターからも出ている。たとえば、くるりの岸田繁は「表現の不自由展・その後」中止に関して、このようにツイートしている。
〈あれは表現の自由なんだろうか。政治とアートは隣合わせと言われるけど、政治にしか見えないのは残念。〉
〈誤解を招くので説明しますね。全てのアートは人に届くことによって必ず「政治性」を帯びます。本人が意図していなかったとしても。後付けで色んなものが付いてくる。タイアップとか、有名人賞賛とか。それを固辞することでさえ政治性。政治性を帯びれば帯びるほど、楽しめるアートの種類は減る。〉
〈私が残念だなと思うことは、芸術作品が闘争の道具に使われてしまうこと(例えそれを見越したものであっても)です。そうでないものもそうであるように見えてしまうことが起こるからです。勿論、作り手は丁寧に思想や哲学と向き合うことは大切なことですが。〉(8月3日)
 言うまでもなく、芸術が「美以外のあらゆるもの」から完全に独立することができるかというのは、ある意味、古代ギリシア以来の哲学的問いだが、事実としてみれば古今東西、芸術は「政治的なるもの」と不可分だった。信仰や思想、時代性、民族性、相互性は言うに及ばず、あるいは美の受け取り方自体すら解釈を含むからだ。
 だが、芸術が「政治的なるもの」を帯びることと、「政治の言いなりになる」ことは大きく違う。前者はその根本に人間精神とその表現が発揮され、後者はそれらが抑圧・歪曲されているからである。単に「政治的だ」という言い方でなされる批判は、その異なる両者の性質を混同しているだけでなく、実のところ、それによって芸術の自由を矮小化している。
 そして、岸田氏など、今回の問題で少女像などの展示を批判している人たちが口にしている「表現の自由」というのは、まさにこの“矮小化されている自由”にすぎない。

憲法21条が「表現の自由」を保障そしている意味を考えるべき

 そもそも、なぜ憲法21条で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」が保障されているのか。それは権力によって制限されずに、自由闊達な議論を行うことが、民主主義に求められる最低条件だからだ。つまり、政治権力を自由に批判できるところにこそ「表現の自由」の本質がある。
 戦争や暴力、あるいは権力に対し、それ自体をもってきて応じるのではなく、言論や芸術といった表現で対抗する個人のための保障でもある。言い換えれば、「表現の自由」は「弱者である個人」と「強者である権力」とのアンバランスな緊張関係を保持する防波堤なのである。
 その意味において、「少女像」を「政治的」と批判的に語る言論は、その言い方によって政治権力によって表現が統制される隙を与える。仮に「政治的」なものが芸術から排された社会があるとすれば、逆説的に、そこは権力が自由な表現を敵視しないディストピア社会であり、そこにおける芸術はすなわち「政治の言いなり」以外のなにものでもないのだ。
 繰り返すが、今回の「表現の不自由展・その後」は、ネトウヨの脅迫や極右政治家の圧力によって中止に追い込まれた。まさに、権力と暴力によって「表現の自由」がつぶされた。にもかかわらず、人々はこの状況に大なり小なり違和感を感じつつも、なし崩し的に受け入れそうになっている。それがどれだけ危機的なことか。この国は、本当に行くところまで行ってしまうのだろうか。

転載元転載元: kakaaのブログ〜土と野草と野菜の生命力を信じて〜

核兵器廃絶への道筋

世界から核兵器を無くすのは現実的に無理なのか?

そもそも、それが無理ならば核戦争は必ず起こる。
持っている以上、誰かが何かのはずみで使うのは、ほぼ避けられないからだ。
だから、核戦争という壊滅的な事態を避けるには「核廃絶」しかないのだが、
ここに「核抑止力」という現実問題が立ちはだかる。

そこで「核廃絶」への道筋を示す前に
「核抑止力」とは何か?
について簡単にイメージを共有しておきたい。

それはちょうど
腹に爆弾を巻きつけて、ライターを持って向き合っている状況と同じだ。
オレに手ェ出したら、テメェも確実に死ぬんだぜ!

「核抑止力」とは、他の軍事力による「抑止」と違って
相互絶対壊滅を保証し合うことによってのみ成り立つ均衡なのだ。
つまり、この「抑止力」は、純粋に「守る」ことだけができず、
自国の壊滅を前提とし、相手の理性を頼りにした、極めてクレージーで不安定な「抑止力」である。
したがって、この「抑止力」が成立するためには
最低でも2カ国以上の「核保有国」が必要なのだ。
1人だけが爆弾を持っていたら、それを投げつけることができてしまうからだ。
世界が「核廃絶」に動けない最大の理由がここにある。

ついでに指摘しておくなら
「核の傘」などというものは実際には存在しない。
どこの誰が「他国が核攻撃を受けた」からといって「自爆」してくれると言うのか?

さて、ここまでの認識の共有の上に
核廃絶の現実的手段の一つを提示したい。

それは、ハンドルネーム「ロマンチッカーnao」氏の提案から始まる。

おいらは、この提案を見たとき
「その解釈があったか!!」と膝を打ったものだ。

彼の提案は「地球平和軍」の創設である。
それは憲法9条2項を文字通りに実行する
というものだ。
日本は条文通り「一切の戦力を持たない」ようにするのである。
安全保障は、日本政府から独立したこの「地球平和軍」と契約を結ぶことによって行う。
(日本国憲法はどこにも「契約」を禁止してはいない。(笑))
さて、ここからが彼の構想とは少し違ってくるが、
ややこしいので、このまま彼が名付けた「地球平和軍」の呼称をそのまま使わせてもらう。
(おいら的には「国際平和維持軍」なんだが)
これはどの国にも所属しない「民間軍事NGO」である。
このNGOに、日本は自衛隊を丸ごと差し出してしまい、安全保障契約を結ぶのである。
このNGOと安全保障契約を結びたい国は、日本と同じように、その基本法で「一切の軍事力を持たない」ことをうたい、実際に全ての軍事力を解体するか、NGOに差し出してしまうことを契約の条件とされる。
契約金額はそれぞれの国の実情に応じて支払えばよく、当然支払った金額に応じた「安全保障」が受けられる
自国だけで安全保障を行うより経済的負担が少なく、しかもグレードの高い安全保障が得られるので、契約国が複数現れる可能性は十分ある。
このNGOは次の2つだけは、その憲章において禁じられる。
 1・契約国の「国益」のための軍事行動
 2・契約国が契約時に抱えていた領土問題への介入
上記2つは、契約国が「外交」によって解決しなければならない。
これが「契約条件」になる。
「地球平和軍」の目的は契約国の安全保障であって、戦争ではない。
だが、契約国が増えれば増えるほど「抑止力」は大きくなる。
最高指揮官は選挙で選ばれ、選挙権は契約国の国民のみが持つ。
さらに、このNGOはどの国家からも独立しており、どの国の法にも縛られないので「軍事力」においてはフリーハンドである。
したがって
核兵器も持ちうる。

そして、このNGOが
全「核保有国」に
「核兵器の放棄」と「核兵器禁止条約」への参加を呼びかける。
核の先制使用をした国の首都を壊滅させる
と宣言した上で。

「核兵器禁止条約」の参加国が、このNGOと「安全保障契約」を結べばさらに効果は高まるだろう。
このNGOのみが契約国に「核の傘」を保障できる。
なぜなら、このNGOは「報復攻撃」されるべき「領土」を持っていない。

相互絶対壊滅を前提とした全すくみ状態が「核抑止力」の本質ならば、
最後の核保有があらゆる国家から独立したNGOであることによって
人類は初めて「核抑止力」の呪縛から解き放たれる。
全世界の国家が「核兵器禁止条約」に参加したのち、
このNGOも核兵器を廃絶し、その技術を永久に封印する。

良心と善意だけで、「国家」がそれを行うのは難しい。
と、おいらは考えるが、どうだろう?


ナチスに学んだ結果


検閲は、違法な行為です。にも関わらず、「表現の不自由展・その後」は撤去されてしまいました。
私はこの決定に抗議の意を込めて、私の作品が見られる機会を自ら剥奪します。
芸術作品、そして美術館は、見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞いて、言いたいことだけを言うために存在するのではありません。
自由民主主義社会における芸術空間は、複数の意味の次元における不一致を保護する役割を担うのです。

しかし、政治の論理で行われた検閲に、芸術空間が屈服しなければならないということが起きました。
これはとても恥ずべきことです。作家は、政治を理由に、表現の自由を脅かす暴力に屈服すべきではありません。
私の作品《ニュースの終焉》は、メディアが助長する感情の扇動の中には存在しない共同体を探る作品でした。
皮肉なことに、ご足労くださった貴重な観客の皆さまに作品をお見せできないことを本当に悲しく思います。

再び、安全の名目で不法なテロや圧力に屈することがないように願い、作品の展示を拒否します。
「表現の不自由展・その後」が再び開かれる日は、お互いが自由に、そして平和に共存する日であることと信じています。

イム・ミヌク



あいちトリエンナーレ2019の参加アーティストとして、私は愛知で日本国内外の観客の皆さまに《チャイルド・ソルジャー》をお見せすることができないことを非常に悲しく思っています。私は自作《チャイルド・ソルジャー》を本展から取り下げることを主張しました。私の出品辞退は「表現の不自由展・その後」に対する検閲に抗議するためです。
あいちトリエンナーレ実行委員会が「表現の不自由展・その後」の展示を中止したことに私たちは皆、深い失望を感じています。
アーティストとして、表現の自由を守ることは私の根本的な義務です。ある作品の好き嫌いに関わらず、作品はいかなる種類の権力、弾圧政治、もしくは脅迫によって検閲されてはなりません。私は表現の自由が完全に保証されたどこかの時と場所で、将来別の機会があることを願っています。

パク・チャンキョン



どうせ
安倍応援団どもは
2人とも韓国人wwww
とか言うんだろーな。

恥ずかしい限りだよ。
トランプ以下だよね。

芸術に対する政治の侵食は
ナチス政権下のドイツで起こったことだ。
美大に落ちたヒットラーが
当時の新しい(今では古典)美術を全否定し
自分好みの作品だけを集めた
およそ芸術的価値のないクッサい美術展をやったのは有名な話だ。
アートってのは
常に「政治」の外側にあって
自由に息づいてなきゃ意味ねーんだ。

今回、抗議メールや脅迫ファックスを送った輩は
貴重な文化遺産を爆破したタリバンやISと同じテロリストよ!
テロリストがうじゃうじゃ出てきちゃった
ってのがこの国の現状なのよ。

ナチスに学べ
あ、そう・・・

で、この国はこんなんなっちまった。
民主国家ではあり得ないようなことが・・・・
つーか、いつの間にかとっくに民主国家じゃなくなっちゃってるんだけどな。

気が付いてねーだろ?

茹でガエルだな。

はっはっは
ホントに

カエルの楽園

だぜぇ。。












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