「このしとうなされている。!訳のわからないこと言い出した」
インパール作戦
インパールはインド領にあり、ビルマ(ミャンマーの)の北西部に隣接し
ている。
当時連合軍は、ここから、あらゆる方策を使ってシナ軍に軍需物資を
送っていた。
当時の連合軍の重要な兵站基地であった。
日本軍はこの基地を叩こうとして、遠くインド領まで兵を進め、さんざん
な目にあって敗退した。
この作戦を強力に推し進めたのは牟田口廉也という人である。部下の
参謀長から反対されると、その参謀長を首にし、強引に推し進めた。
作戦の最終決定者は参謀総長を兼ねた東条首相で、無謀であることは
知りつつも八方ふさがりの時局の開けることを期待した、東条の一種の
かけで、従軍させられた将兵はたまったものではなかった。
一番大事な物資の補給は当初からゼロだった。そのため部隊は食糧自
給のため、ヒツジや牛を一緒に連れて行った、いわゆるジンギスカン作
戦と言われた。
作戦は「ウ号作戦」と呼ばれ、昭和19年2月25日に発動された。
防衛省戦史叢書資料
インパール作戦は 3方向から進行する作戦で行われた。いずれも敗退
したが、当ブログは便宜上、当面宇都宮33師団の動向を説明する。
のち、無断撤退した31師団について話します。兵の損耗に耐えかねた
師団長の独断の抗命撤退の件である。
宇都宮第33師団(弓 師団長 柳田元三中将)は表の通り17000名
が従軍し、2200名が生還した。戦病死14800名損耗率87%である。
参加した3師団とも大体似たような損耗率だから惨憺たる結果であっ
た。
英軍のスミス元帥の回想記「敗北より勝利へ」によると、日本軍の作戦
はいつも手に取るようにわかった。
パターンが同じなのである。3つか4つのパターンに対処するだけで間
に合った。思いもかけない奇手など、絶対なかった。
私の言葉で翻訳すると、日本軍の将校はデレ助でバカの一つ覚えのご
とく同じパターンを繰り返し、何度も兵を犠牲にして敗退した。
しかし、日本軍の下士官は優秀だった。持ち場持ち場を離れず死守し
た。下士官の優秀さは世界一であった。
と言って将校をけなし、下士官兵をほめている。
やはり元帥になるくらいの人は見るところは見ていて過不足がない。
当時は中将でインパール方面の最高司令官であった。
日本軍の将校は士官学校の本職でも幹部候補生上がりの将校でも、や
ることは決まって同じ攻撃パターンだったらしい。
学校で習った型だけで戦争ができると思っていた節がある。応用が利か
ないのである。
前にも言ったが戦争は人間がやるもので、パターンなど決まっているわ
けではない。千差万別と言われる所以である。
無理にパターンを決めてことにはかろうとするところに日本人の限界が
ある。応用が利かないのである。
日本人は臨機に対処することができない。だから想定外の状況ではこと
ごとく失敗してしまう。
原発事故に当たっても国の官僚から、東電のエリート、県の幹部、政治
家に至るまで、ことごとくまともな行動をとるものがいなかった。
すべて後手後手で被害を拡大させた。
これは自衛隊でも同じことで、いかに隠そうとしても隠しきれるものでは
ない。逐一記録されている。
あんな自衛隊に戦争などできるわけがない。原発が爆発すると、地元
の住民をほったらかしにしてみんな逃げてしまったのである。
ほったらかしにされた年寄りはみんな死んでしまった。
指揮官の頭の中には原発事故の対処は想定外でパニクッたのである。
福島市まで逃げ、さらに郡山まで逃げてしまった。
任務を忠実に遂行するなどと言ったって、やはり防衛大学卒である。
かっての日本軍の将校となんら変わるところがなかったのである。
優秀な人には戦争などできない。もっとも馬鹿にもできないが。
ここでなぜ日露戦争に勝てたのかという疑問が出てくると思います。
日露戦争は偉い人たちがみんな志士上がりだったから、勝てたんで
す。偉い人は皆、陸士や海兵を出ていません。みな野戦上がりの指揮
官でした。つまり戊辰戦争の生き残りでした。
さらに日本にとって幸運だったのは帝政ロシアが末期を迎えていたから
です。
日本が勝ったというよりはロシアが負けるべくして負けたという方が正し
い。要するにロシア側に戦意がなかったからです。
日本海海戦は別ですよ。
近代戦争はそんなことはあり得ません。防衛大学出のプロだって、日本
人の限界があります。
応用が利かない、臨機に対処できないことは致命傷なんです。
要するに戦争ができない国民なんです。
日本人は平和な時にしか力を発揮できない国民だったんです。
それが縄文時代から培ってきた国民性なんだから仕方がありません。
31師団(烈 佐藤幸徳師団長)の抗命事件
インパールに攻め込んだ師団に31師団があります。インパールに隣接
しているコヒマという要衝を占領しました。3師団の中では所期の目標を
達成した唯一の師団でしたが、相次ぐ損耗に補給がまったくなかったこ
とから、いたずらに死傷してゆく部下を見すごせず抗命を決意し、軍団
長牟田口中将の命令を無視し、無断で撤退した。
のち大本営は病気ということで解職したが、牟田口も連座し、15軍軍団
長を解職させられた。差し違えであった。
このため31師団は他師団と比べ、生存者が多い。損耗率は30%と言
われる。
「俺について来い」の日紡貝塚の大松博文監督(のち参議院議員)もこ
の時の生還者の一人。
15軍軍団長牟田口中将は33師団長柳田中将をくびにし、15師団長
山内正文中将は戦場で病没、佐藤幸徳中将は抗命でくびと参加した3
師団長を全部くびにしたことで有名な人です。
押せ押せムードの勝ち戦には強いが負け戦には弱い、日本人の典型
みたいな大言壮語型の人で、一番信用のできない人と思います。
要するに声を大きくすればいいというタイプで、あまり利口な人でなかっ
たことが部下の信頼をなくした最大の原因だったのではないかなと思っ
ている。心すべきことである。
日本人は 声の大きい人が主導権を握ってしまう。ガンガンと自分の意
見を主張する人がその場をまとめてしまう傾向が強い。その結果は必
ず失敗している。弁が立つ人、主張が強い人は頭の回転が速い人のこ
とである。
頭の回転が早ければ戦争に勝てるものではなく、日本軍はすべての局
面で負けてしまった。
戦争の訓練を積んだ陸軍大学出の参謀たちが今次の大戦の敗戦の大
きな原因である。最たる理由は頭がよすぎたからである。
頭脳の優秀さだけでは戦争には勝てないのです。
もう一つ理由があります。
それは大日本帝国は破滅する運命にあったからです。何をやっても破
滅するのでは、何をやっても無駄だったんです。
それは次回で取り上げたい。