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高遠と言えば、徳川時代中期(1700年過ぎ)大奥の権力争いに敗れ遠島となり、罪一等を減じられこの地に幽閉された 「絵島」が思い出される。
大奥で権勢を誇った絵島は、この囲み屋敷に幽閉され毎日一汁一菜の食事を与えられ、外出も許されず、61歳で没するまでの20数年間をこの屋敷で過ごした。
建物は昭和42年に資料に基づき、ほぼ同じ場所に復元された。
1.絵島囲い屋敷は高遠城址から階段を下りてすぐの所にある。
画像は絵島屋敷あたりから高遠城址公園のサクラを見上げ、撮ったもの
2.囲み屋敷入口
3.外へ出られないように塀の上には鋭い槍のような返しがつけられている
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歴史散策
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安政7年(1860)3月3日朝、雪の愛宕山神社に集まった水戸浪士ら18人は、一路桜田門へ向かい、鎖国から開国へ舵を切ろうとしていた時の大老井伊直弼を暗殺した。
この事件は「桜田門外の変」と言われ、その後の幕末尊王攘夷運動を大きく転換させる端緒となった。
水戸浪士が集合した愛宕山には「櫻田烈士愛宕山遺蹟碑」が今に歴史を伝えている。
1.皇居の堀外側から見た桜田門
2.桜田門。 ここを出たあたりで、水戸浪士は井伊直弼を暗殺したのだろう。
3.水戸浪士が集合した愛宕神社。 お参りしているアベックはその歴史を知っているのだろうか?
4.愛宕神社の参道横に建っている 「櫻田烈士愛宕山遺蹟碑」
5.新聞記者、警察関係では通称「桜田門」と言えば、この建物を指すようだ。
古い話で恐縮だが テレビ番組「事件記者」でお馴染になった 警視庁の建物。
何も悪い事をしていなくても、建物の横を通ると緊張してしまう。
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第4番目は、港区麻布十番の商店街道路沿いにある初代米国領事館が置かれた善福寺。
善福寺は先にアップした3つの寺の中では最も境内の敷地が広く、園児が沢山通う幼稚園を経営しているようで、寺の勢いを感じた。
また、境内には都内の「名木・老樹」に数えられている大きな公孫樹の木が植えられており、その歴史を感じさせられた。
(幕末の日米間の動きと米国公使館が善福寺に置かれた経緯)
嘉永7年(1854年)3月31日、江戸幕府とペリーは日米和親条約を結び、日本は鎖国を解いた。
2年後の安政3年(1856年)8月21日、初代米国総領事としてタウンゼント・ハリスが下田柿崎の玉泉寺に臨時の領事館を開いた。。
安政5年7月29日、幕府とハリスは日米修好通商条約に調印、翌年安政6年(1859年)ハリスは江戸に入り、
幕府より貸与された麻布の善福寺に公使館を開設した。
1.公使館跡の碑
2. 山門
3.本堂
4.日米修好通称条約100年(1860〜1960年)を記念して昭和35年に建てられたハリス像
5.越路吹雪の墓 (境内を散策している時に偶然に見つけた。)
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初代公使館3番目はオランダが設置した 「西応寺」 です。
初代公使は クルチュウスで安政6年(1859年)に赴任したようです。
この寺も、尊王攘夷の嵐の中焼き討ちに会って、長応寺に移転しています。
現在の西応寺は小さい敷地に小さな本堂があり、ほとんどは幼稚園の敷地となってしまっていました。
往時の面影は全くなく、幼稚園の入口の塀横に かつてオランダ初代公使館があったとの碑と説明板があるのみでした。
1.説明板
2.公使館跡の碑と本堂か?
3.本堂横に咲いていた寒椿と南天の実
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幕末のフランス初代の公使館が設置された 「済海寺」 である。
フランスの初代臨時公使 ド・ベルクールは、安政6(1859)年8月に到着し、同寺に入りました。
フランスは江戸に公館を置いた3番目の国です。 済海寺は高輪の丘陵の北側に位置し、江戸時代は寺から江戸湾が一望できる風光明媚な場所だったようです。。 現在の済海寺は現代的な建築で建てられ、往時の面影はなく、門柱を入ったすぐ左手に、かって初代フランス公使館が置かれていたという説明があるのみです。 1.周辺の地図
2.初代フランス公使館跡の説明
3.門柱と本堂の一部
4.本堂
5。済海寺の前を青年が昔懐かしいラッパを吹きながらリヤカーで豆腐を売り歩いていました。
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