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稚泊連絡船

稚泊連絡船とは、鉄道省(日本国有鉄道の前身)により稚内と、当時日本施政下であった樺太の大泊(現・サハリン州コルサコフ)の間で運航されていた鉄道連絡船である。
開設は、1923(大正12)年5月、同時に函館〜稚内間の直通列車が新たに設定され、本州〜北海道〜樺太(サハリン)を結ぶルートが確立された。1924(大正13)年8月には、北日本汽船(株)の稚内〜樺太本斗(サハリン南部の西海岸に面した都市)間の連絡航路が開設され、樺太の開発が促進した。 
 宗谷海峡は冬になると流氷によって閉ざされるため、船には砕氷船が使用され、大泊側では氷上で旅客・貨物の取り扱いをすることもあった。
 稚内港が流氷で閉ざされることもあり、1937(昭和12)年2月13日〜2月25日、1939(昭和14)年2月5日〜2月27日稚内港が流氷により入港不能となり小樽〜大泊間の航路が臨時に開設されたこともある。
 稚内〜大泊 約210km 1934(昭和9)年当時の所要8時間。1938(昭和13)年、稚内側では列車が船に横付けできるよう、稚内駅構内に稚内桟橋駅という仮乗降場が設けられていた。
これによって、従来僻地の漁村であった稚内町は樺太への連絡地として栄えるようになっていくのである。
1941(昭和16)年12月、太平洋戦争勃発により稚泊航路の客貨の取扱いが増え、軍需物資の輸送が昼夜を問わず行われるようになった。しかし1943(昭和18)年頃からアメリカの潜水艦が宗谷海峡に出没するようになって連絡船が度々運休となり、運航時刻が軍の機密扱いになった。その後終戦となり、樺太からの引揚者が連絡船に殺到し、関係者は全力でこれをサポートしたが、連合軍の命令により、8月24日以降100t以上の船の航行が禁止され、宗谷丸が最後に入港して稚泊航路はその役割を終えた。  

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