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【公演データ】
公演名:新橋演舞場三月公演
ミュージカル『阿国』
会場:新橋演舞場/3階左列4番
観劇日:2007年3月24日 12:00開演
【主な配役】(敬称略)
阿国:木の実ナナ
猪熊少将:池畑慎之介
三郎左:上條恒彦
お丹:大和田美帆 他
《神話の女神!?出雲の阿国!》
ダンス、声、演技・・・いや「存在」そのものが内側からぶわぁっと膨らんで膨らんで、もはや人の形をした入れ物なんかには納まりきれない!
肉体から溢れでた生命力は光になるんだって、そんな夢みたいな言葉が事実になってそこにありました。
スターが「輝く」と形容されるのは言葉を美々しく飾っているわけじゃない、事実そのものなんだなぁ!
木の実ナナさん演じる出雲の阿国、なんと力強く光り輝いていたことか!
河原にデビューした阿国の踊りを観ている最中、こう、胸のところにぐうっと塊が押しあがってくる感覚に襲われました。
舞台を観ている時、理性より先に肉体がおかしくなる感覚というのは確かにあって、今までそう何度も体験できたことではないけれど確かにあって、なんというか、祭とか麻薬とか(やったことないですけど(^^;)そいういった強烈な昂ぶりが、今いる「現実」とは別の扉をぽっかり開いてくれるようなね、そういうパワーの余波を真っ向から浴びせられて、打たれて響く振動そのまんま。
阿国の踊りに誘われて皆が狂う、舞台の上での「狂い」が私にもはっきりと伝播してきました。
世情への不安とか、怯えとか、諦めと裏腹の希望とか、自分レベルでいえば日ごろのストレスだとか、不満だとか、そういったものが体の中に澱んでいますでしょう。
それがね、あまりに体の中から「何か」が膨れ上がっていっぱいいっぱいになっちゃうものだから、全部外に押し流されてしまうの。そういう感覚。
ネガティブな意味を除いた、野生的な意味での「洗脳」っていうのがぴたりとくる。
巧いから観てしまう、感心する、といった余裕さえもないぐらいの「カリスマ」なのだ、阿国という存在は!
出雲の巫女という自称からの連想でなくたって宗教的なものを感じさせます。
それも洗練された脆弱さなど一蹴するほどの粗野な力強さ―――いうなれば、古い古い「国生み」の時代の神々を思わせる猛々しきスケール。
阿国におけるSEXの意味も、大らかな神話のニュアンスを思わせるんです。
目もくらむような明るさと慈愛に満ちた、女が神であり救い主であるSEX。
阿国が述懐する「踊り」の意味、きわどい台詞の中にものすごく真実を感じて、一気にこの女性に傾倒してしまいました。
こういう尺度とスケールが体の中に存在する女性、猪熊少将の言葉じゃないですけれど本当に「でっかい!」
しかも、このことが芝居の設定に補助してもらう要素など何一つない「事実」である、ってところがとんでもないって思う。
演技としてそれを演じきる女優の力量もだけれど、こればっかりは、ご本人の「生命力」そのものが放出されているのに違いないなぁと感じました。
「ナナさんがパワフル」という評判は耳にしてはいたものの、パワフルの四文字が含むニュアンスまでは到底想像も到らなかったですねぇ!
乱世の人々の心を鷲づかみに握り締めた、という事実もさもありなん!と感じでした。
《「美」しき男》
猪熊少将@池畑慎之介さん、彼を一文字で表すなら間違いなく「美」に尽きます!
どんな魔性だ!?というような、自然の原則に明らかに反逆している抜群のプロポーション、〜系なんていう通りいっぺんの大くくりでは類似系の見つからないような個性。
・・・正直に白状しますっ。彼が「美しい」と形容されることに、私は、というか、おそらく若い人たちの感覚は似たり寄ったりだと思うのですけれど、少し不気味な、というか理解しがたいニュアンスを感じていました。
住んでいる場所は魔界?お隣の城の住人は美輪明宏さん?みたいなシラユキヒメ的空想が・・・(遠い目。)
彼が登場した瞬間のジワ(=会場のざわめき)、その感嘆詞がものすごく・・・なんていうか、強烈に「おなま」だったんです。
あのね、口先で発声する「キャー」「わー」じゃないの。
出てくる場所が体の中のすっごく深いトコロを起点としているため息、吐息に、腹の底から驚嘆賛嘆が勝手に声帯を震わせて「キャッ!」「うわーぁ」「はぁーぁ・・・」って声のニュアンスをくっつけた、って感じの響きばかり。
歓声全部に心が溶けてるニュアンス、美男の殿堂・宝塚でだってここまでおなまなジワはめったにない!
目を見開くほど美しい、というのはこういうことですね、本当に!
水も滴る、とか、花の咲きこぼれる、とか、手垢のついた美辞麗句がありますでしょ。
あれをぴっかぴかに磨きあげて、言葉通りの意味にした、って感じ。
宝塚か!?と思うほどのきらきらスパンが散りばめられたお衣装なのですけれども、それをいささかの不自然さもなく、もはや普段着の如く(!)着こなす男は日本広しといえどきっとここにしかいない!!
あの色気を文面に表す知恵は私にはありませぬ。
ただ、舞姿の、どのコマを切り取っても見事としか言いようのない形の綺麗なこと、華麗なこと、操る舞扇のひらめきが魔法のように鮮やかなこと。
指の先までも麗しいものがイッパイにつまっているようで・・・ちょっと引く?ぐらいの表現を許していただけるのであれば、池畑慎之介の指先に撫でられているその空気が羨ましいのだ、ファンとしては間違いなく(大爆笑)
流麗、華やかということは「女性的」と容易に結びつくと思うのだけれども、それが紙一重でしなやかな男らしさの枠を決してはみ出さないのですね。色気の中の清潔感、退廃の中の端正が品位としてちゃんとある。
同時に、何の気なしの立ち姿なども、肩の位置、腰の位置、全てが計算されつくした形に間違いはないのだけれど、その計算が余裕でかき消えた自然さがあって、とろけるように素敵。
現実の男性と比べて・・・とかいう頭は出てこないですね。ただ、この空間はまさに夢。
芝居は夢をみるためにあるのだなぁ〜。
猪熊少将との恋愛沙汰は女の格にハクがつく――という劇中で設定されたニュアンスまさにそのもの!
誠実であろうとした、そしてその心根は真正直だった。
世を欺く遊蕩に耽っている裏で、焦り恥じらい、希望に縋り絶望に怯え、けれど心根の正しさを自負して自らを慰め、いつしか偽りが現実を侵食していることに気付きながらも―――
(自分を変えず、時を待つのだ)
いつまで?
すぐそこかも知れない、遥か未来かもしれない、いや、永遠に来ないかもしれない。
動かぬ時なら、切り開くべきか?
・・・いや、違う。今ではない。命は惜しからねど、今ではない。
(自分を変えず、時を待つのだ)
いつまで?
いつまで自らを偽り続ければ、未来はひらけるというのか?
群がる男も女も、何不自由もない世紀のモテ男の心のうちは、誰も見抜かぬ、誰も見抜けぬ。
そんな猪熊少将の前にすっくと立った、出雲の阿国。
誰も踏み込めず、踏み込ませなかった心のうちにいともやすやすと踏み込んできた女に、男が惚れた。
女が惚れた。
スタートこそ崖から唐突に転落するような激しさですけれども、二人が一気にお互いの魂に手を触れ合う様がまざまざと分かって、通りいっぺんの惚れたはれたじゃありませんもの。
平べったい舞台に奥行きやら深度やらが生まれたように、この二人の関係は世俗の何事とも別次元なんです。
あの怪異な存在の美丈夫が、阿国の前でだけはピュアで素直で、少年かというほどに不器用なのだもの。
猪熊少将が唯一本物の敬意を払った相手、その足元にひざまずいた相手、それは天下を動かす誰でもなく、ただ一人、踊り子の阿国だったのだと思いました。
阿国に顔向けできる行動、阿国と堂々と向き合える自分、恋愛云々ではなく、人として、それが彼の生きる規範になっていたのだろうなと思います。
阿国の目に映る自分を直視出来なくなった時、猪熊少将に残された道は自決しかなかったのだろうって。
阿国がもっと愚かな女なら、猪熊少将は死なずに済んだかもしれません。
いや、しかし、そんな阿国なら少将は愛さなかった。
そして、阿国も彼を愛さなかったでしょう。
時代の流れが否応なしに力を加え、恋愛というより魂の結びつきのような二人の関係が歪んでいく様は、悲恋というより悲劇の厚みをもっていました。
――その2へ続く――
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すご〜〜〜〜い!!!観劇日記だ〜〜〜〜!私、恥ずかしい。。。
2007/3/26(月) 午前 0:47
NANA様〜!阿国、良かったですよねぇ(>▽<)いやあっ何をおっしゃいますやらっ、お邪魔するたびにキブンを明るくしてくれるNANA様ブログに敵うもんじゃありませぬっ。唯一の心残りは・・退団公演が初観劇→うわっカッコいい!と瞠目した伊央里さんを、ご本人と認識せずに「カッコいい遊女さんやな〜」とぼんやり眺めてしまったこと(涙)終演後にチラシを見て「ああああっ!!」でした(^^>
2007/3/26(月) 午後 1:01 [ 雪柳 ]