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【公演データ】
公演名:宝塚歌劇 花組公演『愛のプレリュード』
会場:東京宝塚劇場/1階18列62番、2階立見17番
観劇日:2011年4月13日(水)13:30開演、4月17日(日)16:00公演
【主な出演】(敬称略)
フレディ・クラーク:真飛 聖
キャシー・ローレン:蘭乃 はな
ジョセフ・バークレー:壮 一帆
スティーブ・ドノバン:愛音 羽麗 他
《「死」の体感》
歌としてかろうじて形をとどめるぐらいの、ほとんど叫びのような・・・煮えたぎる感情が身の内を責め尽くし、あふれだして、それが歩みを進める銀橋にぼたぼたとこぼれおちていくようなのです。
感情に引きずられて完全に意識の外になってしまっているその表情、大きく歪んだそれをオペラグラスで見ていた私は、あまりのことに、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなるぐらいおろおろしてしまった。
こちらの感情が逃げ場を失うほどに肉薄してきた絶唱だったんです。
宝塚に限らず、芝居って「死」から生身の血を抜き取って、ファクターとして純化させちゃう、美しく昇華させちゃうところがありますよね。
肉体的なグロテスクと精神的な魂というなら、魂側にグッとフォーカスして、流す涙がきれいな透明感を持つような浄化フィルターをつけちゃうというか。
それもまた、芝居の持つ凄みともいえるのだけれど、やっぱり、そこに漂うのは綺麗な、綺麗な「嘘」。
けれど、真飛さんは、この場で、嘘を、つかなかった。
生身の人間が二度と戻らない命を失ったことへの「体感」――ざらざらした、血の味がする、喉の奥にせりあがる熱い塊が呼吸を邪魔して、あまりの苦しさに意識が混濁しかかるけれど、それでも狂うことはできない。のしかかってくる、逃げ場のない、その現実――に、無防備に全身をさらしている。そのことがもう、はっきりとわかって。
悔恨と絶望と後悔とで、吐きそうなぐらい熱い塊になって狂う真飛フレディには、ものすごい、ものすごい、「命」に対する誠実さが宿っていました。
幾ら言葉を積み上げられるよりわかるんです。
死に対してまるで悟りすましたような顔をしたこの男が、実はどれほど死を恐れ、のたうちまわってきたのか、諦めたつもりでいて決して諦めることなどできないことが。
命が、愛おしいと。
そして、脆いものを脆いと知らずに、大切なものを大切と気付かずに―――永久に喪ってやっとそれを識る、人間の耐え難い愚かさと、無力感。
この場面の真飛さんの演技、もしかすると・・・というか、もう確実に「タカラヅカ」の端正な枠を超えてしまっていました。
冷静さを失って、感情の奔流に飲み込まれた感も確かにあった。
けれど、この表現にまで踏み込んだ彼女の、俳優としての、そして「この舞台で伝えたいメッセージ」に対する不器用なまでの真摯さ、誠実さというものに、私はもう圧倒されてしまったんです。
いい、悪い、じゃない。これが「真飛聖のフレディ」だ、という事実だけがある。
そんな感じでした。
私はその火のような熱演に、真実、心を動かされたのです。
《男役、真飛聖》
ちょっと首を前に突き出すようにして姿勢を崩した、男性特有のラフなニュアンスとかのビジュアル的肉体表現がごくさりげなく、こちらの意識下に刷り込まれて当然の前提になるような「男性らしさ」として全編に行き渡っているんですよね。
ちょっとした口調、動作のかたち、表情――表情、ってひとくくりでは言い表せないぐらい、細やかな、眉から瞳、口もと、その細部にいたるまでの感情表現。
真飛さんの男役はそれらすべてがすごく自然に感じられ、地色で演じているようにさえ錯覚しますけれど、女性が男を演じ、それを「作品世界の真実」に還すには、舞台に「自然」とか「素」なんてどこにもないんですよね。
ぜんぶ、型。全部、芸。
その上で、「男役」の型がもはや型じゃなくなって、柔らかい、変幻自在な「命の入れ物」にまでなっちゃってるんだなって感じました。
男だ、女だ、じゃなくて、フレディという役をその命ごと生きている。そしてフレディは男だから、命の入れ物が「男性」として成立している、そんな感じ・・・
なんというか、「男役」の型を自在に操って、ついにはその型とか枠さえも彼女を縛る理由にならなくなって、自由に、思うさまに「人間」を演じている。そんな感じがしました。
ここまで到達すれば、その表現というのは限りなく自由で、開放的で、男を演じるというのはむしろ象徴化されているからこそ純度の高い感情を鮮やかな明度で人物像に投影できる。
その繊細が、生身の男性をも超えた「男」を表現する武器になるのだなと思うのです。
そして、その容姿は、圧倒的に繊細で美しい。
なんというか、『男役』の奇跡みたいな部分を体に宿して、存分に表現している。そんな感じがしたんです。
この充実、この頂点が、男役・真飛聖のフィナーレ―――
その贅沢さ、その残酷さ。
それがこそ、宝塚が宝石のような光を放つということなのかもしれませんけれど・・・惜しむ気持ちが痛みを伴うほど、真飛さんは美しすぎました。
《舞台の価値》
たしかに物語的にはツッコミどころ、満載です。冷静に考えると「ええー!?」なシュチュエーションとか、台詞とか、どっさり(笑)
ひとつずつ突っ込んでいくのもブタイズキ同士のお喋りとしては面白すぎてタマラン!のですが(これも語りたい〜〜〜!!)マニアックにも奔りますし(^^;それはひとまずおいといて。
ひとつだけ確実なのは、脚本の小説的な意味と舞台での価値って、完全に別ものだってこと。
極端に言えば、物語自体は「・・・さすがに夢からも醒める」ほどの決定的な破綻をきたさない限り、魅力的な、演じ甲斐のある、共感と感動のスイッチを刺激するシュチュエーションを適宜配置して、その上で物語がスッカスカであればあるほど(!!)その空間にたっぷりの「芸」を詰め込む余地が確保されている、ってことなんじゃないかと。
ありますよねぇ!歌舞伎の名作と呼ばれているものでも、物語的にはスッカスカのやつ(笑)←うわ暴言!!
たとえ理不尽であろうと、理解を超えていようと、勢いと情熱と芸の力で、劇場空間に在る数時間だけ「?」に気付かせずに観客を納得させてくれれば(たとえ「?」が浮かんだとしても、それ以上の魅力的上書きがあれば)それは舞台側の完全勝利なんですよね。
小説もある、TVドラマもある、現実により近い形態をとるエンターティメントは数ある中で、わざわざ「嘘」寄りの生の舞台を観に行く理由って、そこのあると思う。
「現実感」っていうベース部分には、実はそんなに価値はない・・・価値はないって言うか、もちろんそれがなければ浮世離れした嘘ですから、その土台部分の芸はしっかりしてくれていなきゃというのは大前提ではあるんですが、舞台が舞台であるがゆえの価値とは、平凡の外にある「激情」の突き抜けた煌きが、マグネシウムを焚いたようにバッと輝く、その一瞬、一点の光の強さにあると思う。
光に圧力を感じるほどの体感、それがこそ、生観劇における極上の価値であると感じます。
要は、その一瞬をいかにして出現させるかということ、そのための仕掛けをいかに仕込むか。
この作品、盛り込みすぎなぐらいに仕込みましたよねぇ!
「純粋ゆえに変わってしまった旧友との関係」
「大人の男と少女の、魂の交流から生まれるピュアな恋」
「命の期限、その諦念と葛藤」
「命がけのボディーガード」
友へ、愛しい女性へ、さらには母親への、内に秘めた想い。
そして、人生に嘘をつかずに、生き抜くためのそれぞれの選択・・・
そこここに散りばめられた感情の宝石を、出演者さんたちは本当に丁寧に、丁寧に拾い上げ、掌の上できらめかせていました。
そして、登場人物の誰もが、わかりやすくノーマルに人間として「正しい」ってことに対する安定感というか、安心感が心地よい。
文学的な意味で人間を真に描ききってしまうと、やはりグロテスクさというのはどうしても出てきます。それを直視することも本当に価値のあることだけれども、それは大衆的エンターティメントとして重すぎる。
こんな言い方は失礼にあたるかもしれないけれど、ある意味「正しさに護られた健全さ」という、人間描写の「浅さ」こそが価値かな、と思うんです。
清々しく納得できる正しさ、健やかさ。
その範囲の中での「清く、正しく、美しい」舞台。
コミカルに徹した場面では気持ちよく笑える、感情の深まりを描いた画面では気持ちよく泣ける、それぞれの感情と成長に共感でき、ハッとさせられ、のめりこんで役者と一緒に感情が動く。
そして、観劇後、清々しく気分が晴れる。
シンプルでわかりやすい、ちょっと寝てても(!?)ストーリーからおいていかれないぐらいのベタな王道ぶりも、王道がなんで王道なのかといえば、ある意味、それが究極のベストストーリーだからなんですよね。
皮肉や揶揄を一切排除した意味での『偉大なるお伽噺』に、付加価値の魅力をたっぷりと盛り込んで、一気に魅せる!
それこそ宝塚がタカラヅカたる所以なんじゃないかなって。
宝塚歌劇団の座付き作家が作り上げるオリジナル作品は、スター個人の魅力を最大限に堪能させるための「宛書き」が信条といいますが、作家さん、相当いい仕事なさったって思う!
真飛さんの魅力――繊細で大胆で美しくて、痛々しくて儚くて、それでいてパステルカラーのフェアリーじゃない、どこか描線のしっかりしたリアリティがある、骨太な実体感。
その魅力のひとつひとつを文様のように織り込んだ「フレディ」というお役、作品世界と現実――退団公演であること、相手役・蘭乃はなさんと、二番手男役・壮一帆さんと、以下それぞれの仲間達との舞台裏での信頼関係、彼女の過ごした過去、現在、そして未来――をあからさまなほどにリンクさせ、役者・真飛聖と人間・真飛聖の両方に強烈なスポットライトをあてる手法。
演出家さんの役者を信じ、委ねる勇気(これ、まさに勇気だと思う!)に、役者がその熱演で期待に見事に応えた舞台だったって思う。
はっきりいってストーリーとしては凡作と思うけれど、宝塚の、真飛聖率いる今の花組の作り出す「舞台こその魅力」を、「役者こその魅力」を飽和状態まで詰め込んで、みっしりと張り詰めた充実感のある舞台でした。
そしてその作品テーマが、今この時、現実世界に対する本当に強いメッセージ性を秘めていたこと、それを全身全霊で表現する力と心を持った俳優陣が舞台に在ったことは、ほとんど奇跡的な符合を思わせました。
正直、今客席に座る人々は、いつもの比にならぬ集中力と、無意識下の強烈な飢えをもって舞台に相対していたと思う。
一種異様な劇場空間の中で、そのすべてが、作品を上へ、上へと押し上げていた。
宝塚作品として、サヨナラ公演作品として、そして今この時、宝塚歌劇が世に問う作品として、この作品は「佳作」を超えた評価を受けてしかるべき!って確信させられる舞台でした。
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たまたまこちらの記事に行き当たり、読ませて頂きました。真飛さんの舞台を、震災後の花組公演を、こんな風に観ていてくださったんですね。
同じ時間と空間を共有できた1人として、感謝を伝えたくて書かせていただきました。ありがとうございました。
2011/5/11(水) 午後 5:40 [ リフ ]
リフ様、初めまして!
宝塚歌劇を愛する者として、あの時、あの場所で、あの行動をとってくれた花組さんを、真飛さんを、心から尊敬し誇りに思います。本当に、本当に、素晴らしい人たち、見事な公演だった!
この舞台を観られたこと、本当に、幸せなことでした(^^)
2011/5/22(日) 午前 0:26 [ 雪柳 ]