文花座

歌舞伎、宝塚歌劇団、劇団四季・・・大好きな舞台の感想をつらつらと♪

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《舞 台》 7ステージ

4/9(土) 『レ・ミゼラブル』 帝国劇場

【ひとこと!】
初レミゼ、圧倒的な名作の貫禄!
この舞台は出演者たちを心底から虜にし、お役のそれぞれが、俳優が情熱と命を注ぎ込んであまりある人生であることを納得させられました。
中でも特筆すべきファンティーヌ@和音美桜さん、肉体も命もぼろ雑巾のように踏みにじられ穢されながら、魂の清潔感に一点のしみもない。その存在そのものが光を放つぐらい神がかった存在感でした。レミゼ、すごい!

【ミュージカルReview】なかみはまたあと!

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4/11(月)  『陰陽師〜Light and Shadow〜』 新国立劇場

【ひとこと!】
舞台美学っていうのか、作品意義に対する真剣さというのか、とにかく体当たりの情熱を感じる舞台でした。お役それぞれに生き様的色気があり、歌もどっさり、イケメン揃い(笑)。かっこいいなー。歌、うまいなー。ダンスもすごいなー。眼福です。
紫吹淳さんの存在感は舞台上の時空を易々と操りますねぇ!掌で転がされるがごとき翻弄感に気持ちよく酔いました。IZAMさんは舞台姿がのびやかに大きくて、骨太な実体感もありながら妖しいまでに綺麗で繊細、芝居もいい!思わぬところに超注目の俳優さんを見つけた!って感じです。ただ、歌は、歌わないほうがいいのかも(^^;

【ミュージカルReview】なかみはまたあと!

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4/13(水)  宝塚歌劇花組公演『愛のプレリュード』『Le Paradis!!』  東京宝塚劇場
4/17(日)  宝塚歌劇花組公演『愛のプレリュード』『Le Paradis!!』  東京宝塚劇場

【ひとこと!】
花組さんの充実ぶりが、そのまま観劇の充実感となりました。
真飛聖さん、お見事です!


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4/21(木) 『スタスレビュー in アキバ』  秋葉原UDXシアター

【ひとこと!】
無視、していいなら言いたいことはありません。でも、私、レビューが好きだから、以前、スタスに楽しい時間をもらったこともあったから、言います。
演出になんの工夫もない、挑戦もない、これじゃ上演する意義ないです。はっきり言って。
たとえ失敗したとしたって姿勢だけでも見せてくれなくては、次を観たいと思う気力さえ奪われてしまう。
既存のスターが、既存のレビューをするという意味だけだったら星里さんとか日高さんとかの存在に観るべきものはもちろんあるけれど、それだけだったら、オールスター公演のほうが遥かに見応えがあるし、わざわざ若手公演と銘打ってやる必要ないもの。
舞台成果というよりも(もちろんそれも含めてだけれど)、その姿勢にがっかりです。
次回公演、機会があるなら、もう一度は、見ます。その後のことは、その時に。

【舞台Review】なかみはまたあと!

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4/23(土)  『ステッピング・アウト』  THEATRE1010

【ひとこと!】
登場人物一人一人の存在感がすごくリアルで、等身大の「生きていくことの悩み苦しみ」が鮮やかに表出されている・・・んですけれど、この作品のスゴイところは、そのことに対するひ弱な精神論&悲劇感に酔うところがちっともない!それらを全部ひっくるめて、「それでも人は生きていかなきゃならん!」にがっちりくるまれていて、愛すべきたくましさに溢れてる。テーマこそ軽いものじゃないけれど「コメディ」の名に恥じぬ愉しさと軽妙さがとっても楽しかったです!
出演者の皆さん、全員が生命力に溢れてて、しかも芸達者!歌、うまー!
保坂さん、その細いからだのどこに!?やっぱり極上のスターさんです。

【ミュージカルReview】なかみはまたあと!

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4/24(日)  『真飛聖ラストデイ』  中野ZEROホール

【ひとこと!】
清々しく、涙より笑顔どっさりの千秋楽でした。
舞台姿、というより、むしろ・・・一点の曇りもない笑顔で過去を振り返り、「今」に微笑むことのできる一女性としての姿が、本当に素敵で、カッコよくて、その生き方そのものに憧れを抱きます。
舞台を観て、自分自身の内側を見つめなおす機会を得たような気もします。それがこそ、感じた清々しさというのが全身を洗うような気がしたのかもしれません。
改めまして。
「宝塚歌劇団ご卒業、新しい門出に、おめでとうございます!」

【公演データ】
公演名:宝塚歌劇 花組公演『愛のプレリュード』
会場:東京宝塚劇場/1階18列62番、2階立見17番
観劇日:2011年4月13日(水)13:30開演、4月17日(日)16:00公演

【主な出演】(敬称略)
フレディ・クラーク:真飛 聖
キャシー・ローレン:蘭乃 はな
ジョセフ・バークレー:壮 一帆
スティーブ・ドノバン:愛音 羽麗 他

《「死」の体感》

歌としてかろうじて形をとどめるぐらいの、ほとんど叫びのような・・・煮えたぎる感情が身の内を責め尽くし、あふれだして、それが歩みを進める銀橋にぼたぼたとこぼれおちていくようなのです。
感情に引きずられて完全に意識の外になってしまっているその表情、大きく歪んだそれをオペラグラスで見ていた私は、あまりのことに、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなるぐらいおろおろしてしまった。
こちらの感情が逃げ場を失うほどに肉薄してきた絶唱だったんです。

宝塚に限らず、芝居って「死」から生身の血を抜き取って、ファクターとして純化させちゃう、美しく昇華させちゃうところがありますよね。
肉体的なグロテスクと精神的な魂というなら、魂側にグッとフォーカスして、流す涙がきれいな透明感を持つような浄化フィルターをつけちゃうというか。
それもまた、芝居の持つ凄みともいえるのだけれど、やっぱり、そこに漂うのは綺麗な、綺麗な「嘘」。
けれど、真飛さんは、この場で、嘘を、つかなかった。
生身の人間が二度と戻らない命を失ったことへの「体感」――ざらざらした、血の味がする、喉の奥にせりあがる熱い塊が呼吸を邪魔して、あまりの苦しさに意識が混濁しかかるけれど、それでも狂うことはできない。のしかかってくる、逃げ場のない、その現実――に、無防備に全身をさらしている。そのことがもう、はっきりとわかって。

悔恨と絶望と後悔とで、吐きそうなぐらい熱い塊になって狂う真飛フレディには、ものすごい、ものすごい、「命」に対する誠実さが宿っていました。
幾ら言葉を積み上げられるよりわかるんです。
死に対してまるで悟りすましたような顔をしたこの男が、実はどれほど死を恐れ、のたうちまわってきたのか、諦めたつもりでいて決して諦めることなどできないことが。
命が、愛おしいと。
そして、脆いものを脆いと知らずに、大切なものを大切と気付かずに―――永久に喪ってやっとそれを識る、人間の耐え難い愚かさと、無力感。

この場面の真飛さんの演技、もしかすると・・・というか、もう確実に「タカラヅカ」の端正な枠を超えてしまっていました。
冷静さを失って、感情の奔流に飲み込まれた感も確かにあった。
けれど、この表現にまで踏み込んだ彼女の、俳優としての、そして「この舞台で伝えたいメッセージ」に対する不器用なまでの真摯さ、誠実さというものに、私はもう圧倒されてしまったんです。
いい、悪い、じゃない。これが「真飛聖のフレディ」だ、という事実だけがある。
そんな感じでした。
私はその火のような熱演に、真実、心を動かされたのです。

《男役、真飛聖》

ちょっと首を前に突き出すようにして姿勢を崩した、男性特有のラフなニュアンスとかのビジュアル的肉体表現がごくさりげなく、こちらの意識下に刷り込まれて当然の前提になるような「男性らしさ」として全編に行き渡っているんですよね。
ちょっとした口調、動作のかたち、表情――表情、ってひとくくりでは言い表せないぐらい、細やかな、眉から瞳、口もと、その細部にいたるまでの感情表現。
真飛さんの男役はそれらすべてがすごく自然に感じられ、地色で演じているようにさえ錯覚しますけれど、女性が男を演じ、それを「作品世界の真実」に還すには、舞台に「自然」とか「素」なんてどこにもないんですよね。
ぜんぶ、型。全部、芸。
その上で、「男役」の型がもはや型じゃなくなって、柔らかい、変幻自在な「命の入れ物」にまでなっちゃってるんだなって感じました。
男だ、女だ、じゃなくて、フレディという役をその命ごと生きている。そしてフレディは男だから、命の入れ物が「男性」として成立している、そんな感じ・・・
なんというか、「男役」の型を自在に操って、ついにはその型とか枠さえも彼女を縛る理由にならなくなって、自由に、思うさまに「人間」を演じている。そんな感じがしました。
ここまで到達すれば、その表現というのは限りなく自由で、開放的で、男を演じるというのはむしろ象徴化されているからこそ純度の高い感情を鮮やかな明度で人物像に投影できる。
その繊細が、生身の男性をも超えた「男」を表現する武器になるのだなと思うのです。
そして、その容姿は、圧倒的に繊細で美しい。
なんというか、『男役』の奇跡みたいな部分を体に宿して、存分に表現している。そんな感じがしたんです。
この充実、この頂点が、男役・真飛聖のフィナーレ―――
その贅沢さ、その残酷さ。
それがこそ、宝塚が宝石のような光を放つということなのかもしれませんけれど・・・惜しむ気持ちが痛みを伴うほど、真飛さんは美しすぎました。

《舞台の価値》

たしかに物語的にはツッコミどころ、満載です。冷静に考えると「ええー!?」なシュチュエーションとか、台詞とか、どっさり(笑)
ひとつずつ突っ込んでいくのもブタイズキ同士のお喋りとしては面白すぎてタマラン!のですが(これも語りたい〜〜〜!!)マニアックにも奔りますし(^^;それはひとまずおいといて。
ひとつだけ確実なのは、脚本の小説的な意味と舞台での価値って、完全に別ものだってこと。
極端に言えば、物語自体は「・・・さすがに夢からも醒める」ほどの決定的な破綻をきたさない限り、魅力的な、演じ甲斐のある、共感と感動のスイッチを刺激するシュチュエーションを適宜配置して、その上で物語がスッカスカであればあるほど(!!)その空間にたっぷりの「芸」を詰め込む余地が確保されている、ってことなんじゃないかと。
ありますよねぇ!歌舞伎の名作と呼ばれているものでも、物語的にはスッカスカのやつ(笑)←うわ暴言!!

たとえ理不尽であろうと、理解を超えていようと、勢いと情熱と芸の力で、劇場空間に在る数時間だけ「?」に気付かせずに観客を納得させてくれれば(たとえ「?」が浮かんだとしても、それ以上の魅力的上書きがあれば)それは舞台側の完全勝利なんですよね。
小説もある、TVドラマもある、現実により近い形態をとるエンターティメントは数ある中で、わざわざ「嘘」寄りの生の舞台を観に行く理由って、そこのあると思う。
「現実感」っていうベース部分には、実はそんなに価値はない・・・価値はないって言うか、もちろんそれがなければ浮世離れした嘘ですから、その土台部分の芸はしっかりしてくれていなきゃというのは大前提ではあるんですが、舞台が舞台であるがゆえの価値とは、平凡の外にある「激情」の突き抜けた煌きが、マグネシウムを焚いたようにバッと輝く、その一瞬、一点の光の強さにあると思う。
光に圧力を感じるほどの体感、それがこそ、生観劇における極上の価値であると感じます。
要は、その一瞬をいかにして出現させるかということ、そのための仕掛けをいかに仕込むか。

この作品、盛り込みすぎなぐらいに仕込みましたよねぇ!
「純粋ゆえに変わってしまった旧友との関係」
「大人の男と少女の、魂の交流から生まれるピュアな恋」
「命の期限、その諦念と葛藤」
「命がけのボディーガード」
友へ、愛しい女性へ、さらには母親への、内に秘めた想い。
そして、人生に嘘をつかずに、生き抜くためのそれぞれの選択・・・
そこここに散りばめられた感情の宝石を、出演者さんたちは本当に丁寧に、丁寧に拾い上げ、掌の上できらめかせていました。

そして、登場人物の誰もが、わかりやすくノーマルに人間として「正しい」ってことに対する安定感というか、安心感が心地よい。
文学的な意味で人間を真に描ききってしまうと、やはりグロテスクさというのはどうしても出てきます。それを直視することも本当に価値のあることだけれども、それは大衆的エンターティメントとして重すぎる。
こんな言い方は失礼にあたるかもしれないけれど、ある意味「正しさに護られた健全さ」という、人間描写の「浅さ」こそが価値かな、と思うんです。
清々しく納得できる正しさ、健やかさ。
その範囲の中での「清く、正しく、美しい」舞台。

コミカルに徹した場面では気持ちよく笑える、感情の深まりを描いた画面では気持ちよく泣ける、それぞれの感情と成長に共感でき、ハッとさせられ、のめりこんで役者と一緒に感情が動く。
そして、観劇後、清々しく気分が晴れる。
シンプルでわかりやすい、ちょっと寝てても(!?)ストーリーからおいていかれないぐらいのベタな王道ぶりも、王道がなんで王道なのかといえば、ある意味、それが究極のベストストーリーだからなんですよね。
皮肉や揶揄を一切排除した意味での『偉大なるお伽噺』に、付加価値の魅力をたっぷりと盛り込んで、一気に魅せる!
それこそ宝塚がタカラヅカたる所以なんじゃないかなって。

宝塚歌劇団の座付き作家が作り上げるオリジナル作品は、スター個人の魅力を最大限に堪能させるための「宛書き」が信条といいますが、作家さん、相当いい仕事なさったって思う!
真飛さんの魅力――繊細で大胆で美しくて、痛々しくて儚くて、それでいてパステルカラーのフェアリーじゃない、どこか描線のしっかりしたリアリティがある、骨太な実体感。
その魅力のひとつひとつを文様のように織り込んだ「フレディ」というお役、作品世界と現実――退団公演であること、相手役・蘭乃はなさんと、二番手男役・壮一帆さんと、以下それぞれの仲間達との舞台裏での信頼関係、彼女の過ごした過去、現在、そして未来――をあからさまなほどにリンクさせ、役者・真飛聖と人間・真飛聖の両方に強烈なスポットライトをあてる手法。
演出家さんの役者を信じ、委ねる勇気(これ、まさに勇気だと思う!)に、役者がその熱演で期待に見事に応えた舞台だったって思う。

はっきりいってストーリーとしては凡作と思うけれど、宝塚の、真飛聖率いる今の花組の作り出す「舞台こその魅力」を、「役者こその魅力」を飽和状態まで詰め込んで、みっしりと張り詰めた充実感のある舞台でした。

そしてその作品テーマが、今この時、現実世界に対する本当に強いメッセージ性を秘めていたこと、それを全身全霊で表現する力と心を持った俳優陣が舞台に在ったことは、ほとんど奇跡的な符合を思わせました。
正直、今客席に座る人々は、いつもの比にならぬ集中力と、無意識下の強烈な飢えをもって舞台に相対していたと思う。
一種異様な劇場空間の中で、そのすべてが、作品を上へ、上へと押し上げていた。
宝塚作品として、サヨナラ公演作品として、そして今この時、宝塚歌劇が世に問う作品として、この作品は「佳作」を超えた評価を受けてしかるべき!って確信させられる舞台でした。

清々しさ。
真飛聖ラストデイ、その舞台を観て感じた印象を一言で言うなら、それでした。

お芝居が終ってロビーに出たら、見事に晴れ上がった水色の空に、生まれたての柔らかそうな若芽のきみどり、そして春の日差しのひんやりと、ほのかにぬくもった光のいろ。
ガラス越しにそれらが見えて、その清々しさと胸の中の景色が同じものであることに気付きました。
悲しい、とか、苦しい、とか、胸の轟くような印象はあまり感じなかった。
自分自身を全うし、自らの意志で歩み去った人。
残された場所で生きることを決めた人。
死を以って本来の自分に還っていった人。
単純な意味では誰一人幸せになどなっていないのに、このたっぷりと満たされた幸福の余韻、ただ静かに、心穏やかに清々しい印象というのは―――
それぞれが人生に嘘をつかずに生ききった、生き抜くに違いない、という確信、信頼みたいなものが、その印象の源だって思います。
なにがすごいって、千秋楽のこの舞台において、作品の完成度が頂点を極めた!ってことだと思うんです。
感情が暴走することなく――かといって小さくまとまったわけじゃない。引き締まった作品世界の中に、すばらしい充実があった。
ラストだとか、千秋楽だとかいう気負い、特別なハレ感はなかったように思います。
丁寧な、丁寧な演技を積み重ね「作品を作る、表現する」そのことに千秋楽のその日まで取り組み続け、そして結果をだしたもののように思います。
今まで2回の観劇で、涙を感じたり、大きな感情に打ちのめされたりもしましたが、最後はこんなに清々しい印象――これがこの作品の、描かれた人間たちの本質だったのかと、眼の覚めるような思いでした。

ショー、とにかく楽しかった!
かっこよさにキャー(>▽<)ってなったり、その詩情にジンときたり、低音の豊かな響きが胸に轟いたり、劇場空間の暗闇の中でクルクルといろんな感情を経巡って、そして最高に楽しかった!
客電のおちた暗闇に隠されているのをいいことに、気恥ずかしくなるぐらい満面の笑顔、笑顔、笑顔!!

ムッシュ・サクレの客席イジリ(!?)アドリブ。
客席を指し示して『♪そんな悲しい顔しないで』
そしてとびきりの明るさで、「当たり前のことを忘れてる!」とばかりに『♪あんなに愛し合ったじゃないかぁ〜〜〜!』
そういわれた瞬間、アッ!と思った、ビックリするぐらい目が覚めた!
そうだ、今、ラストだって、最後だってことに縛られすぎて、悲しい思いから逃れられなくなっているけど、そんなこと覆い尽くしてあまりあるほど、いっぱいいっぱい楽しいこと、あったじゃないか!
いきなり、ブワーッと記憶が浮かび上がってきました、あの場面!あの場面!真飛さんがつくってくれた楽しすぎた時間の数々!
その一言の鮮やかさに、こっちの気持ちのスイッチがカチッ!て音たてて切り替わったっていうか、この時間に対する翳りの一切が吹き飛んだ。
すごいっ、人心マジシャンだ、この人!!

『みなさん、一ヶ月間ありがとう!今夜飲まない!?俺のオゴリで!!!』
ハイ!!行きます(>▽<)/!!←馬鹿(笑)

(続きはまたあと!)

 悔やむ暇はない 陽気に生きたい
 一度きりの かけがえない いのち 聖なる時間(とき)を 楽しまなくては!

ショー「Le Paradis!!」のメインテーマ曲、上記の歌詞は正確ではないと思うのですが、こういう内容のワンフレーズがありました。
文字にしたなら、高揚感のある陽気で華やかなこの歌詞を、銀橋に立った真飛聖さんは、ぎゅっと眉根を寄せて、有無を言わせぬ強い目をして、客席に言葉を叩きつけるように歌い上げました。
『言霊』っていうものを思わせるぐらいの、ハッとするほどの強さで。
祈りにも似ていた、まるで「信じなさい」と言われているようだった。

その言葉を、よけられない剛速球みたいに胸元に投げ込まれて、私は気付いたんです。
震災以来、本当は、笑うことが怖かった。
楽しむことが怖かったんだって。

あたりまえの何不自由ない生活を覆う、靄のような罪悪感がありました。
親が死んでしまった子の、子供を死なせてしまった親の、強制的につきつけられた「我慢」が目の前にあって、自分がどれだけ我慢すれば許されるのか、全財産擲ったっておいつかない、けれどそんなことする勇気もない。
くだらない、なんの生産性もない、頭の中でこねくり回すのはもう馬鹿みたいな極論ばっかり。
そして一歩も動けない。いや、動かない。そのことに誰も文句なんて言わないから。

そんな感情は一文にもならない愚かな自己満足だって、大人の理性は知っているんです。
けれど、心がどうしても納得してくれなかった。
泣き声が聞こえる中で笑うことを、耳を塞いだ子供みたいに理解してくれなかった。

今この時をより良くと望み、大切にすること、大切な人に笑顔でいてもらいたいと望むことが間違いであるわけはないんです。
ただ、衝撃が大きすぎて、恐ろしさに五感の入り口が著しく狭くなっちゃって、いろんなことに臆病にも、わからなくも、なっていた。
平気なつもりでいたけれど、やっぱり、少し、どこかが狂っていた。

真飛さんはわかっているのかもしれない。
客席がそんなうっすらとした後ろめたさをもってここにいることを知っているのではないかと感じました。
誰よりも自問自答したのは、きっと、笑顔でいることを決めた人に違いないから。

今、みんなを笑顔にしようと懸命な努力をする人の勇気というもの、その「覚悟」に思い至りました。
花組生は、電力不足の東京で舞台を上演することの是非に悩み、苦しんだといいます。
舞台の上で、幾多の――劇場の中にはない目も含めて――視線の矢面に立つ人間は、その視線から逃げることは絶対に許されない。
このご時勢に上演を続けることは、ある意味においての批判は避けられないでしょうし(そしてそれは一面において正当である)、もっと言えば、苦しんでいる人を傷つける可能性をさえ、覚悟しないといけない。

なんでもかんでも自粛しておけば、その犠牲で「身の安全」を確保するようなものだから(「身」は対外的な意味でも、自分の精神衛生上においてという意味でも)それはある意味、らくなんですよね。
動かずにいれば、少なくとも、マイナスの可能性は消える。
リスクも、批判も全部背負って、それでも「自分たちにできること、自分たちにしかできないこと(フィナーレ後の真飛さんのご挨拶の言葉です)」をまっすぐに見つめて、動く姿。

芝居での真飛さんからは、「命」というものに対する意志を強烈に感じました。
芝居だ、虚構だという逃げ道を断って、なんの緩衝材も持たずに「死の体感」に生身をさらしていた、そんな印象の、文字通り、火の様な熱演でした。
ショーでは、言葉を、耳を塞いだ手をこじ開けるような力をもって歌い上げた。
そして、真飛さん率いる花組は、舞台に在る全員が全員が同じ意識をもっているようでした。
真飛さんの意識が行き渡っているのか・・・いや、逆かも、全員の意識が真飛さんの意識なのかもしれません。
二つはまったく同じものなのかもしれません。

張り詰めて、軽やかに、笑顔で、そして毅然と、神々しいまでに華やかに、真飛さんはそこに在りました。
義援金への協力を求めて、彼女は、激しい舞台を終えて次の舞台に備えるためのわずかな休憩時間を、一度も欠かさずロビーに立っているのだというのです。

人が健やかであること。
健全であること。
今いる場所で、今この時を、精一杯に生きること。
今、この時を、楽しむこと!
そのことは間違っていない、絶対に間違っていないと、何度も何度もそう言ってくれた。
その言葉が、異様なぐらいの説得力を持っていたのはなんでだったんでしょうね。
私の中の子供が、初めて、心から納得してくれました。

なんというか、ものすごく身が軽くなりました。視界がクリアになった気がしました。
頭でっかちの極論でワケわからなくなってしまっていた思考回路に筋道がついた気がしました。
健全に、凛々しく、雄々しくいくのだ!
義援金は、自分を痛めつけるために出すのじゃない。
健やかに生きていくのに必要な分には手を出さないで、今の私には痛い、けれど、傷口はなめときゃふさがると思える分を振り込む。今日、手続きを済ませました。
やっと出せた!遅かったけれど、やっと出せた。

真飛さんのおかげです。
花組さんの、この舞台をつくる為に動いてくれた人たちのおかげです。
やっと前に進むことができそうな、そんな気がする。
私は本当に、この舞台に・・・そう、魂を、救われた。

もし、真飛さんに伝えることができるなら、一言、こう言いたいです。
「お見事でした!」と。

『二都物語(上)』 ディケンズ/著 中野好夫/訳
Yahoo!ブックス: http://books.yahoo.co.jp/book_detail/AAF77554/
2010年12月15日読了

フランス革命の芽がちいさくちいさく頭をもたげ、でもまだ、古い時代の秩序が民衆の心に麻酔薬を嗅がせていた時代。
物語の価値として本質的なことではないだけれど、一読してとにかく圧倒されたのは「時代の現実」の圧倒的なリアリティでした。
中世的な身分制度を神から与えられた特権と信じて毛の先ほども疑わない――支配者も、被支配者も、共にだ−―現代の感覚で言えば、なにか狂気的・・・人間の中に当然存在する獣の野性、その体臭を濃密に宿した人たち。
恐怖、畏怖、諦め、死の匂い。
そういう人たちの体臭を感じさせる行動描写が、もう、なんというか圧倒的なリアリティで、この時代の本質というものを垣間見た感じがするんです。
この時代、先日、マリー・アントワネット側の視点で描かれたご本を読みました、そして、おぼろな概要として「教えられた」フランス革命の知識も多少はあります。
けれど、視点を変えると――
「革命」という行為そのものより、「人間の感情が、許容量を超えて爆発する」ということのすさまじさ、その核爆発の如きエネルギーに対する知識じゃない「体感」というもの、うっすらとですけれども、その爆風の予兆が文庫本の小さな箱の中に渦巻いているのを感じました。

しかし、翻訳小説の読みにくさというのは、ちょっと訓練が必要ですねぇ!
最近国内文学ばかりを読んでいたものだから、形容詞に形容詞を重ね、皮肉なウィットと知的遊戯に飾り立てられた文章というのは、ふっと主語を見失う感じで、ちょっと油断すると筋が吹っ飛んでしまい文意がつかめないことも多々。
久々の挑戦に、文庫本半分ぐらいのリハビリが必要でした(恥)
しかし、一旦その文体が頭に馴染むと、いいねぇ!嵌りますね。装飾に装飾を重ねたデコラティブな文章が、空想の映像を伴って、畳み掛けるようにグイグイ迫ってくる!
特に、大公の死の描写など、なんというか想像の外堀をどんどん埋めて、ついに本丸が攻め落とされる瞬間の劇的衝撃っていったら快感ですらありました。

そして、登場人物たち、特に若者たちの感情たっぷりな生き生きとした存在感、恋愛に対する行為のまどろっこしいばかりの紳士的クラシカルさ、想像過多で空想・・・イヤ、妄想?に狂騒する感じ、ちょっと別意でたまらん面白さ(笑)

革命にも、若者達の恋愛にも、登場人物たちの謎にも、さまざまな火種をたっぷりと仕込んで、物語は下巻へ続きます。
うーん、どうなるんだ!?


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