文花座

歌舞伎、宝塚歌劇団、劇団四季・・・大好きな舞台の感想をつらつらと♪

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とっても興味深い企画を発見しました!!

明治大学リバティアカデミー オープン講座
市川染五郎丈×齊藤孝氏(明治大学文学部教授)×田中聡氏(読売新聞東京本社文化部記者)鼎談
『傾く技術(わざ)――三代の継承と日本的コミュニケーション』

開催日時:7月11日(土)13:30開場、14:00〜15:30

会場:明治大学リバティタワー 1階リバティーホール

参加費無料、ただし事前予約が必要(先着450名)。
座席は全席自由席とのこと。
いいお席をゲットすれば、アカデミックな講座内容的楽しみ+ミーハー心を堪能させるオトコマエを間近に拝める(!?)眼福付き、ってわけですな(笑)

応募方法等、詳細はこちら↓
http://www.meiji.ac.jp/

六月大歌舞伎でのご子息・金太郎ちゃんの初舞台をご覧になって、正直驚いた方は多かったんじゃなかろうか。
家族に幼児教育の専門職がいるのですが、若干4歳にしてあの舞台は「ちょっと、ありえない」レベルの行為なのだと聞きました。
彼は、選ばれた神童なのか――そりゃあの高麗屋のサラブレッドだもの、などと神格化しちゃうのは簡単です。しかもちょっと、マンガっぽくて面白い。
けれど、事実はそんなところにないでしょう。
歌舞伎の世界が、何十何百という「子役」を実地版テキストとして実験・検証し、その淘汰された成功例を脈々と受け継いでいる・・・その「知恵」「躾」、現代的に言うなら「教育方法」が彼のような存在を生むんだと思います。

リアルな話、そんなドラマみたいな「天才君」っていないよ。イヤ違う、子供はみんな天才であるのかもしれない。けれどほとんどの子はその天才ぶりを「発揮」はしない。
金太郎ちゃんは、それを、した。

この鼎談、『伝承の場から(生まれる)日本的コミュニケーション』を探る、という趣向で行われるそう。
伝統芸能の中には、結果だけみるとイリュージョンにも見える『天才づくり』のテクストが、実は存在するのかもしれない!

興味はどっさり、尽きませぬ。
実に楽しそうなこの講座、ご都合が合えば行かないテはないのじゃないでしょうか♪

ずーっと迷っていました、チケットのないこの舞台を諦めようか、諦められるか、いや違う「諦めていいのか」。
朝、家を飛び出して立ちっぱなしの約五時間。
今となっては、この舞台の記憶がない明日がくるだなんて、信じられないことでした。

人には二回の死があるのだって聞きます。
一度目の死は「肉体の死」。
否応なく、あと数十年もしたら仁左衛門丈の肉体はこの世に亡くなっているのでしょう。
でも彼に二回目の死は訪れない。
二度目の死は「その存在が忘れ去られること」なのだそうです。
人々の記憶から、今日の舞台が消えることなんてありえないのだから!
かの皇帝が探し求めたっていう『不老不死』の妙薬を、仁左衛門丈は手に入れたということか(*≧m≦*)

仁左衛門丈の与兵衛が見事だったこと、そのこと自体よりも凄みのある価値というのは、この「舞台」が素晴らしかったということなんです。
お吉役の孝太郎丈、両親を演じた歌六丈、秀太郎丈をはじめとして、出演者の誰もが・・・出演者だけじゃない、道具も音もなにもかも、舞台の空気を操るすべてのものが、素晴らしいまでの緊張感と、温度と、熱を感じさせて、ただの一度も私たちの「夢」が破れなかったことなんです。
メインの意匠だけじゃなく、すべてが緻密に織られた西陣織のような、その一本に最高の価値がある帯みたいだったんです。

舞台に常式幕が引かれた後も、拍手の圧力が幕を押して、揺らして、いつまでも幕を死なせませんでした。
この舞台の幕内に仁左衛門丈の存在を押し込めて、決して逃しはしたくないとでもいいたげに。
観客がこの一幕を終わらせなかったんです。
一度幕が開きました。幕が引かれた時の光景そのまま、凄惨な殺人現場がそこに。
舞台をほのかに明るませていたライトが消え、闇がお吉の死体を呑み込んで無に返してしまいました。

ただひたすらな拍手が10分ほども続いたでしょうか。
あの幕切れをご存知の方はご承知でしょうが、カーテンコールはありえませんでした。
でも、もしかしたら仁左衛門丈は、観客の心に応えられなかったとお思いだろうか?
私たちは松嶋屋にこの拍手が聞こえていれば満足です。
感謝を拍手に変えて、仁左衛門丈に思うさま浴びせたかっただけなのですから。

仁左衛門与兵衛は、駆け込んだ花道からそのまま、獄門へ向かって一直線に韋駄天走り、そしてもう帰ってはこないのでしょう。
繊細で大胆でこの上なく魅力的な松嶋屋の一世一代「女殺油地獄」、これにて幕と相成りました。

【公演データ】
公演名:吉例顔見世大歌舞伎 昼の部
『雨の五郎』
会場:歌舞伎座
観劇日:2005年11月3日

【主な配役】(敬称略)
曽我五郎:中村吉右衛門

非常にボワーッとした、大雑把な、鷹揚な踊りぶり。
吉右衛門丈踊るところの『雨の五郎』はそんな印象でした。

正直、ちょっと拍子抜けをしたんです。この踊り、主人公は敵討ちだけに若い命を燃やした火の魂みたいな男。そんな男が、雨の降るそのひと時、悲壮な覚悟を一時忘れて恋人のもとへ訪れる・・・そんなストーリィ(歌詞)を、こんなふうにことさらに強調した力みもなく、サラサラと踊るの?と。

それというのも、この舞台を拝見した丁度その頃、私は日本舞踊のお稽古で、この踊りを舞台にかけるために自分なりに突っ込んでお稽古していたんです。
もちろん、プロの舞踊家と比べたら恥ずかしいばっかりのレベルではありますけれど、一体どう踊れば、この踊りを最も魅力的に、表現したいことが最大限に生きるだろうか、と常に考えていました。
剛勇無双の血気盛んな若武者を表現するにあたっての「それらしさ」を、私は「力強さ」「鋭さ」「スピード感」といった、いわゆる「リアルな若さそのもの」の部分に求めていたんですね。
めったに与えられない「本番の舞台」に対する真剣さもあり、もう、なんというか、非常にテンションの高い、自己主張の塊のような『五郎!』というのが染み付いていたんです。

そんなさなかに、吉右衛門丈の『雨の五郎』がかかる!と喜び勇んで観に行って、の印象が、上記のようなものでした。
その印象が変わった・・・変わったのじゃないな。吉右衛門丈の五郎の、魅力の「本当のところ」に気付いたのは、自分自身が舞台で踊り、その結果をDVDで観た時でした。
「力強さ」「鋭さ」「スピード感」を求めた私の踊りは、狙いを貫徹こそしていたものの、非常にこせこせと小さく見えたんです。
手前味噌ではありますが、仕草のひとつひとつだけクローズアップしてみるならそれなりにスッキリと、凛々しい部分はある。
けれども、これじゃこの男、ただの癇の強い若者というだけなんです。
別に「五郎でござい!」と大見得きって舞台に乗せるほどのもんじゃない、只の「若者」という存在でしかなかった。

それに、余裕がない。隙がない(←踊り的にはツッコミどころ満載ですけど(^^;)遊びがない。イコール、可愛げがない。人間的魅力、いわゆる「色気」がないんです。

自分を大きく見せようとオーバーアクション気味に踊った部分もあったんですが、それがまったく大きさを生んでいない―――
要するに「輪郭がクリアすぎる」んですね。
そうなると、存在感=「自分の体の大きさ」ぶんにしか見えないんです。
結果、舞台姿が小さい。人間、そう物理的にデカイ人ってのもいませんからねぇ。

そう思って改めて吉右衛門丈の五郎を思い出すと・・・ボワーッとした、輪郭のあいまいな、大雑把なあの印象がとてもとても「大きい」のです。
物理的な意味だけだったら、同じ振りだったら、私のほうが吉右衛門丈よりも大きく踊ってました。
吉右衛門丈は、体を殺す、とまではいかなくても、めいいっぱい使うようなアクションはしてなかった。あるところなんか、手踊り的に小さく、振りをなぞるぐらいの軽さでやってたところもありました。
それが余裕を感じさせるんですね、振りが動作の説明じゃないんです、いわば「しゃれ」なんです。
改めて考えると、歌詞にある程度の物語性があるとはいえ、これは『踊り』なんですよね。『芝居』じゃない。
そして、登場人物の五郎さんは一個の『人間』というより、いわば『キャラ』としての存在なんだって。
だから、動作=踊りの振りつけも「まるで本物の若武者よう!」なリアルさを要求してるわけじゃなくって、振りが現実の動作に引っかかってるってのはいわば『ご趣向』、『洒落』なんですね。
それをご見物にきもちよーく観せる、魅せるってのが娯楽としての「踊り」なわけで。

もっと言えば、舞台の上にいたのは「曽我五郎」じゃなくて「中村吉右衛門」であることがハッキリしてました。吉右衛門が趣向で五郎に扮してます、っていうスタンス。
真剣になりすぎて、もしくは陶酔しきって、地の役者が消えてしまうような感じじゃない。
第一、あんなに立派な、運慶快慶の仏像みたいな貫禄の18才(だっけ?五郎さんの実年齢)いないよ。いるわきゃない。
客席はその二重性というか、二重写しになった趣向を楽しむという、こりゃまたヒネた、洒落を効かせたお遊びを楽しむわけなんですな。
吉右衛門丈の踊りはまさにそういう踊りでした。

この感覚というのは吉右衛門丈の舞台がそういう個性をもっている、というのじゃなくて、この『雨の五郎』って踊りそのものがそういう趣向の曲なんだなぁと気付きました。
だって、私の感覚で踊ったとき、なんというか、曲と踊りの寸法が合ってなかったんだもの。それはどうやっても埋まらなかった。
大きく踊れば大きく見えるわけじゃない。
若く踊れば若く見えるわけじゃない。
ことほどに、日本舞踊は、ムズカシイ・・・

―初めての方は「その1」から順番にお読み下さい―
その1 http://blogs.yahoo.co.jp/hana_yukiyanagi/53216454.html


【第12回テキスト 義太夫原文】

心付かねば、「ホンニマアなんぞ土産と思うても急な事、コレコレ女子衆、さもしけれどもこれなりと」と夢にもそれと白玉か露を袱紗に包のまま、差出せば、「こりやなんぢやえ。大所の御寮人様、様々々と言はれても心が至らぬ置かしやんせ。在所の女と悔つてか、欲しくばお前にやるわいな」とやら腹立ちに門口へほればほどけてばらばらと、草にも露銀芥子人形、微塵に香箱割り出した。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【原文】
心付かねば、「ホンニマアなんぞ土産と思うても急な事、コレコレ女子衆、さもしけれどもこれなりと」と

【解説】
初対面の相手にいきなり敵愾心むき出しの対応をされ、お染はびっくり。それでなくても大家のお嬢様ですから、むこうから擦り寄る人間は多くとものっけから自分を嫌ってかかる相手など見たことも聞いた事もないのでしょう。
(なんで私、嫌われているの?何か失礼なことをした?)
必死に頭を絞り「あっ」と気付きます。両親も店の使用人も、商い先を訪ねるときにはかならず手土産を携えていた・・・
そうだ!この子、私が手土産も持たずに訪ねて来たから腹を立てているんだわ!
この年齢で、この服装、今も家事仕事をしていた様子――お光の姿は、お染にとっては家で使っているお手伝いさん(=女中)そのもの。とっさに、お光を久松の家に雇われている使用人と勘違いします。
慌てていることもあるのでしょうけれど、彼氏の家に似合いの年頃の女の子がいるというのにほかの想像も働かず、自分のライバルなどとは露ほども思わないこの感覚、この余裕。妙に大らかというか無防備というか、良くも悪くも「お嬢」ですよねぇ。
お染の台詞。
「あぁそうね、お土産を差し上げるべきなのだけれど急なことだったから準備もしていなくて・・・わかったわ、お手伝いさん。たいしたものじゃないけれどこれをあげるから、機嫌をなおして久松さんに伝言して頂戴」

【原文】
夢にもそれと白玉か露を袱紗に包のまま、差出せば、

【解説】
お手伝いさんだと勘違いしているこの女の子(=お光)が久松の正式な婚約者であるなどとは思いもよらない、まさに夢にも「しら」ず=「白(=しら)玉」を言葉遊びの連想ゲーム。
「白玉」=「水の粒、露」を連想。美女の涙を白玉の涙なんて表現したりしますね。伊勢物語でありましたねぇ、野の草にとまった露を白玉かと聞く姫君の話・・・おっと脱線しました。
「露」=「涙」を連想。和歌の世界で「露に濡れた」なんて暗喩は泣き濡れたさまを表すことが多いです。
涙を「拭(=ふ)く」=「袱紗(=ふくさ)」を連想。袱紗というのは、まぁちょっとした綺麗めハンカチといったところ。
言葉遊びの連想ゲームで導き出された「袱紗」に包んで持っていたその品物を、袱紗から取り出すこともせずに差し出した、ということです。

【原文】
「こりやなんぢやえ。大所の御寮人様、様々々と言はれても心が至らぬ置かしやんせ。在所の女と悔つてか、欲しくばお前にやるわいな」とやら

【解説】
お光の怒りは、当然のことながら「訪ねてきたのに手土産がない!」なんてことじゃありません。それなのに、お染の一人合点で「これをあげるから」と差し出された品。物をあげれば機嫌が直る的な安直思考もイラッとするし、袱紗に包んだまま贈り物を差し出すというのもマナー違反です。
・・・と、細かく分析するよりも、今のお光には「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」です。
お光の台詞。
「なにこれ!?ご立派な家のお嬢様、お嬢様お嬢様と言われていたってちっとも礼儀がなってないじゃないの、なんて失礼なんだろう!
田舎者だとバカにしているのね、こんなもの要らないわ!自分が貰って嬉しいと思うんなら、あなたが持っていなさいよ!」とかなんとか、腹立ち紛れにぶちまけた。

【原文】
腹立ちに門口へほればほどけてばらばらと、草にも露銀芥子人形、微塵に香箱割り出した。

【解説】
腹立ちついでに、手渡された袱紗包みの「何か」を門口に放り出しました。衝撃で袱紗に包まれていた香箱(お香を入れる箱)の蓋が外れ、中身がばらばらとあたりに散ります。
何かとみれば・・・それは芥子人形(きわめて小さい木彫りの衣装人形。女児の玩具やひな祭りの飾りとして江戸時代に流行した。豆人形。)でした。
これが、愛しい男を大胆にも追いかけてくるような女が持っていた品なのです。
お染の幼さ、世間ずれしていない可憐・・・そして、その邪気のなさに一抹の恐さすらも感じさせる、「お染」を象徴する持ち物なのじゃありますまいか。

―その13に続く―
http://blogs.yahoo.co.jp/hana_yukiyanagi/59503835.html

―初めての方は「その1」から順番にお読み下さい―
その1 http://blogs.yahoo.co.jp/hana_yukiyanagi/53216454.html

【第11回テキスト 義太夫原文】

供のおよしが声高に、「もうし御寮人様。かの人に逢はふばかり、寒い時分の野崎参り。今船の上り場で、教へてもらうた目印のこの梅。大方ここでござりませうぞえ」
「アアコレもそつと静かにいやいなう。久松に逢ひたさに、来ごとは来ても在所の事、日立つては気の毒。そなたは船へサ早ふ早ふ」と追ひやり追ひやり立寄りながら、越えかぬる恋の峠の敷居高く、「物もふお頼みもうしませふ」といふもこはごは暖簾越し、
「百姓のうちへ改まつた。用があるなら這入らしやんせ」
「ハイハイ卒爾ながら久作様はうち方でござんすかえ。さやうなら大坂から久松といふ人が今日戻つて見えた筈。ちよつと逢はして下さんせ」といふ詞つき姿かたち。
「常々聞いた油屋のさてはお染」と悋気の初物胸はもやもやかき交ぜ鱠俎押しやり、戸口に立寄り見れば見るほど、美しい。「あた可愛らしいその顔で、久松様に逢はしてくれ。オホそんなお方はこちや知らぬ。よそを尋ねて見やしやんせ阿呆らしい」と腹立ち声。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【原文】
供のおよしが声高に、「もうし御寮人様。かの人に逢はふばかり、寒い時分の野崎参り。今船の上り場で、教へてもらうた目印のこの梅。大方ここでござりませうぞえ」

【解説】
社長令嬢・お染の供をしてやってきたお手伝いさんのおよし。
都会から来てみればひとしお身に染む田舎の寒さ、慣れぬ長歩きにすっかり疲れたところで訪ねる家をやっと見つけ、浮き足立って無遠慮な大声を出します。
「ねぇ、お嬢様。こんな寒い日にわざわざ野崎観音に御参詣なんてご口実。野崎村といえば、先日お店から暇を出された久松さんの実家があるところ・・・久松さんに逢いたい為ですわよね。えぇえぇ、よくわかっていますよ」
およしさんはお染と久松の関係をとっくにご存知の様子。
お染が彼女にだけは打ち明けて、女同士の共謀関係を結んだのでしょうか。
はたまた、秘めた恋と思っているのは幼い当人ばかりで、周囲にはバレバレ・・・どうもこっちのような気がします(^^;
「久松さんのお家、きっとここですわ!さっき目印にと教えてもらった梅がありますもの!」

およしさんのスタンスとしては、主家への憚り半分、女同士の同情と・・・好奇心、といったところでしょうか?人には言えぬ秘め事の現場に居合わせ、そりゃ(現場の東海林です)ぐらいのテンションはあがってきてますでしょう。
そこが大声になっちゃうってところが、ある意味暢気だし、事態の深刻さをかえって引き立たせるようにも思えます。

【原文】
「アアコレもそつと静かにいやいなう。久松に逢ひたさに、来ごとは来ても在所の事、日立つては気の毒。そなたは船へサ早ふ早ふ」と

【解説】
お染の台詞。
「ちょっとちょっと、声が高いわ!久松に逢いたいばかりに夢中になってきてしまったけれど・・・こんな田舎じゃ、私たちの姿はそれでなくても目立っちゃってるのよ」
都会の娘が身にまとう艶やかな振袖姿、その洗練された風情――くわえて彼女は超美少女。といったら、この鄙びた田舎村の風景の中では場違いも甚だしいわけです。
けれど、今日ばっかりは目立ちたくない。
「あなたの大声で人目に立ってご近所の噂にでもなったら困っちゃう。もうここまで来れば大丈夫、あなたはもういいわ。先に(帰りの)船に乗っていて。早く行って!」
ここまで頼るよすがに頼ってきたおよしさんへも、用が済めば命令一つで下がらせ干渉を許さない。わがまま・・・とだけじゃない、社長令嬢の帝王学といいますか、彼女にはお嬢様特有の凛としたところがあります。

【原文】
追ひやり追ひやり立寄りながら、越えかぬる恋の峠の敷居高く、「物もふお頼みもうしませふ」といふもこはごは暖簾越し、

【解説】
心配と好奇心(!?)から立ち去りかねるおよしを無理に立ち去らせ、いよいよ久松さんの家を訪ねます・・・しかし、二人の間の障害を象徴するかのように立ちふさがる家の門。
田舎家のそれですから、現実には粗末でちっぽけ、すぐに向うが見えるぐらいのもんなのでしょうが、今のお染にはまったく越えかねるほどの敷居の高さに感じられます。
しかしこうしてはいられない。
お染の台詞。
「あのう、おそれいります・・・ちょっとお尋ねしたいのですが・・・」
おずおずと遠慮がちに、家の内に声をかけます。

【原文】
「百姓のうちへ改まつた。用があるなら這入らしやんせ」

【解説】
門口で訪なう人の声を聞き、家の中からお光ちゃんが応えます。
「そんなご丁寧に、いいんですよ!礼儀にうるさいような立派な家じゃないもの。ご用があるならどうぞ入ってきてくださーい!」
婚礼料理を作っている最中で手も離せないしね。

【原文】
「ハイハイ卒爾ながら久作様はうち方でござんすかえ。さやうなら大坂から久松といふ人が今日戻つて見えた筈。ちよつと逢はして下さんせ」といふ詞つき姿かたち。
「常々聞いた油屋のさてはお染」と

【解説】
キビキビとしっかりしたお光の声に、自分の家で使っている若い女中でも思い出したのでしょうか。お染も落ち着きを取り戻して問いかけます。
「恐れ入ります、この家は久作様のお家でしょうか?それでしたら、大坂から久松という人が今日戻ってきているはずなのですが、逢わせてください」
この言葉!お光の本能がそれを知らせます。
(この人だ!この人が久松さんと不義をしたという・・・油屋のお染お嬢様!!)

【原文】
悋気の初物胸はもやもやかき交ぜ鱠俎押しやり、戸口に立寄り見れば見るほど、美しい。「あた可愛らしいその顔で、久松様に逢はしてくれ。オホそんなお方はこちや知らぬ。よそを尋ねて見やしやんせ阿呆らしい」と腹立ち声。

【解説】
膝の前においていたまな板を押しやって戸口まで駆け寄り、目にしたのはたじろぐほどの美少女・お染の姿でした。
昨日までのお光なら、そのオーラに圧倒されて言うべき言葉も見つからなかったかも知れません。が、今、お光の胸には『久松さんの正式な婚約者』の自負があります。
お光の胸にムラムラと燃え上がる嫉妬(=悋気)の炎。夫婦約束をしてはじめてのヤキモチですから『悋気の初物』とは上手いこと言いました。
嫉妬に怒りに不安に・・・さまざまな感情が胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。まるでさっきまで作っていた鱠をかき混ぜるみたいに。
見れば、見るほど「美しい」―――
「あた」は副詞で、不快・嫌悪の気持ちを表す語に付いて、その程度がはなはだしいという意を表します。
そんな天使みたいな可愛らしい顔をして、なんて悪い奴!娘は久松さんをたぶらかして、店の主人は言われない濡れ衣を着せて追い出した!
それをいけしゃぁしゃあと「久松さんに逢わせてくれ」ですって!
カッと嫉妬に凝り固まったお光ちゃんは、戸口に立つお染に意地悪な嘘をつきます。
お光の台詞。
「ほほほっ、違いますよ、久松なんて人は知りません!他を訪ねてみなさいな!間違ってくるなんて迷惑だわ!」
怒り声もすさまじく、けんもほろろに追い返しました。

―その12に続く―
http://blogs.yahoo.co.jp/hana_yukiyanagi/57861733.html


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