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メアリ・アンは敬虔なクリスチャンであった。
銃社会アメリカにあって、彼女は帯銃をかたくなに拒んでいた。
(主は、あのような殺戮の道具を決してお認めにはならない)
夫と、8才になる一人息子のヨールン。
神の傍らに寄り添い、祝福を受ける穏やかな日常―――アンは一抹の疑問も抱いていなかったのだ。
「あの」事件があるまでは。
その日、アンは近所のマーケットに買い物に出た。
マーケットで母親仲間と会いしばらく話し込みはしたけれど、たいした時間も経っていない。
自宅に戻り、玄関の前で買い物袋を揺すり上げてドアノブに手をかけると、抵抗もなくノブが廻った。
(あら、鍵をかけなかったかしら)
かすかに感じはしたものの、心にかかるほどのことではない。
息子の名を呼びながら廊下を抜け、無造作にキッチンの扉を開いた瞬間―――
アンの目が義眼のように動きを止めた。
男が居る。見知らぬ男が。
棒立ちになるアンに向かって、男は突然腰に差したものをこちらに向けた。その手の内にあるものが何かわかった瞬間、アンの中で何かがスパークした。
男は銃を撃つつもりなどさらさらなかったのだろう、腰を抜かしたアンに怯えるように逃げ去った。
男の足音が耳の奥から消えた瞬間、アンは狂ったように2階に駆け上った。
子供部屋のドアを叩きつけるように開くと、幼い息子の紅茶色の瞳が驚きに見開かれ、こちらを向いている。
「ああ、ヨールン!!」
アンは血を吐く思いで息子の名を呼んだ。
あの瞬間がアンの脳裏に焼きついて、はなれない。
銃を突きつけられ、命が男の手に委ねられた瞬間―――アンの頭の中で、何かが叫んだのだ。
(主は、この弾丸を逸らしてはくださらない)
今、アンの掌には生まれて初めて手にするものが握られている。
女の掌にわずかに余るほどの、あっけないほどの小ささにはいささか拍子抜けがしたほどだ。
夫はもともとアンに帯銃をすすめていたくらいだったし、入手しようと決意した途端にそれは手元にやってきた。
(主よ、お許しください。決して使うことなどありえないのですから。弱い私のお守りなのです)
そう。私と、幼い息子を守るための、お守りだ。
それをポケットに滑り込ませ、アンは家の鍵を鍵穴に差し込んだ。
抵抗感がない――――開いている。
アンの総毛が逆立った。鍵は、閉めて出たはずなのに!
叫びだしたい思いを堪え、アンはポケットの中で「あれ」を握った。冷たい感触が神経を宥める。
(お守りだ。)
ノブに手をかけ、そろそろと開く。
しんと静まり返った家の中は、うすい闇の色に染まっている。
いつ、その闇が凝り固まって人の形の影となるか・・・
(どくんどくん)
心臓が湿った音を立てる。
(どくんどくん)
ドアをひとつひとつ、開いていく。
見慣れた家の中が生気を失い、不気味に静まり返っている。
いくつものドアが開け放たれ、逆立った神経は幾分納まりかけていた。
手の中の冷たいものは、いつしか体温と同じに馴染んでいる。手の内でそれを握りなおし、最後に、寝室のドアを開けたその瞬間―――
正面のクローゼットが、凄まじい音をたてて開いた。
「ばあっ!!」
(あっ、ヨールン!!)頭が叫んだ。
けれど、手の中の銃が一瞬早く火を噴いた。
血が四方に飛び散っている。一瞬前まで滑らかだった彼の胸に、内側から弾けかえるような風穴が・・・
アンは叫んだ。何を叫んだかは分からない。
息子は、自分の死が分かる年齢になってしまっていたのだろう。
狂気に飲み込まれる母親の正気に縋りつくように、最後にこう言った。
「ママン、アイ、ラブ、ユー」
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