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慶安太平記(=けいあんたいへいき)
――初めての方はその1からお読みください――
その1【江戸城外濠端の場】http://blogs.yahoo.co.jp/hana_yukiyanagi/39543595.html
【丸橋忠弥住居の場】
「忠弥殿はいらっしゃるのであろう、すぐさまここへ呼んで下され!」
「申し訳もございません、夫はただいま・・・あの・・・」
男二人に怒気荒く迫られ、おろおろと戸惑っているのは丸橋忠弥の妻・せつ。
こちらは本郷御茶ノ水の丸橋忠弥宅、男たちは忠弥を訪ねてやってきた幕府転覆計画の同志・駒飼五郎平と勝田弥三郎です。
その怒りの原因はというならば、江戸城襲撃の決行日が間近に迫り、江戸のそこここに潜伏している同志たちの緊張も最高潮に達しているにも関わらず、総大将である丸橋忠弥からはいかなる指示も発せられないことへの不安からくるものでした。
その上、彼について聞こえてくる噂といえば耳を疑うようなものばかり―――
両名はしびれをきらした同志一同を代表し、行動の指示を求めて自宅に乗り込んできたのです。
しかし、自宅にいるのは分かっている忠弥が出てこない。
「体調不良で臥せっている」という女房の弁解など、聞くまでもなく単なる二日酔いに過ぎないことはバレバレなのです。
今にも襖を蹴破って奥へ乗り込もうとする二人の勢いを、もはやせつの細腕ではどうしようもなくなったとき、奥から忠弥が現われました。
座敷に転がり込むように現われた忠弥は、だらしのない着物の乱れもそのままに、へらへらと弁解をはじめます。
いや〜悪かった悪かった、すぐに出てこられなかったのは、訪ねてきたのが借金取りと思ったからだ。槍を取っては怖いものなしのこの忠弥、しかし借金取りは怖い、怖い!
まったく笑えないギャグに一人で大笑いするその姿は、両名はあっけに取られて押し黙り、せつは赤面してうつむくことしかできないほどにみっともないものであったのです。
しかし、いくらこのざまとはいえ、忠弥は由比正雪が信頼し、計画の核とも言える江戸城襲撃の総大将と定めた人物です。
大事決行が間近に迫ったこの時期に、同志の分裂だけは避けたい両名は怒りと軽蔑の思いを押し殺し、忠弥に指示を仰ぎますが、そのありさまはのれんに腕押しのたとえそのもの。
ついには「指示をくれというならくれてやろう。お前ら、すぐに帰れ!」と暴言を吐くなり、酔いが誘った睡魔に負けて、二人の目の前で高いびきをかきはじめたのです。
事ここに及んで堪忍袋の緒が切れた二人は座を蹴り、とりなしに追いすがるせつを乱暴に振り払って帰って行きました。
(どうしよう、これでは旦那様の面目は丸つぶれ・・・)
しかし、両名の至極もっともな怒りを宥めるすべもなく、進退窮まって振り返れば、必死にかばい立てしようとしている自分の夫はこのだらしない有様です。
―――旦那様は、もう駄目なのだろうか。
人が人として、武士が武士として美しく生きる道を切り開くのだと、その理想の旗手であったはずの人がなぜ・・・・もう、夫の心が、分からない。
ふと悲しくなるような思いを押し殺し、座敷で眠りこける夫の寝冷えを気遣って布団を整えてあげるせつ。
とそこへ、せつの実父・藤四郎が忠弥宅を訪ねてやってきました。
藤四郎は弓師(=武器商人)として物堅い商いを行う真面目な人物です。
身分こそ商人ではありますが、仕事柄、武家とは深い交流と親交を持っており、人物の性質としても武士の精神に似通った要素を持っています。
武家への憧れもありましたろうか、一人娘のせつを嫁がせるならぜひとも武士のもとへ、と願った藤四郎は、浪人といえども槍道場を構える武芸者ならばと忠弥を見込み、彼女を嫁入りさせたのです。
(しかし、この選択は正解とは言い難かった)
苦々しい思いで娘の家を訪ねた父の目的は、借金の返済を求めるためのものでした。
浪人(=主君を持たない武士。いわば失業者)である娘婿に「槍術の腕前を買われ、紀州家から剣術指南役としての仕官(=就職)の誘いを受けたのだが、仕官に必要な支度金が整えられない」と相談された藤四郎。
娘の夫が超名門・紀州家のお抱えとなれば・・・!
話を聞いた藤四郎はすぐさま四方に借金をし、200両(=約1200万円)を整えて忠弥に渡しました。
しかし、金を受け取った忠弥は一向に仕官をする気配もありません。
あまつさえ、借金と共に誓った禁酒の約束はまったく守られていない様子・・・方々からの借金返済の要求を受けても、当の忠弥からは金を返そうという気配すらないのです。
いわば騙された格好の藤四郎は、複雑な怒りを胸に抱いて忠弥宅を訪ねてきたのでした。
忠弥宅に着き、放心状態でぼんやりしている娘に声をかけてふと見ると、昼日中から座敷にごろりと寝転んでいる娘婿の姿。
「体でも悪いのか」と聞いても、言葉もなく俯くばかりの娘。
やはり例によっての二日酔い・・・ため息をつき、今日もまた言わずもがなの説教をするために娘婿に相対する羽目になりました。
さすがに女房の父ともなると無視もできない忠弥はしぶしぶ起き上がってかしこまりますが、父が心を込めての説教も馬の耳に念仏。
禁酒の誓いを破ったことを詰れば「それではお約束の期間を3倍に伸ばしましょう、寝ている間は酒を絶ちますからお約束は叶いますな」などとふざけた詭弁でのらりくらり。
ついには説教の最中にこくりこくりと船をこぎだし、いぎたなく眠りこけてしまいました。
父と娘の心に絶望が広がります。
激怒した父は娘を即刻連れ帰ろうとし、せつは慌てて抗います。
しかし事ここに及んで実家にも多大な迷惑をかけ、それでも離縁を拒むなど、父が許さないことは明白です。
そして自分自身の夫への信頼も・・・
忠弥殿から三行半(=離縁状)を頂きます、二人だけで話をさせて、と願う娘の心に藤四郎は情けをかけ、次の間へ下がって待つこととなりました。
父もいなくなり、座敷には忠弥とせつの二人―――
忠弥の寝顔をじいっと見つめ、悲しく揺り起こすせつ。気持ちよく寝ていたところを起こされた忠弥は、せつの心など見えぬげに、寝起きの不機嫌さで文句をたれます。
せつは泣き出さんばかりの一大決心で平伏し、忠弥に離婚を願い出たのです。
さすがに酔いも吹っ飛んだ忠弥の顔に動揺が走ります。
「離縁するというのか、俺と?」
「はい」
悲しみと絶望に震えるせつの背中に、酔いの醒めた忠弥の声がはっきりと断じました。
「よし!・・・せつ、離縁はしないぞ!」と。
―――その3へ続く―――
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