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【公演データ】
公演名:シネマ落語『落語研究会 昭和の名人 弐』
会場:東劇
観劇日:2011年5月21日(土)13:30開映
【主な出演】(敬称略)
三代目 古今亭志ん朝「船徳」
十代目 金原亭馬生「臆病源平衛」
六代目 三遊亭圓生「引越しの夢」
八代目 林家正蔵「中村仲蔵」
《正蔵さんの「中村仲蔵」!》
師匠に対峙した仲蔵は、まだ気付かない――
師匠に、というより、観客に、いやもっと次元が違う、「歌舞伎そのもの」に、斧定九郎の工夫が受け入れられたことを。
師匠の言葉に、その興奮に、徐々にそれを識っていく仲蔵の・・・心理、なんて言いたくないなぁ。なんて表現したらいいんだろう。
奇跡が、キラキラした芸の奇跡が自分自身に降りかかってくる、そのある意味神秘的な超然とした感じと同時に、支えてくれた女房の深い愛情とか想いとか、もっと言えば受け入れてくれた観客たちとの魂の交流、そういうものすごい「人情」の部分、さらには、仲蔵という男自身の――今までの努力とか矜持とか苦労とか、過去、今、未来・・・存在そのもの、男一匹の「生きている価値」が、今、鮮やかに肯定されている!ってこと。
そんなこんなが一気に押し寄せてきて、眼の覚めるような興奮がもう体を駆け上ってくるかのようだった!
すべてに対する祝福というか・・・イヤ、理屈はどうでもいい!「さかえやっ!!」の大向こうでも一発かけて、最高にスッキリしたい気分!
そしてね、さらに圧巻だったのが、その後の始末です。
劇的興奮というならば、その瞬間、最高潮でポン!と観客を放り出すように断ち切っちゃえば舞台効果は最大限に違いないって思うんだけれど、普通、そうすると思うんだけど、正蔵さんは(というか「落語は」かな?)それをしないんですねぇ。
師匠宅から帰宅して、家で待つ女房のもとへ―――「日常」へ、「あたりまえ」へしっかり着地して、最後はギャグであっけないほどストン、と、終わる。
なんていうか、舞台って普通、非日常を「最高級」と位置づけるでしょう。客席を興奮させたなら、その興奮を最高潮のまんま、観客の感情をより天上に近い場所まで持ち上げておいて、パッと手を離しちゃう。
客席は日常までのスカイダイビングを終えるまで、興奮から逃れられない。
ま、その決死感がたまらないものではあるんですけれど、ちょっと、あります。
興奮が見えなくする部分とか、アラを隠す部分とか、そしてやっぱり・・・なんというか、感覚的に、残酷というか、優しくない。スリリングさは、許容量を限定します。
でも、この高座は違う。
最高潮から、観客の手を離さず、きちんと人の住まう場所まで戻ってきてくれる。そして大地を踏んだことを見届けるなりすぐさまくるりと背を向けて、お礼を言うスキも与えずにハイ、サヨナラ!って感じ。
だから、観終わった後、劇中世界の夢から醒めたってほどの倒錯感がなくて、いわゆるハレがましさがほとんどないんですね。ウン、わかった、って感じで平凡な顔して席を立てる。
でもその後、キます!!当たり前だ、最高地点が本物の高さだったんだから!
手をとって下ろしてもらったから、落差にその場では気付かなかったかもしれないけど、たしかにすっごい高い場所での景色を見た事実は事実で、あとから「・・・あれ?あの体験、すごくなかった?」が後からジワジワジワと。
「え?」「あれっ!?」てなもんで、時間差攻撃です。
興奮の助けを借りなくてもちっとも価値の減らない「本物の凄み」をこっそり置いてってくれた。それも理屈らしい「理性」じゃなくて、「本能」って場所に。そんな感じ。
この「こっそり」感が、照れなのか、なんなのか(笑)奥ゆかしいのか!?
それにしても、観客の興奮が、その場でよりむしろ後になって大きなスケールを持つときに、演者である人はもうそこには居ないわけで・・・絶賛も、歓声も、その場では正当に受け取ってませんよね、きっと。
落語家さんという仕事を選ぶ人なら、絶対そういうことに対するストレートな欲望とかあると思うのに。
でもあえて、なのか、たまたま損な芸風というだけ、なのかはわかりませんけれど、それができる芸人って、なんかスケールというか、品というか、やっぱり、「格」というのを感じるなぁ。と感じました。
正蔵さんの語り口は、なんというか、モッタリと牧歌的な印象なんだけれども、口から言葉が出てくる端からそれが全部事実になっていくような不思議なくらいのリアリティ、説得力がありました。
舞台をどんなに楽しんでいても、ふっと気が逸れる――劇場空間の夢から覚めてものを考えちゃう一瞬っていうのがどうしても避けられなかったりするんですが、いや、それがなかったですね。
中村仲蔵の物語に全身で浸かった感がある!
禅じゃないけど、無の境地。与えられるものだけ受け取って、純粋にそれだけになれた!
その感覚を与えてくれたのが、落語っていう芸だってこと、驚きです。
だって言葉だけですよ!+表情と、座布団の範囲でだけの動作。
衣装もなければ、女の役といったって見た目爺さんだし(そりゃそうだ)、声音だって、決して女の声じゃないのに、嘘なんてひとっつもなかった。
心根が本当にあったかくて、亭主を心底尊敬して、信じてる、愛してる、賢くて立派な・・・でもきっと亭主のいないところでは悔しくて泣いたであろう、いい女房が、居た。
不安定な瑞々しさと登り龍みたいな勢いのある、御曹司じゃない叩き上げの、悲哀とハングリー精神を腹にかかえた才能ある役者が、居た。
土砂降りのなか、濡れ鼠になって蕎麦屋に飛び込んできた男の、その清冽な、肉体感!
いやーーーー!!名演って、これかーーーー!!!!
いやーーーーー!!落語って、これかーーーーー!!!!!
これはもう、本物の高座、観たい!!
正蔵さんがいらっしゃるなら私的には絶対外せないお一人ですけれど、もう、お亡くなりだものなぁ・・・
なんていうか、この機会、シネマ落語。
正蔵さんは亡くなる時にその芸ごとあの世にもっていってしまった、それはどんなに音源が残ろうが、映像が残ろうが、究極の意味では事実に違いないんだろうけれど、それでも残してくれたものが与えてくれる喜びとか、興奮とかが、こんなに、大きい。
「資料」という札をつけてどこぞにしまってあったVTRなのだろうと思うのですが、それをちゃんと「娯楽」として提供してくれて、そのことが本当に、このVTRに命を与えたと思うし、私たちにとってありがたいことだと思いました。
きっと、芸を継ぐ人たちにとっても、正蔵さんの芸をこういうかたちであっても知っている人が客席にいて、言いたいことを好き勝手言いまくっていること、腹も立とうが鞭にもなろうと思う。時々、理不尽ではあろうけれど(^^;
團菊じじいならぬ俄正蔵ばばあ(!?)いやせめて正蔵姐さん(懇願!)として、どこかのどなたかの高座を聴きに行きたいです。
どなたがいいのかなぁ?
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