文花座

歌舞伎、宝塚歌劇団、劇団四季・・・大好きな舞台の感想をつらつらと♪

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お正月休みも明けて初出勤の朝。
御屠蘇気分も抜け切らぬ、甘えたな機嫌で半分寝ながら朝ごはんを食べていたのです。
ラジオが言った「中村富十郎さんが亡くなりました」
一瞬で目が覚めた、なんて鮮やかな冗談!けれどニュースは冷静で、そのプロフェッショナルな口調に澱みはなくって、言葉がどんどん現実を積み上げていきました。
富十郎さんの心臓の鼓動が消えてしまった、もう、祈りも奇跡という言葉も無意味なのだという、いやぁ嘘だろう冗談だろうと思うその間にもどんどんどんどん事実が積み上がって、でも、誰もそのことに抵抗もしないのです。
いや、抵抗しないのじゃない。「できない」のだ、事実だからだ、やっと理解しました。
本当に、富十郎さんが死んでしまった。

記憶に、それこそブルーレイ並みの高画質で残っている富十郎丈の演技があります。今も、胸の中に呼びかければいつだって上演できる。
十八代目中村勘三郎襲名披露狂言「盛綱陣屋」、主役の盛綱は勘三郎丈、富十郎丈のお役は和田兵衛でした。
お役のこまごまとした云々はいいでしょう、二人は死をすぐ傍らに控えさせた武将同士、敵対する間柄です。
富十郎丈(演じる和田兵衛)の懐の深さ・・・いや、イメージで言うと「ふところ」なんていう小さな、内向きの範囲に収まりきるものじゃなかった。
青空。それもその向うに暗黒の、永遠の、完全な無であり無限の有である「宇宙」を従えた青空。
あの和田兵衛を、自分の感覚に一点の嘘もつかずに表現しようとしたら、抽象的ではあるけれどまさにこれしかありません。
常に傍らに居る「死」の存在を誤魔化さず、しかし生を諦めていない、あるがままを受け入れ、いささかも怯まず、臆せず、あけっぴろげで、太陽のように明るく、自然体である。
悟りという言葉から抹香臭さを抜いた感じ。
秋の空のように寂しく明るく、涼しく澄み渡って、どこまでも突き抜けて、高い。
盛綱と兵衛は敵同士であるにもかかわらず、敵の目をまっすぐに見据えて、言葉やら利害やらそんな人間にとっての「枝葉」には一切頓着せずに、むきだし裸の魂同士で対話する・・・その骨太の、爽やかさといったら!
そのがっつりとした、いわゆる「漢」の清潔感、究極の意味での童心、それこそ女の出る幕じゃぁない犯しがたい聖域感!
現代的な感覚で言えば、富十郎丈、別に美男じゃありません。
けれど、この和田兵衛に私は心底、惚れました。
私はこんないい男、はじめて見たと思いました。

富十郎丈といえば・・・これはちょっぴりワルクチ!?にもなっちゃうのですが、初日開けてすぐの舞台なんかだと、台詞が入っていないことがよくありました。
後ろで台詞を付けるプロンプターの声がはっきり聞こえて、その言葉をそのまんま富十郎丈のお声がなぞっていく、なんていう、ちょっとギャグみたいなこともあったなぁ。
私が歌舞伎を観始めてすぐの頃。私も若かった・・・というか、カブキズキ界での幼稚園児には、まっすぐな正義感というか、やたら潔癖な真面目さがあって、舞台を極端に神聖視したがるんですね。だから、そういうのすごく嫌だったんです。そんなの舞台に対する不真面目不誠実であると。目に見える部分しか見えないものだから。
でも、悔しいことに、私はそんな演技にさえ心を動かされてしまったことがある。
悔しい悔しいと思いながら、感動してしまった。観劇に求めていた「欲しいもの」を満たされて、満足してしまったんです。
台詞回しの妙に、人間描写の説得力に、その「芸」に。
理性は反発しているのに、本能は満足してしまったのでしょうね。
だから、生意気な悪口なんかで毒づきながらも、富十郎丈の出る舞台は大歌舞伎だと信じてお金を払ったのです。いや、払えたのです。
「お金を払える」って言い方は、潔癖な理想家には俗っぽいし、下世話に感じられるでしょう。けれど自分でお金を取ってくる人ならわかるはず、それがものの価値の真実です。
「芸が若い」人の未熟さも、それを補って余りある情熱に、誠意に抱かれていれば美しいと思います。けれど、はっきり言ってしまえば私は「熱意に対して」だけでは、お金を払えない。そういう舞台のために支払うチケット代に名前をつけるなら「応援」「未来への投資」「ひと時の快楽」・・・時折、競馬の大穴のような万馬券をつかむこともありましょうが、いわば「ギャンブルにつぎ込む捨て金」です。羽根の生えた浮き金、ご祝儀、いわば洒落です。
代金と、精神的な意味での対価が正当なものとは思っていない。
舞台芸術において、それを得る為にお金を払う価値があるのは「芸」に対してだけです。
それは「今」目の前にあるこの時だけじゃない、彼が生きてきた時間、積み重ねてきた稽古、肉体に取り込んできた技術、恨まれた託された夢見られた運命と、才能、先に死んだ人の命ごと。その蓄積に対する、尊敬と信頼。それら全部を内包した「芸」ってもの。

富十郎丈が教えてくれました。歌舞伎っていう娯楽に対する、観客の(私の)心の中のエゴイズム。清濁併せ呑む、残酷さ、リアルさ、冷徹さ。
そして、舞台の上では「真に価値あるものの存在」だけは何にも犯されないっていうこと。そう、人気にも、美貌にも、若さにも。

富十郎丈を観るためのチケット代、きっちり還ってきました。
記憶の中に収まった財産の、まっとうな・・・いや、そうとう「お買い得な」対価として。

富十郎丈がいつかインタビューで、こんなことを仰っていました。

息子の鷹之資が二十歳になったら、富十郎の名前を彼に譲りたい。
そうなったら自分はなんて名にしようかな。
「富くじ」なんてどうだろう!

「富くじ」丈に、「大当たり!!」なんて機嫌のいい大向こうが掛かって。
その大らかなめでたさに、歌舞伎座につめかけた満場の観客がどっと笑う。
新富十郎丈の清かな凛々しさと、福福しい守り神さまの笑顔。
そんな景色は、未来の現実だと思っていました。根拠もなく、信じて疑わなかったのに。

満81歳というお年を、若すぎるなんて言ったら怒られてしまうかもしれないけれど・・・
富十郎丈は、明朗な芸質ゆえか、溌剌と明るいその存在感ゆえか、とても若く思えました。お体が利かないことなんかあったはずなのに、舞台姿はすごく若く見えて、だから、富十郎丈逝去のニュースから受けた衝撃は、感覚的には50代60代の働き盛りが突然亡くなったと聞かされたショックに近かった。
そして、実年齢を聞いて二重にびっくりしたというのが正直なところです。
人生を全うされた方に、もっともっとをねだるのは浅ましいと知りつつも、もっともっと時間が欲しかった。悔しい、悲しい、惜しい、まだ早い・・・そういう、ガツガツした餓鬼の心を観る者にむき出しにさせるだけ、富十郎丈はなんというか、生命力に溢れていらっしゃいました。
もう、富十郎丈の未来が歌舞伎の板の上にないなんて、冗談きついよう。

思い出したこと、もうひとつ。
富十郎丈を特集したご本を読んだ時、お母様の吾妻徳穂さんが何かのスピーチで「私が、一さん(←富十郎丈のご本名)を産んであげたのですよ!」と仰っていた、というエピソードが載っていました。
舞踊の名手が、息子をこの世に届けたことをこんなに朗らかに誇っている!
舞踊界に中村富十郎の存在があることは真に価値があることなんだって、そうはっきりと親が口にできる存在。
カッコいい!ものすごく。

富十郎丈の舞台を観られたこと、幸せでした。
でも不思議、もう亡くなってしまった方なのに、いつかまた会えそうな気がするのです。それもまた、富十郎丈らしさなのかもしれません。

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