文花座

歌舞伎、宝塚歌劇団、劇団四季・・・大好きな舞台の感想をつらつらと♪

幕間の歌舞伎語り♪

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まさおか!

お江戸は歌舞伎座。
おめでたものの初春公演がいつにも増して晴れがましいのは、舞台を飾る世にも豪華な藤花ぶさのおかげどす(^^♪
231年ぶりに復活した上方歌舞伎の大名跡・坂田籐十郎襲名披露公演!

新藤十郎丈から、お祝いにかけつけたカブキズキへの返礼は『伽羅先代萩』の大芝居―――これがね、本当に、惚れ惚れするほど強い、素晴らしい「政岡」で!

舞台の余韻覚めやらぬままPCに向かうなり、ものすごい勢いで「まさおか!!」とタイピング、変換キーをスパーン!と・・・とォΣ(゜□゜*)!!
とんでもないドラマティックな叫びが目の前にっ!!

『 正雄か!! 』

20年ぶりに帰ってきた息子を出迎える母の叫び!?

スパーン!(←玄関の引き戸を開けた音)
(玄関をはだしで飛び出す老いた母、薄汚れた姿で所在なさげに立つ男に)「正雄か!!」
(ボストンバックを取り落とし)「・・・そうだよ母さん、かえって来たよ!!」
そして無言の抱擁(T^T)(T^T)

・・・みたいなものすっごい感動場面がトツゼン頭の中で繰り広げられ(笑)
トツゼンスタートした(しかもいきなりクライマックス)なPC劇場に一瞬カナリひるむ私。

政岡・・・正雄か。そうですか(^^;
世の中は「政岡!」より「正雄か!」の方が使用頻度が高いもんか?いや、いいんですけどね。別に文句はないんですけどね。

以前「びおれ」(=洗顔料の商品名)って言葉を変換したときに出た

『美俺』

に次ぐ衝撃ではありましたね。

・・・というか、美俺って何?一体どんな場面で使う単語?

――初めての方は「その1」からお読みください――
http://blogs.yahoo.co.jp/hana_yukiyanagi/21919417.html

そして、ラストシーン。
かつての威勢は影もなく、ざんばら髪に胸をあえがせて立つ一家の長。
その前に立ちはだかり、余裕の笑みで彼を見下ろす頭。
頭の後ろには、かつて長の下で一家を形成していた人間たちがずらりと居並び、長の最後のさまをにやにやと笑っています。
そこへ駆けつけてきた、若者―――

ここからは、人物たちの心の説明を省いて、ストーリーだけを。

第一の子分の登場に、頭はにやりと笑い、そして言う。
「お前に手柄をやろう」と。
手渡された抜き身の短刀。
若者は短刀を握り締め、絶叫しながら刺し貫いた体は・・・かつての長ではなく、頭のものでした。
頭はくず折れ、絶命します。
そして、若者は後難を恐れたかつての身内によって、なぶり殺しに殺されるのでした。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ラストシーンのこの展開。
一瞬意味がわからないでしょう。唐突すぎるようにも思えます。
この場面に説得力を持たせる為には、私が演じる若者役の心の動きを客席に納得させなければいけない。
それが出来なきゃ、たんなる辻褄の合わない茶番になってしまう。

(若者は、天然記念物並に一途で純真で、犬のように忠実で、そして、愚かな男。
自分を「本物の任侠」だと―――いや、「人間」だと、認めてくれた唯一の男がこの頭なのだということに気づかなかった)
かつての同士が、かつての長の死を笑う現実に恐怖した。
ずっとそばについていて、頭の人柄に気付きはじめてはいたものの、人を罠に嵌めて殺す残酷な笑顔に恐怖した。
人間のすべてに絶望して、それは、なかば・・・自殺だった。

私は必死でした。
「事実が理由を語ってくれない」心理芝居、役者に説得力がなければすべてぶち壊し。
どなたか、狂言作家の先生の新作だったのです。初演を大ゴケさせるわけにはいかない。
勘三郎丈が主演なのです。芸歴の汚点にしてはならない―――

私には稽古をする時間がいっぱいありました。
けれど、勘三郎丈はドラマか何かの撮影があって、ほとんどお稽古をなさっていなかったはずなんです(という夢設定。)
台本を手に狂言作家の先生と話し合う勘三郎丈に「うわぁぁ勘三郎丈だぁぁ」「本物だぁぁ」とおののく私。
下っ端の私は恐れ多くてそばにも寄れず、作品の解釈を話し合うどころか言葉をかわすこともできませんでした。
そして、初めてご一緒させていただく稽古が行われました。

そして、問題のラストシーン。
私は頭から短刀を渡され、かつての長と向き合います。
ぶるぶると震えながら、かつて雲の上の人と崇めていた長へふらふらと数歩歩み寄って、そして頭を下げる。
やおら、狂気じみた勢いで振り返るなり、頭に突進する。
体当たりするほどの勢いで短刀を頭の腹に突き入れる。
私は刀の行く先、相手の腹だけを見詰めて頭を下げておりましたから、勘三郎丈がなにをなさっているのかまったく分かりません。
勘三郎丈は倒れもしない。抱き合った形の手を絡めていない状態といいますか、そんな形で、一瞬、まったく反応のない間がありました。
あれっどうしたのかなと、そう思った。そして、顔を斜めに持ち上げて勘三郎丈を振り仰いだのです。

凄いものを見てしまった。

「あぁ油断した!なんだってこんな、おい、あぁこの馬鹿野郎ォ!」
我を忘れて慌てふためいたその怒り。
「こいつが男だってこと、こいつだけは男だったってこと、俺ぁ忘れていた」
取り返しのつかない後悔。
「痛い・・・嫌だ、嫌だ、死にたくない」
傷口を押さえ、子供のように泣いた悲鳴が―――

その顔が、眼が、死に間際の心を吐き散らしながらゆっくりゆっくり倒れていった、まるでそれはスローモーションみたいに見えました。
最後の力で襟首を掴まれて床に叩きつけられた姿勢から、もがいて体を起こした時・・・頭はもう死んでいた。もうぴくりとも動きませんでした。

その瞬間、総身の毛が浮き立つほどの恐怖を覚えたのです。
私は、というか役の「若者」は、自分が大変な間違いを犯したことにはっきりと気付いた。
(この人がいれば、俺は「人」になれたんだ)
俺が、自分を畜生にしやがった!

声がかかって、役者がばらばらと素に戻り狂言作家さんの元に駆け寄ります。
私も一番後ろから近づいて、作家さんの指導を聞いていました。指導は別の役者さんに向けたもので、私は自分の番がまわってくるのをただ立って待っていたのです。
そのとき、不意に体の奥からくつくつした笑いがこみ上げてきた。
最初に、妙にクリアな頭で「あれっ」と思った。沼から気泡があがるみたいに喉の奥が痙攣してきて、あきらかに笑うかたちになってる。でも笑う意志なんて当然ない。
笑う場面ではないし、もちろん可笑しくもなんともない。
最初は気にもとめていなかった、でもだんだん痙攣が激しいものになってきて、勝手に声がもれてしまった。とっさに口元を押さえてそれを宥めようとしました。
でもダメなのです。腹のそこから笑いがこみ上げてきて、どうしようもない。
声だけはどうにか殺し、笑いのリズムに揺れてしまう体をどうにか押さえつけていましたが、あまりにも肩が揺れる。
隣にいた先輩が肘でつついて注意してきた、謝ろうと口を緩めた瞬間から笑い声が止まらなくなりました。
あまりの声に誰もがびっくりして振り向きます。
狂言作家の先生が「どうした」と言ってきた、答えようとして口を開くと笑い声がでてしまうので、私はもう物理的に口を押さえて稽古場の戸口へむかって歩き出しました。
冷静に歩いているつもりが、背後のざわめきと「なんだなんだ」という声に押されて早くなる・・・最後はほとんど全速力の駆け足で稽古場を駆け出した。
稽古場を出たら、もう思うがままに笑いました。笑って笑って、げらげら笑いながら長い廊下をひたすら歩きました。もう可笑しくて可笑しくてしょうがなかった。
笑いすぎていろんなところが痛くなるくらい笑いました。
そのうちに、いきなり涙がぶわぁっと溢れ出してきた、でも笑いは止まりません。ゲラゲラわらいながら、もう歩くどころじゃない、全速力で走っていました。

いうなれば、私はそのとき狂ってしまったのだと思います。
人を殺して、殺した後のテンションで狂ってしまったのだと。
凄かったの、勘三郎丈の殺されっぷりが。本当に、人を殺すことの罪を、その恐怖をまざまざと見せ付けてくれるほどに凄かった。
人を狂わせるほどに凄かったんです。

・ ・・夢の話はここで終わり。
なんか、凄いでしょう?凄い夢で自分もびっくりです。

この夢をみる直前、観劇した舞台は『十八代目中村勘三郎襲名披露 籠釣瓶花街酔醒』でした。

いきなり衝撃のタイトル、驚かれた方ごめんなさいm(__)m
これは「夢」のお話。
・・・いやっ願望という意味じゃないですよ!寝ている時にみる夢のこと。
春先に見た夢なのですが、夢を見る直前に観劇した舞台で受けた衝撃がすっごい鮮やかに感じられるものでして、あまりにインパクトの強いものだったのでずうっと忘れずに心に残っていました。
所詮夢ですから『歌舞伎語り』というにはちょっとね(^^;)ではありますが、心のまま、気ままな歌舞伎語りとして書いてみることにいたします。

私は若手の歌舞伎役者。
台詞のある役すらろくにもらったこともないはずが、あるお芝居でかなり重要なお役を任され、役作りに大恐慌になっています。

そのお芝居のあらすじはこういうもの。
(この芝居には元ネタがあるのか?もしくは狂言作家雪柳のオリジナル(笑)何分夢ですので、設定に無理矛盾はかなりのものです(^^;)お許しください)

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

若者(=雪柳の役)は、江戸で巨大勢力を張る侠客一家の下っ端です。

出身は田舎の貧乏百姓の五男坊。
親兄弟が悪人であったわけではありませんが、貧乏に倦んだ家にとって、彼は生まれた瞬間からやっかい者でした。
「生きている」ことに生きているという事実以上の意味がない暮らしに耐え切れず、若者は悪い道に走ります。
しかし、所詮は田舎のやくざまがい。私欲のためだけに猛る男たちの浅ましさに反発を覚えるものの、そこから抜け出せば生きた屍の暮らしに戻るだけ―――
ただの卑怯者、畜生者だと自分を嘲りながらも、ずるずるとそんな生活を続けていました。
そんなとき、江戸で大評判の芝居の噂がこの田舎町にも響いてきたのです。
惚れ惚れするほどの男気に彩られた江戸の侠客の物語。自分の命が賭けの賞金、強気をくじき弱きを助けるそのアウトローヒーローに若者は神を見た思いでした。
命を捨てることなど怖くはない、ただその捨て所を教えて欲しい若者にとって、これほど魅力的な世界はなかったのです。
「仁義に生きて、華々しく命を捨てたい」
自分を産んだことを謝ることしか知らない母親に、誇れる何かを示したい。
ごく潰しの親不孝に、わずかばかりでも報いたい。
そして、自分という存在に、価値を与えてもらいたい―――
何も持たぬ若者にとって、命は唯一の「持ち駒」。
命を的にする度胸ひとつでそれらすべてが購えるなら、彼にとって死は恐怖でもなんでもないのです。
若者は田舎を捨て、着の身着のままで江戸へと旅立っていきました。

そして、江戸。
行き倒れ寸前の若者は侠客一家の門を叩きますが、当然のことながら相手にされません。
しかし、そこへ偶然やってきた侠客一家の長の気紛れな鶴の一声で拾われることとなったのでした。
幸か不幸か、拾われた先は江戸一番の勢力を誇る大所帯。若者は勇み立ち、鈍なほどの真っ直ぐさで懸命に務めました。
その一途さ正しさは聞いた芝居のそのままに―――その正しさゆえに疎まれ、馬鹿な田舎者と冷笑を浴びせられていることに気付くまで、そうは時間がかかりませんでした。
巨大組織は、えてして本来の意義を見失うもの。
かつて芝居にも謡われた天下の侠客集団は、いまや利益の蜜を吸う小さな蝿の如く・・・若者が憧れ夢見た理想など、絵空事に過ぎなかったのです。
夢破れても、帰る家はどこにもない。他に生きるすべもない。
かくして、若者は巨大企業の歯車となることで自分の居場所を守るしかなくなったのでした。

江戸には、拮抗の勢力を誇る侠客一家がもうひとつ存在しました。
虎視眈々と第一位の地位を狙う野獣の前に、長年の安定に油断し、牙を失って太りに太った獣が一匹・・・
そんな日々の中で、若者は相手勢力の罠にはまり、ささいな過失をしでかします。
それが相手勢力の煽りによって一家の屋台骨を揺るがすほどの大失態に発展してしまいました。
安穏に慣れていた上層部には、この非常事態に対するすべがありません。
一家は即座に若者を切り捨て、その首を差し出すことで事態を収めようとします。
もちろん、若者も「組に殉じて」死ぬ覚悟。

しかし、そこに乗り込んできた男がいました。
江戸で気を張る、一家は小さいが屈強揃いと評判の侠客一家の頭(=これが勘三郎丈のお役)です。
頭は、侠客の風上にもおけない第二勢力のあざといやり方に腹を据えかね、世に侠客の正義を示すのだと、江戸一番の権力者の前で大気炎をあげます。
その無鉄砲な男気、大胆さ、まるで芝居にでも出てきそうな頭の姿です(芝居なんですけど。)
頭の述べ立てる知恵と策略、大胆でスケールの大きな大勝負に、一同は酔ったように聞き入ります。

しかし、その中で心中穏やかならぬ男が一人―――死を覚悟した若者その人です。
江戸には出てきたものの、行く先すべてが八方塞がり。
しかし、事態はドラマティックに動きました。忠誠を誓った一家の存亡のために死ぬ自己犠牲を求められたのです。
犠牲になる代わりお前は「侠客の鑑」の名誉を得る、侠客一家のみならず、かならずや江戸中の人間たちはこの顛末に喝采を贈るだろう。いや、贈らせてみしょう。お前の四十九日の読経はな、江戸中すべてが唱和するぞ。
・・・そして遺された親兄弟には金も、との膝詰の談判で得心したのです。
(自分の命がこれほど高く売れる機会など、もう二度と訪れない!)
そして、一家の大事に他者をこれほど深入りさせたなら相応の見返りが必要なのは自明の理。乗っ取られようとも文句はいえないはずなのです。
田舎のやくざだって分かりそうなもの、けれど大身に馴れた重役たちの考えは自分勝手で滑稽なほどに甘い―――
侠客は一家を守る誇りがある。身内じゃない奴を懐にいれるなんざぁ、一家の恥だ!
若者は頭に啖呵を切ります。
「でしゃばるな!ここは俺の命でかたがつくんだ」と。
一家のだれもが保身に汲々とする場で、身を捨てる覚悟で自分に食ってかかるその心意気に眼を瞠る頭。
(こいつぁ骨がある)死なすまい、と、頭は若者の気負いをばっさりと切り捨てます。
「小賢しいや、小僧の分際で。おめぇの命なんざ詫びの土産にもならねぇよ」と。
そんなことは誰もが知っていたのです。他の道を塞がれ、自棄になって夢見た虚飾にすぎないと。そして、おそらくそんなことに意味がないということも。
夢のお神輿に乗せられた「若者の犠牲」は夢を覚ます一言で地に落ち、それによって皮肉にも若者の命は救われたのでした。

頭の迫力と知恵に気圧され、また、第二勢力に食い荒らされるよりはこの小一家と手を組んだほうがのちのちの得策と計算をした上層部は、頭と手を組むことに同意しました。
頭は、自分の手下として、なんと自分に食ってかかった若者を指名。
若者は頭の手足となって働かされます。
他者は「未来の権力者」にいの一番に信頼された若者を羨みますが、お伽噺のような侠客道を心根に刻んだ若者にとって、自分の所属する一家を食い荒らそうとしている頭を手伝うのは屈辱以外のなにものでもありません。
そして、自分の存在価値のすべてを一笑のもとにねじ伏せた、恨み―――

しかし、頭の手腕は鮮やかの一言。
一家はたちまち第二勢力を駆逐し、そして、頭の男気に忘れていた任侠道を思い出した人間が次々とかつての長を捨て、彼に靡くことを誰も止めようはありませんでした。
かくして一家は内側から総崩れし、頭を新たなトップに擁く暗黙の了解が成立したのです。
頭の次なる算段は、一家乗っ取り。
かつての一家の長の身辺に自分の味方を潜ませる。かつての重役をこちらに抱きこむ。外堀を埋め、じわりじわりと恐怖を煽って・・・命の危険に発狂し、自分に刃向かってくるように仕向けたのです。
自分を殺そうとした、だから斬ったという筋道の通った大義名分を得るために、証拠を残さぬ老獪さで長を追い落としにかかったのでした。
利用してやろうと思っただけの頭に手下すべてを手懐けられ、気付けば孤立無援。すべてを失い切羽詰った長は、頭の願いどおり頭暗殺を企てたのです。

――その2へ続く――
http://blogs.yahoo.co.jp/hana_yukiyanagi/21919417.html

歌舞伎に最も愛された人物に、曽我十郎祐成(=そがのじゅうろうすけなり)・五郎時致(=ごろうときむね)の曽我兄弟がいます。
憎い敵に父親を殺された二人の兄弟。「仇を討つ」という強い意志だけに18年の歳月を費やし、ついに仇討ちの本望を遂げたというドラマティックな経歴の持ち主です。
エドッコたちは二人の義挙に大興奮、その行為をたたえて二人を江戸歌舞伎のヒーローに仕立て上げたのだそう。

『助六由縁江戸桜(=すけろくゆかりのえどざくら)』
江戸一番のイイ男・花川戸助六は、実は曽我五郎時致の変装した姿。
「イイ男にはいい女」というわけで、カノジョには吉原ナンバーワンの花魁・揚巻を据えてあげるサービスぶり。

『外郎売(=ういろううり)』
薬の行商人の風体で、効能書きをすらすらと述べ立てるあの男。これもまた変装した五郎時致なのですよね。
・・・五郎さん七変化(笑)
どうやら彼は変装ズキである様子、って茶化したらエドッコたちに怒られますねっ(^^>
彼は仇討ちの為に仕方なくやってるんです。そうですそうです。

こちらでは、五郎さんのカノジョは大磯の廓のナンバーツー・化粧坂少将(=けわいざかしょうしょう)。
ちなみに、ナンバーワン・大磯の虎(=おおいそのとら)は、お兄ちゃん十郎祐成のカノジョ(^^)
兄弟で廓ジャックです。

『雨の五郎(=あめのごろう)』は、仇討ちに張り詰めた心を一時だけ緩めて化粧坂少将の下に通う、剛の者の砕けた色気が楽しい舞踊。

『矢の根(=やのね)』で、豪快に矢じりを研ぐ主人公も五郎時致。

『正札付根元草摺(=しょうふだつきこんげんくさずり)』は、仇が見つかったという報に逸って駆け出そうとする五郎が「短気は損気ですよっ」とばかりに力自慢の女性・舞鶴に留められるという趣向。

『寿曽我対面(=ことぶきそがのたいめん)』なんてそのまんま!
仇に兄弟揃って対面しちゃいます。

・・・私が知っているのだけでもコレだけあります。多分まだあるのじゃないかしら?

父を殺した人物を息子が追いかけ討ち果たす、という武家の掟「仇討ち」。
確かにドラマティックだし、豪快な凄みもある。エドッコたちのお気に召した理由もわからないではありません。
けれども私は、正直彼らがここまで愛され崇められる理由がよく分からなかった。
これが江戸時代の人たちの感情と言われても、時代が違っても人間同士の思うことなのだから大差はないと思うがゆえに、どうにも理不尽な思いがつきまとって、すんなりと納得できなかったんです。

先日上演された『野田版 研辰の討たれ』ではないですけれど、どこか野蛮で無責任な・・・という感じがどうしても拭えなかった。
当事者はもとより、それに手放しで大迎合する大衆に。

歌舞伎は、現代では理解しずらい演劇だとのイメージがどうしてもありました。
それは言葉が聞き取りにくいかったり、風習や所作がわかりずらかったりという表面的なことから、こういった精神的な面にいたるまで。
今までそんなものを乗り越えた感動をなんどもなんども貰いながら、こういうところが100%の共感はできない「溝」なのかな、と思っていました。

けれど、この前、なんだか心のそこから「そうか!」と納得できたことがあったんです。

今、私は日本舞踊のお稽古で『雨の五郎』を教えていただいています。
その唄の文句も「仇討ちに情熱を燃え上がらせる五郎さん、そんな彼がつかのま心を緩ませて女のもとに通う。剛の者が色にくだける様も魅力的」・・・みたいな、五郎さん絶賛調。
色にくだけたのち不意に自分の目的を思い出し、再び血気に逸るという成り行きを語った唄の文句が、最後にこう言いました。

「勇ましくもまた健気なり」

けなげ。
ああ、そうか!五郎時致は「健気」なんだ!って突然気が付いたのです。

考えてみれば、いかに自分の父親が殺されたといったって、自分の人生の中、若いみそらの18年をそのためだけに捧げるっていうのは・・・とんでもないことではないですか。
父親の無念を思っても、所詮は死んでいない人間。
それが、生きてある自分の人生を縛っている。
(生きている自分が幸せになれば、死んだ父親もきっと喜んでくれる。父親だって息子の不幸は望まないハズ!)
悪気がなくても「一度しかない人生を正しく生きたい」人間の心理として、父の無念には目をつぶるのが当たり前だって思う。
どんな人生相談番組に相談したって、それでも「仇を討て!」とはみのさんも言わないよ。

でも、どんな理屈で自分を納得させたって、どんな奇麗事で飾ったって、所詮は「自分」のために「父の無念」を切り捨てるということ。
死んでしまった父親の「命の価値」は宙に浮いてしまう。
もっと生きたかったと願う心にふたをされてしまう―――

自分がたとえ死んだとしても、自分の思いを理解してくれる人がいて、そのことを一心に思ってくれる人がいて、その意志を継いでくれる人がいる。
このことって、人間誰しもがねがうことなのじゃないかなぁ。
もちろん、仇討ちとかそういう血腥い話じゃなくっても、日常茶飯事のひとつひとつとっても。
自分が死んだとしても、人の心の中で生きたい。
そう願う思いを、ものすごく端的な形で示してくれたのが曽我兄弟18年目の仇討ち本懐ということなんじゃなかろうかって。

二人は常識はずれなほどに不器用で、一途です。
才気ばしった小利口なところなんて皆無で、ある種の愚か者と言えなくもない。
けれど、だからこそ信じられる。

こんな夫が、息子が、弟子が、こんな精神を持った妻が、娘が、自分の周りに居たならば――――

そう思ったとき、私はこの仇討ちに熱狂したエドッコたちの思いがものすごく理解できたのです。
芝居だから、派手ではあります。
けれど、その本質は「死んでも私を忘れないで」ってこと。

なんだかね、歌舞伎の中に生きているご先祖さまの心が、すっごく分かったような気がしたのです。

今まで、観劇レポや演目解説・様々な場所から拾い集めてきた情報などを記事にしてまいりました。

けれど最近、歌舞伎が好きになるに従って、それらの枠では括れない「思ったこと」や「感じたこと」・「気付いたこと」、はたまた失笑御免!のくだらないお喋りまでがいっぱい溢れてきまして。
歌舞伎について、ざっくばらんにお喋りする書庫があったら面白いかな、と思い立ちました。
カブキズキ成長記のようなものになったらいいかなぁと思っております(^^)

もちろん、専門家でない私です。
間違い勘違いなどもいっぱいやらかすと思いますので、変なことを言っておりましたらびしっと叱ってやってくださいませm(__)m

では、新書庫『幕間の歌舞伎語り♪』をどうぞよろしくお願い致します(^▽^)


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