文花座

歌舞伎、宝塚歌劇団、劇団四季・・・大好きな舞台の感想をつらつらと♪

歌舞伎Book Review

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『菊日和 母の日記が語る父との恋とあの頃の東京の暮らし』

著者:波乃久里子
発行所:雄山閣
YahooブックスURL: http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31637359

「もしほさん!」
半ばあきれるほどに繰り返される、ちょっと変わったその名前。
もう可愛くて、じれったくて、あぁ運命の神様、もうこれ以上いたずらはなさいますな!と部外者の私が祈ってあげたくなるようでした。
このご本は、波乃久里子さんのお母様・六代目菊五郎丈のご長女でいらした寺島久枝さんが、未来の夫となる中村もしほ丈(=のちの十七代目勘三郎丈)と結婚に到るまでの日々を綴った日記が見つかったことからはじまります。
この日記を開いて、若かりし母と対面した久里子さん、これはもうどのような気持ちがしたことだろう?
同じ「子」といっても、娘である久里子さん千代枝さんと、息子である勘三郎丈とではこれを目にしたときの嬉しさ、ショックもまったく違うものであったろうな、などと想像するのも楽しい気がします。
勘三郎丈はきっとコメントしてくださらないだろうな。その優しさから、江戸っ子らしく照れちゃって。

久里子さんが書き添えた、お祖父様・お祖母様のロマンスからはじまる一家の歴史は、時代の色に染まってなんとも小説のよう。
華やかでありながら、驕りを戒めた厳格さ、端正な生真面目さに縛られた家の雰囲気はなんというか、見事なものだなぁと感じます。

日記は久枝さん側からのものだけですけれども、その中で彼女の心を波立たせる存在であるもしほ丈、これがまた、小面憎いほど娘心の歓心に引っ掛かる存在なんですよねぇ!
仰ることとか、表情とか・・・いえ、気障な行為やカッコいい事なんて皆無なんです。
むしろ「変な顔をしていた」だの「なんであんな変なおじさんを」だの、久枝さんの描写は素直すぎて苦笑いしたくなるほどリアル。
もちろん好意の裏返しの照れが言わせる悪口なんでしょうけれども、実体のない人を想像するに過ぎない私でさえだんだんと「もしほさん」が気になってくるわけですもの。
やっぱり、魅力的・・・というか、これは全部久枝さんフィルターを通しているわけだから「久枝さんの目に映るもしほさんは魅力的」と言い換えた方が正しいですね。
要するに、ハァご馳走様ってことなんですけれども(笑)

お母様の日記にコメントを挟み、文章を添え、纏めていらっしゃる久里子さんの筆・・・なんといいますかね、読んでいて、あぁ久里子さんはお父様が好きなんだな、理想に近い要素を持った男性と感じていらっしゃるのだなと感じました。
久枝さんを母親として敬愛していらっしゃることはもちろんなのですけれども、ふとした時に、一歩下がって冷静に「女」として敬服しているようだと感じることがありました。
当時19歳の若い女性が、32歳の男との結婚を示唆された。
少女をようやく脱した頃合の女性が、32歳を見れば・・・はっきり言って、オジサン、という感じがします。
それをさておいても、当時のもしほ丈の評判はといえば散々で、気分屋で敵も多い、欠点だらけのお人柄。
単純な意味での美男でもない。
女性関係も、少女が望むほどの清潔感をもっていたかどうか。
そしてなんといっても、当時は「名優」と呼ばれる未来など夢のかなたのようなもので、海のものとも山のものともつかない存在であったというからは、小利口な女性なら敬遠してかかって当然とも思えます。

けれど久枝さんはもしほ丈にゾッコンほれ込んで、あまつさえ壊れかけた縁談を自らの手で纏め上げるような手段に出た。
お母様のこの意思がなければこの世にいない存在だった久里子さんにしてみれば、という事実をさておいたとしても、久里子さんは、確信を持って「中村もしほを夫に選んだ」女性に対して敬服し、痛快に思っていらっしゃる気配が感じられます。
「よくぞ!」と快哉を叫んでいらっしゃる気配がするんです。
当時は冒険、しかし未来に実を結んだそのお目がねに。

母として、それだけじゃなく「女」として娘に敬われる生き様は、なんとも言えずカッコよく思われました。

『ザ歌舞伎座』

著者:篠山紀信/撮影 坂東玉三郎/案内役
発行所:講談社
YahooブックスURL: http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30780312

我らカブキズキにとって、愛しい、大好きな、歌舞伎座!
表の顔からウラの顔、文字通り屋根から奈落まで、その端正なフィルムに焼き付けてくださったことに感謝したい!
プロデュースは篠山紀信さん×坂東玉三郎丈、写真集タイトルはその名も「ザ歌舞伎座」。
表紙は(YahooブックスURLへジャンプ!ちっちゃいですけどご覧になれます)美しすぎる阿古屋@玉三郎丈の突き抜けたハイグレードと、周りを取り囲む竹田奴の脱力感を覚えるほどのローグレードがもう、超最高!
歌舞伎の混沌というか、何でもアリさというか、そう、歌舞伎座ってこういうトコなの!という感じがします(^▽^)

縦37センチの大判写真集、最初は机に置いてめくっていたのですが、気付いた時には胸元に引き寄せて眺めていました。

私達にその姿を見せてくれることはない、歌舞伎座の大屋根。
龍の鱗のようにダーッと続く重たく生真面目な瓦のさま、突然の侵入者を睨みつけるようにこちらを振り返る海老蔵丈(当時新之助丈)の、半分影に溶けたような姿と、その目。

単純に綺麗ではない、けれど生身の質実が積み重なっていることの感じられる、裏方作業場。
日常の空気が流れる名代下部屋に、ぽっかり浮かんだように玉三郎丈が立っていらっしゃることの不思議なような絶妙のバランス。
びっくりするくらいクラシカルなスタッフ風呂。
とんぼ道場。
筋肉の詰まった裸の上半身、白褌を締めた尻の位置のきりりと高いこと、屈強な男たちの、白足袋の足元。
上手袖から望んだ舞台。踏み出したらその一歩から世界が違う、境界線ぎりぎりの、役者の目が見ている景色。
盆の隙間から、奈落に幾重の光が線を引くさま。

『紅葉狩』更科姫が鬼女に変わる、その隈取の作業を追った連続写真は「紀信さんの情熱と福助丈の寛大が生んだ、普通ならありえない」写真だと玉三郎丈が解説をつけていらっしゃいます。
隈取が進むにつれ、鬼の魂を身内からあふれ出させていく福助丈。
役者が役に化ける瞬間を目の当たりにするようです。

玉三郎丈の楽屋風景は、素顔の勘太郎丈・七之助丈と対峙する構図で玉三郎丈の拵え前・拵え後を並べています。
向うの鏡に映る玉三郎丈の、首筋から顔まで真っ白く塗って襟を抜いた姿、長く保たれた首がスーッと通っていて・・・ちょっと変なことを言いますけれど、そのまま真っ白な首がニューッと伸びていきそうな、それもアリかなと思えるような、平然として不気味なような、美しいような、もはや何でもありのような白昼夢を思わせるお写真です。
いえ、一見は収まりのいいノーマルなお写真なのですけれどもね。

存在さえ知らなかった貴賓室。
ロビーを望む見慣れた風景。
無人の花道。
雑然として、重厚なようでいて下衆ばっていて、人の手がどっさりかかっていて。
あぁいいな、歌舞伎座はいいな、私大好きだな、ページを繰りながら何度そう思ったことか。

歌舞伎座が大好きな方も、ご存じない方も、きっと、めくるページごとにワクワクと楽しいに違いない!そう思います。

そして。
この、愛しい、大好きな歌舞伎座は、数年後の建て替えが決まっています。
今の姿がこの世にあるのは、本当にあと少し。
今確かなことは、今、ここにいる現在の人たちが、この歌舞伎座を体感することのできる最後の人だということです。
もし歌舞伎に興味があるなら、歌舞伎座へ歌舞伎を観にいく決断は、遅いことがあってはもったいないと思います。

『聞き書き 中村又五郎歌舞伎ばなし』

著者:郡司道子
発行所:講談社
YahooブックスURL: http://books.yahoo.co.jp/book_detail/19667212

名優が舞台世界を一流に引き上げたいと望んだなら、呼べば助ける救世主の如き助っ人稼業。
あるときは若手俳優が芸の引き出しを覗きに押しかけ、
またあるときは国立劇場養成所のお師匠番。
理解を観客に委ねる余地のない海外公演と来たからは、言葉抜きの「芝居」人として引っ張っていかれ、そして外国の方々へガチンコ勝負の歌舞伎指導。
着物を背広に着替えたら、カブキズキが集まる講義室へ、洒脱ななりの大学講師として登場。
ぎゅう詰めの講義室を知的刺激で沸き立たせたかと思えば、次は舞台の上で大見得だ!
又五郎丈の行動は、これ全てを一人の人間が!?とあっけにとられるほど大車輪に詰まりきっています。

ご本を読んで感じたのは、又五郎丈は常にいろいろなことに感動しているってことでした。
お師匠である初代吉右衛門丈、吉右衛門丈のライバル・六代目菊五郎丈の姿に感動し、プロフェッショナルに徹した脇の役者さんの芸と気概に感動し、歌舞伎芝居のその心根、微に入り細に渡る解釈と形の成立に感動し、外国の方が歌舞伎に抱く憧れと敬意に情熱の一端を燃え上がらせて、ずぶの素人が2年間の修行の果てに上演する舞台では、身の半分は舞台上の役者に切り渡していらっしゃる。
又五郎丈は「歌舞伎そのもの」に常に感動しているように思えるんです。

聞き書きをまとめられた郡司道子さんは、又五郎丈が大学で講師をなさった際の生徒さんのお一人です。
その面白さのあまり惚れこんで、専門家でも研究者でもない立場でこのご本をまとめられたのだとか。
その分とても素直で、読み易いです。
お勉強というほどの堅苦しさもありませんが、どこか生徒さんのノートっぽい雰囲気もあって(^^)
又五郎丈は決してお喋りではないし、多くを語らないこと。
郡司さんのご苦労が偲ばれますけれど、その少ない言葉で知った世界がそれでもまだ氷山の一角で、下に巨大な容積を秘めているというならば・・・!とかじりつきたくなる気持ち、ものすごくよく分かります。
そして、又五郎丈、皮肉や突き放しや厳しいことも仰りますけれど、結局はものすごく親切というか、先生気質でいらっしゃるんだわ。
人の「情熱」を尊び、汲んで下さる優しさがあって、ちょっぴり怖いけれど大好きな「恩師」といった感覚を持ちました。

歌舞伎が大好き、という情熱だけ持って向かい合えば、又五郎丈はこんなこと話して下さった!っていう、そういうご本です。
面白く、興味深く、歌舞伎に対する愛が深まる、そういうご本だと思います。

『私事 死んだつもりで生きている』

著者:中村雀右衛門
発行所:岩波書店
YahooブックスURL: http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31476327

27歳からスタートした、遅すぎる女形修行。
限界まで努力しても「今日」の芸がどうにもならないことに打ちのめされた若き雀右衛門丈が、吸い寄せられるように7階の高さにぽっかり空いた窓へ向かっていく―――
「死を考えていたというより、自分を消してしまいたかったのでしょう(抜粋)」
戦争で死と向かい合い、そして生き延びてきた人が、死のうとした!
歌舞伎の、たかが芸の如きのために!

驚いたのは、雀右衛門丈が告白なさった自殺未遂の事実。
しかしそれ以上に強烈だったのが、雀右衛門丈の目に映っていた「歌舞伎」の存在、その価値、そして自分というものが、ほとんど狂気と思える強さでひとつになっていることでした。
「役者である自分」の周りに、一切の余地がない。
役者でない自分、ただの自分という余地が一切ないから、その一歩向うが即座に「死」なんだということでした。
たかが歌舞伎、たかが芸、たかが娯楽、しかしその「たかが」が人生を呑み込んでいる。
幾多の先人達の人生を呑み込んで、いままた、今を生きる俳優達の存在をも呑み込んで、だから「命」と同じ天秤にかけられるほどのものなのだって。
本物の「歌舞伎役者である」若き雀右衛門丈は、意志というより、ほとんど本能に翻弄されたんだと感じました。

死を選ぼうとした雀右衛門丈は、しかし死ねなかった。
前日には無防備に空いていた窓が、その日はがっちりと鍵がかかり、どうやっても開かなかったというのです。
死なせてもらえなかった。
(誰に?)
誰にでしょう?これはただの運なのかしら。
それにもっともらしい理由をつけるのはいささか小説じみているかもしれませんが、誰かが、窓の鍵をがっちり押さえつけて開かせなかったのだと、そんなふうに思えてなりません。

死を諦めた雀右衛門丈は、以後ひたすらに耐え続けているのだと仰います。
今日の自分の未熟に耐え、精進し続けて、未来の自分に希望を託す。
雀右衛門丈は静かに、他の誰でもない、自分と戦い続けていらしたのだと思います。
毎日、毎舞台、そして八十一歳の時『熊谷陣屋』相模役の舞台で得た感覚を描写する雀右衛門丈の言葉は、もはや表現しきれないほどに素晴らしさでした。
人の味わい得る至福というのは、こういうことかと!
耐えて、耐え抜いた五十余年の歳月の果て、雀右衛門丈はそれを手にすることを「許されたんだ」と。
(誰に?)
さぁ、誰にでしょう、ネェ?(^−^)

雀右衛門丈の人生において、決して避けては語れない戦争体験の描写も生々しく、すさまじいものがありました。
その中にぽっかりと白昼夢のように浮かぶ「戦場での歌舞伎」のエピソード、ほとんど圧倒される思いで読みました。
黙阿弥の七五調は、どれほど気持ちがよかったろうか!
これ以上言葉を継ぐのは難しいです、笑い泣きの涙がでてきそうです。

奥様を語る雀右衛門丈の口からは、まるで結語の決まり文句のように「可愛かった」という言葉が出ます。
何度も、何度も。
「あまりに長い時間、家に帰らないので、女房に悋気、焼きもちを焼かれて困ったものです。
そんなことで喧嘩もよくしましたが、それもまた可愛い(抜粋)」
49歳でお亡くなりになった奥様の人生は短かった、心残りはもちろんおありだったろうし、ご本人は悔しく悲しかったに違いないと思います。
けれど、同じ女である私は、奥様を心底羨ましいと思います。

私は雀右衛門丈の素晴らしいお役の数々を拝見しています。
物憂い悲しみの中からも、桃色に染まった可愛い、可愛い気配があふれ出すような『井伊大老』のお静の方。
可憐な幼さの中に、美少女の中の「女」が妖しいまでに薫りたち、ぞっとするほどに魅力的だった『野崎村』のお染。
『河庄』の小糸では、偽りの縁切りをした彼女を攻め立てる男の胸を打って「ばかばかばか、この小糸が裏切るわけないじゃないか!!!」と訴えたくもなりました。

苦労に苦労を重ねて得た光を、ただ客席に座る私などが惜しげもなく与えてもらえる。
これからもまだまだ雀右衛門丈の芝居が観られる、本当に嬉しく、ありがたく、贅沢なことと感じます。

『芝翫芸模様』

著者:中村芝翫 聞き書き:児玉祥子
発行所:集英社
YahooブックスURL: http://books.yahoo.co.jp/book_detail/28345434

読み進めるうち―――このご本は芝翫丈の語る言葉を聞き書きにしたものですから、芝翫丈の話を聞いているうち、と言い換えた方が正しいでしょうか。
どの言葉が、どのエピソードがというのではなしに、いつの間にか「芝翫丈」のイメージになんとも形容しがたい不思議なものがまとわりついてくるのです。
その不思議というのは、端正さのなかに、冒しがたい威厳というか、たとえ相手のほうが弱いと分かっていても絶対に殴りかかることができない「目に見えない何か」のような・・・なんていったらいいのだろう?
「品」というだけではちょっと違う、「格」といったら近いでしょうか。

その印象の源泉のひとつは、芝翫丈は、物事や芸の本質に対してすごくよく見える「目」を持っていらっしゃることです。
それは、たくさんのそれらしい骨董品から真に価値あるものを選び出すようなもので、たしかな「価値」がそこにあっても、その価値を見極めるフィルターが自分の中になければ、雑多なものにまぎれて、目に映るのは朧な影ばかりといういうわけでしょう。
クリアな「価値」は安易に見えるものではないし、もちろんその「目」を手に入れるまでの裏打ちは芝翫丈の歴史の中にしっかりと存在するのですけれど、今その成果だけを聞き、目にした私にはまるで千里眼やら魔法やら、神通力のようにさえ感じられます。
それと、先達の教えに対して察しの鋭いところだとか、そしてそれを体現してみせる技だとか、そういう「役者」としての資質はもちろんのこと。

でもそれだけじゃなくて、これはもうお人柄なのでしょうけれども、芝翫丈は常に、どこか超然というか、悠然というか、安いところがないように感じられるのです。
このご本で初めて知った芝翫丈の来歴には、何度か立場の失墜がありました。
周囲がいっせいに手のひらを返すような冷たさに、恨みこそすれ、卑屈にもなれ・・・そうあってしかるべき時でも、芝翫丈が絶対になさらなかったのは「自分を安くすること」だ、と感じました。
そして、その失墜の底で必ず素晴らしい先達に見出され、可愛がられることになるのです。
それが単なる運だとは、私には思えません。

芝翫丈には、穏やかで優しげな雰囲気に怖いという感覚はなくとも、気安い親しみやすさは浮かんできません。
私が芝翫丈のファンとは言っても、それは握手を求めたりサインが欲しい、お話したいなどという感覚じゃなくて、素晴らしいものを見せて頂いて、記憶に宝石が納められました、ありがとうございますと手を合わせたいようなものなのですよね。

芝翫丈はそういう「格」のある存在である、と、常々の舞台を拝見するなかで、不思議なような思いがしていたことが、これまで生きてこられた歴史の中にずーっと同一のイメージとして存在していることに驚きもし、敬服もさせられました。

これは、中でも印象深かったエピソード。
その話しぶりからも芝翫丈ご自身に自覚はないだろうと思うのですが、六代目菊五郎丈でさえ、若い芝翫丈に対して一目おくところがあったように思われます。
六代目菊五郎丈が(当然、無理だ)という前提のもとに投げ与えた試練に、芝翫丈が出した鮮やかな結果。その成果に驚いて、思わず飛び出した照れ隠しの軽口。
それを受けた芝翫丈が、拗ねた切り返しで返事をすると「いや、そんなことねぇ」と一生懸命になだめてくれたといいます。
人の、ましてや若手俳優のご機嫌などとる必要もない六代目菊五郎丈が!
芸の息子として、芝翫丈がどれだけ可愛く、嬉しく頼もしかったか。
また、芝翫丈の人柄と努力が自分にそんな言葉を「言わせてくれた」ことが、六代目菊五郎丈をどんなにいい気分にさせたことか、と思うのです。

思わず、芝翫丈にだけじゃなく六代目菊五郎丈にもおめでとうございますと言いたいようでした(^^)

このご本を読んでいて、強く感じたこと。
「誰かの行為に対して、その人自身をどうこうというより『相手にそういう態度をとらせた自分がどうなのか』」ということです。
芝翫丈にとって、六代目菊五郎丈は素晴らしい師匠だといいます。
もちろん六代目菊五郎丈が素晴らしい人物だったことに間違いはない、けれど、その人を師匠と崇めて教えを請うたとき、彼をいい「師匠」にするのは弟子である人次第なのだと。
はっきり言って、芝翫丈と同じ立場を与えられていても、一を聞いて十を知る貪欲な才知のない人なら六代目はどう評されたでしょう。
そう思ったとき、六代目の幸せは、六代目に惚れこんで慕った数多くの後進たちの質の良さだな、とも思うのです。

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