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『芝翫芸模様』
著者:中村芝翫 聞き書き:児玉祥子
発行所:集英社
YahooブックスURL: http://books.yahoo.co.jp/book_detail/28345434
読み進めるうち―――このご本は芝翫丈の語る言葉を聞き書きにしたものですから、芝翫丈の話を聞いているうち、と言い換えた方が正しいでしょうか。
どの言葉が、どのエピソードがというのではなしに、いつの間にか「芝翫丈」のイメージになんとも形容しがたい不思議なものがまとわりついてくるのです。
その不思議というのは、端正さのなかに、冒しがたい威厳というか、たとえ相手のほうが弱いと分かっていても絶対に殴りかかることができない「目に見えない何か」のような・・・なんていったらいいのだろう?
「品」というだけではちょっと違う、「格」といったら近いでしょうか。
その印象の源泉のひとつは、芝翫丈は、物事や芸の本質に対してすごくよく見える「目」を持っていらっしゃることです。
それは、たくさんのそれらしい骨董品から真に価値あるものを選び出すようなもので、たしかな「価値」がそこにあっても、その価値を見極めるフィルターが自分の中になければ、雑多なものにまぎれて、目に映るのは朧な影ばかりといういうわけでしょう。
クリアな「価値」は安易に見えるものではないし、もちろんその「目」を手に入れるまでの裏打ちは芝翫丈の歴史の中にしっかりと存在するのですけれど、今その成果だけを聞き、目にした私にはまるで千里眼やら魔法やら、神通力のようにさえ感じられます。
それと、先達の教えに対して察しの鋭いところだとか、そしてそれを体現してみせる技だとか、そういう「役者」としての資質はもちろんのこと。
でもそれだけじゃなくて、これはもうお人柄なのでしょうけれども、芝翫丈は常に、どこか超然というか、悠然というか、安いところがないように感じられるのです。
このご本で初めて知った芝翫丈の来歴には、何度か立場の失墜がありました。
周囲がいっせいに手のひらを返すような冷たさに、恨みこそすれ、卑屈にもなれ・・・そうあってしかるべき時でも、芝翫丈が絶対になさらなかったのは「自分を安くすること」だ、と感じました。
そして、その失墜の底で必ず素晴らしい先達に見出され、可愛がられることになるのです。
それが単なる運だとは、私には思えません。
芝翫丈には、穏やかで優しげな雰囲気に怖いという感覚はなくとも、気安い親しみやすさは浮かんできません。
私が芝翫丈のファンとは言っても、それは握手を求めたりサインが欲しい、お話したいなどという感覚じゃなくて、素晴らしいものを見せて頂いて、記憶に宝石が納められました、ありがとうございますと手を合わせたいようなものなのですよね。
芝翫丈はそういう「格」のある存在である、と、常々の舞台を拝見するなかで、不思議なような思いがしていたことが、これまで生きてこられた歴史の中にずーっと同一のイメージとして存在していることに驚きもし、敬服もさせられました。
これは、中でも印象深かったエピソード。
その話しぶりからも芝翫丈ご自身に自覚はないだろうと思うのですが、六代目菊五郎丈でさえ、若い芝翫丈に対して一目おくところがあったように思われます。
六代目菊五郎丈が(当然、無理だ)という前提のもとに投げ与えた試練に、芝翫丈が出した鮮やかな結果。その成果に驚いて、思わず飛び出した照れ隠しの軽口。
それを受けた芝翫丈が、拗ねた切り返しで返事をすると「いや、そんなことねぇ」と一生懸命になだめてくれたといいます。
人の、ましてや若手俳優のご機嫌などとる必要もない六代目菊五郎丈が!
芸の息子として、芝翫丈がどれだけ可愛く、嬉しく頼もしかったか。
また、芝翫丈の人柄と努力が自分にそんな言葉を「言わせてくれた」ことが、六代目菊五郎丈をどんなにいい気分にさせたことか、と思うのです。
思わず、芝翫丈にだけじゃなく六代目菊五郎丈にもおめでとうございますと言いたいようでした(^^)
このご本を読んでいて、強く感じたこと。
「誰かの行為に対して、その人自身をどうこうというより『相手にそういう態度をとらせた自分がどうなのか』」ということです。
芝翫丈にとって、六代目菊五郎丈は素晴らしい師匠だといいます。
もちろん六代目菊五郎丈が素晴らしい人物だったことに間違いはない、けれど、その人を師匠と崇めて教えを請うたとき、彼をいい「師匠」にするのは弟子である人次第なのだと。
はっきり言って、芝翫丈と同じ立場を与えられていても、一を聞いて十を知る貪欲な才知のない人なら六代目はどう評されたでしょう。
そう思ったとき、六代目の幸せは、六代目に惚れこんで慕った数多くの後進たちの質の良さだな、とも思うのです。
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