文花座

歌舞伎、宝塚歌劇団、劇団四季・・・大好きな舞台の感想をつらつらと♪

歌舞伎Book Review

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

『播磨屋一九九二〜二〇〇四 中村吉右衛門』

著者:稲越功一/著
発行所:求龍堂
YahooブックスURL: http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31376138

大きさはA4版、厚さは約2cm強。
ずっしりと持ち重りのする手ごたえは、さもありなん!
このご本の中には、大らかにデッカイ中村吉右衛門丈が「いらっしゃる」のだもの(^▽^)

中村吉右衛門極め付け!の呼び声高い、写真家・稲越功一さんの手による写真集です。

まずは、吉右衛門丈が手がけた舞台の中から、さらに選び抜かれた28作品を解説+お写真で綴ったメインページ。

圧倒的に凄かったのは『俊寛』@俊寛僧都。
肉体の中で精神の一端がド、ドドッと崩壊する音がした、その瞬間、肉体の内側から土砂崩れのように実体が雪崩れ落ちて、体が空虚な抜け殻になった。
前後を通じて演じているのは同一人物なのだ、そのことさえ信じがたいほど一気に「老いる」んです。
動きも声もないお写真を見ていてさえ、声を失う気迫の凄いこと!
まさに入魂であり、吉右衛門丈自身が俊寛でもあるのだとでも言いたいような気がします。

『勧進帳』@弁慶、そして富樫左衛門。
写真集ならではの夢の競演です。
一枚目、扇をかざした弁慶の目にハッとさせられました。
あまりに・・・なんと表現するのが適切なのだろう?
あまりに、素直。あまりに・・・そう、子供!
子供みたいなのだ、あの目。
眼光は強くも鋭くもない。あの勇壮強力の猛者がこんな目をするものか。
あぁそうか。
弁慶の本質は、純粋なんだ。

『敵討天下茶屋聚』@安達元右衛門。
ヒリヒリするほど必死で卑しい、悪の顔。
彼はきっと、死ぬときほっとするのだろう。そう思えました。

『佐倉義民伝』@木内宗吾。
息が詰まる、ただの写真を見てさえ。
哀しいのは、彼の未来に極刑があることではなくて・・・なんといったらいいのだろう。
哀しいのは、必死に生きようとすること、そのものだ。

『一條大蔵譚』@一條大蔵卿
阿呆の人相と、素の大蔵卿。
はっきりいって、これがパスポート写真だったら100パーセント入国審査で止められます(断言!)
完全に別人、まさに仮面!

『仮名手本忠臣蔵』@大星由良之助。
吉右衛門由良之助、究極は一力茶屋でしょう!
理屈は知らない、風情が本当に満ち足りていて、濃厚なようでもあり何気なくもさりげなくて、大らかで鋭くて、茫漠と大きくて、繊細で。
あっは、この戯言ったら矛盾だらけ。でも全部本当。
なんて素敵なんだろう!

舞台裏の拵え風景を切り取った白黒ショットも、嬉しいご馳走です。

そして、中村吉右衛門丈×稲越功一氏の対談記事。
印象的だった言葉があります。

『勧進帳』『熊谷陣屋』等のラストシーンは、芝居に登場する全ての人生、舞台に関わる全て(観客の心も含めて)を唯一人の背中に背負うこと。
そして全てを背負った背中は、光を発する。
その光が与えるものは、勇気、喜び、究極は「病気が治った!」という奇跡さえもである。
役者とはそういう対象だと。
そうであるならするべきことがある。

・・・ものすごく抽象的に書き抜いたのですが、本文はもっと説得力があって素直に頷ける「あぁ〜、ありがたいな〜」ってそう思えるお心です。

吉右衛門丈のご贔屓さんはもちろんなのですが、28の名作へ思いを馳せる扉にもなってくれるはず。
読み終わったときには、観たくてたまらない作品、そして、会いたくてならない人――吉右衛門丈、が、きっといるはずです。

『高麗屋の女房』

著者:藤間紀子/著
発行所:毎日新聞社
YahooブックスURL: http://books.yahoo.co.jp/book_detail/28335784

(ウワーッ、綺麗な人!)
ご本を手に取った瞬間、思わず洩れちゃったスナオな感嘆↑

表紙は和服姿で椅子に腰掛けた藤間紀子さん。
松本幸四郎丈の奥様。女優の松本紀保さん、市川染五郎丈、松たか子さんのお母様。
キュッと口角を上げて微笑むそのお顔はちょっぴり負けん気が強そうで、白黒に色を削ってなお華やかな、チョットいないような美人!

このご本は、歌舞伎とはまったく無関係だった紀子さんが、恋愛相手がたまたま松本幸四郎(結婚時は市川染五郎)丈だった(!)という、一般的にみればどえらい縁(ご本人的には自然な縁なのでしょうけれども(^^>)をきっかけに、ちょっと個性的な「歌舞伎界」+カナリ個性的な「松本幸四郎丈」と手に手をとって駆けて来た数十年を綴ったもの。

多分にミーハーな気分を持って読み始めたご本でしたが、読んでいくうちに、なんというか「松本幸四郎」という男の面白さに興味をひかれるというか、あっけにとられるというか、ハマるというか・・・これは語り手である紀子さん色に染まったフィルターをとおすがゆえ、なのかもしれないなぁ?
いつもの「外から覗き込む」視線とは趣向の変わった、お生で不思議な高麗屋がいます。

ご長女・紀保子さんが小さい頃に風邪をひいた時のエピソードなんか、生真面目すぎて壮大すぎて、深いように見えつつ微妙にピントがずれていて(^^;
後ろに「愛情」が横たわっていることははっきりわかるのですけれども、幸四郎丈、なんて仰ったと思います?

(紀子さんが「子供が熱を出した」と告げたら)
「この子が何をしたというんだ?
罪もない子供をこんな目にあわせるなんて、神様はあんまりだ!」と怒り出す(抜粋)

シェイクスピア劇の登場人物のセリフじゃありませんよ?
い、いや、その前に怒る?感情としては怒るか?
紀子さんは「今ならその心の動きも分かる」と幸四郎流思考回路を解明していらっしゃいますけれど、これは若いお母さん的には難易度の高い命題だなぁ〜!

そんなこんなで、事実カナリ困った人の部分もある彼を、紀子さんはイタズラっぽく面白がっていて(面白がりきれずに大喧嘩!描写もたっぷりですけれど)、尊敬していて、そして大好きで、俗っぽく言えば惚れているし、惚れられている。
お互いに凹凸の多いピース同志と思えますのに、この納まり方はやっぱり「お似合い」というほか言葉がみつかりません。

《三人の死》

このご本の中で、紀子さんは三人の肉親の死に遭います。
一人目は幸四郎丈のお父様・初代白鸚丈。
二人目は幸四郎丈のお母様。
そして三人目は、紀子さんご自身のお父様。
特にご実父の死は不慮の事故とも言うべきもので、その悔しさ悲しさは、それだけでも巨大な喪失の辛さにいくつもの輪をかけたものだったのだと伝わってきます。

その、どの死にも、紀子さんは思いの100%を傾けて向き合うことはできなかったようでした。
立場があり、なすべきことがあり、やらねばならぬことがある。でも肉体はひとつ。
人間誰しも思いはままならないし、なにも役者の女房だけが特別だと言いたいわけではありません。
でも、役者の妻であり母である紀子さんにとって「自分のいるべき場所」を定めることは、心だけ、思いだけで選びうることではなかったし、それを許さなかったのは状況でもあろうけれど、なにより紀子さんご自身だったのだと思いました。

自分の「存在」がどこにあるべきか

彼女はそのことを、決して自分の意志から離さなかった。流れに任せたり、放棄したりしなかった。
紀子さんは文中で「覚悟」という言葉を使っていらっしゃいますが、まさにその言葉がぴたりと当てはまるように感じます。

そのことは、きっと、ご本に書かれているエピソードの向うにある無数の事柄、一つ一つに当てはまるんじゃないだろうかって思いました。
そしてその積み重ねが、高麗屋を支えているのだろうとも。

《役者の女房》

役者の女房という立場がどういうものか。
理屈を並べて否定的にとらえようとすればいくらでもツッコミどころは出てきそうなものだけれど、文字通り「体験者は語る」紀子さんの言葉を総じて感じたことは犠牲とか奉仕とかいう言葉より、こちらの方が似合うようです。
尊敬し愛している人をいちばんそばで護り、助けること。それが、夫婦共働きの仕事であると。

紀子さんのお言葉の中にこういうものがありました。

人に「幸四郎はこういうふうに考えている」と話さなければならないことがある。
そんな時、幸四郎の考えを分かっていなければ、嘘を言ってしまうことになる。
(中略)
大事なことは、目先のことではなくて、大きなところはどこに向いているか、ということ(抜粋)

常に二人の一部分が同じものであること。
心を添わせ、一緒に生きているということ。
こんな「仕事」をできる人材に替りなど、見つけようがないかもしれません。

《幸四郎丈の凄さ!》

幸四郎丈のエピソードで、あぁスゴイ!と思ったことがありました。
現在、松本幸四郎家のメンバーは5名。うち、紀子さんを除いた4人が役者です。
幸四郎丈は家族の役者としての仕事を非常に気にしていて、舞台を観にいっては、その後アドバイスや注意、指導の雨あられとなるのだとか。
聞く態度はさまざま、子供たちにも自分の考えがあるし、思いもあるし、その場の態度は素直で神妙とばかりは限らない。
けれど幸四郎丈は「聞くときの態度は別に問わない」のだそうです。
なぜなら「素直に聞いてもできなきゃしょうがない」から。
そのときの「ハイ、分かりました」はいらない、それを実行してくれればいいんだ、ということなのだとか。

これ、すごくないですか?
人は教えるとき、ほとんどの場合、指導する自分が主体になってると思う。
相手のことを思っているようで、相手の態度に服従のアクションが見えないと不満になったりする。
指導する気が失せる・・・というのも、もちろん。
でもその実は、そういう態度に助けられないと、指導する度胸がなくなるんだと思う。
それが幸四郎丈にはないというのは、絶対的な自信があるからこそだし、指導の先に「相手の上達」という目的に照準がぴたりとあてられていて揺ぎ無いということではないでしょうか。
こういう指導者、先達になら、付いていけると思うのは私だけではないと思います。

『吉右衛門のパレット』

著者:中村吉右衛門/阿川佐和子(写真:稲越功一)
発行所:新潮社
YahooブックスURL: http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30773991

シャイで照れ屋な吉右衛門丈から、心と本音をいもづる式に引っ張りだすのはご存知!インタビューの名手・阿川佐和子さん(^▽^)

でっかい播磨屋と並ぶと一まわりどころか二まわり、三まわりもちっちゃい阿川さんなのですけれども、小兵の本領ここにあり!とばかり、小錦×舞の海の取り組みのような面白さ!(・・・って年がバレる!?(^▽^;)
明るい笑いのうちに油断させてはぐっと斬りこみ、照れてはぐらかそうとする吉右衛門に詰め寄っては、土俵際でふっとはぐらかして助けてみせる。
それで吉右衛門丈が恩義を感じるのか(!?)リラックスして、口が滑らかになっていく過程が手に取るよう。
「歌舞伎は詳しくないけれど、大好き」のスタンスのなかに、吉右衛門丈が語りたいことへの導入線をきっちり持っていらっしゃる勘のよさ!
名手・阿川佐和子さん、さすがの手腕ですm(__)m

吉右衛門丈が「自分自身」を話すよりもまず、たっぷりと語っていらっしゃるのは「歌舞伎」のこと。
役者さんが自分の「観せ方」について語る芸談は色々なところでよく聞き、また目にしますが、演目そのものの解釈や成り立ちを嬉々として説明してくださったり、また観客側からの目線で、現代事情から「歌舞伎を充分に味わい尽くせない」こと、それによって「歌舞伎の芸の一部が消えてしまうこと」に対する危機感を語っていらっしゃる言葉というのは、初めて聞いた気がします。
吉右衛門丈は、歌舞伎に、もっと「可能性」があると信じていらっしゃる。
それは新しいものを「付け加えて」生まれていくものというだけじゃなく、原型の歌舞伎がもつマニアックなこだわりのようなもの。
大筋を伝える段階で指の間から零れ落ちてしまったその細やかさ、綿密に張り巡らされ、歌舞伎を底辺で支えていた底力のようなもの。
吉右衛門丈は、後ろ向きな意味では決してなく、「古き良き歌舞伎」を愛していらっしゃるのだなぁと感じたことでした。

そうとは自覚していなくても、自覚しながらも、常に「名優・初代中村吉右衛門」の存在が背中にあった男の人生。
今の穏やかな温顔だけを見て、その人を語れるものではもちろんないと思います。
自分の過去を語る口調に冗談めかして付け加えられた一言、二言は、もちろん当時は「生きるか、死ぬか」ぐらいの重大事だったに違いないって思うけれど、そういう苦労話的なことはご本人が突っ込もうとなさらない。
多分、それを察して阿川さんも「氷山の一角キーワード」を引き出すだけで追求を留め、別角度からのアプローチで、明るく、気分よく吉右衛門丈から興味深い色々を引き出して、語ってもらっている。
遠回りに見えるそのアプローチが、ブーメランのように核心に切り込んでいく『涙の効用』の章など、面白かった!
吉右衛門丈のお人柄、人となりがなんとなく伝わってきました。
以前、お芝居でも感じたことなのですけれども、吉右衛門丈は成熟した大人、男の魅力の中に、なにか・・・こう、少年っぽいといいたいぐらいの感覚を秘めていらっしゃるのですよね。
それは正義感であったり、多分に感覚的な寂しがりであったり、敏感な繊細さであったり、拗ねであったり、こんな小娘がこう言っては申し訳ないような「純粋さ」だって感じました。

たっぷりと挿入されたお写真は、稲越功一さんの手によるもの・・・あっ!この方、吉右衛門丈の素晴らしい写真集『播磨屋1992〜2004 中村吉右衛門』の写真家さんだ!
吉右衛門丈にゾッコン惚れ込んでいらっしゃるのだなぁ〜!
このご本にも、「惚れた男を撮る、と、こういうショットが並ぶのだ」ってことを証明するようなお写真がどっさりと挿入されています。
吉右衛門丈のお写真を見て感じるのは、ふっと、その視線の先が心にかかる・・・「この人、どこを見ているのだろう、なにを、見ているのだろう」ということを痛切に感じる、ということ。
この感覚、今、テレもなくあまりに素直に言っちゃいましたけれども、ね(笑)
このセリフで「気になる男」の相談を受けた女友達は、間違いなくこういうはず。
「アナタさぁ・・・それ、惚れてるんだよ」って(^皿^)
改めて思うと、そうなんですよね(←認めたぞ!?)
好き、ファン、というより「惚れている」、そういうニュアンスがぴたりとくる。
吉右衛門丈はご自分は「モテない」などとのたまっていらっしゃいますけれど(←全国の「ホントに」もてない男性諸氏!!石を投げてください!!)なんていうか、そういういーい気分(演目によってはそれが悲しみや、嘆きの深さを増幅させるベクトルに変わるわけで)思わせてくれる役者さんだなぁって思います。

お写真について欲を言うのならねっ、プライベートショットのお写真が・・・カラーだったらなぁ(T^T)
特に、床の間に小手毬が活けてあるお部屋で、お三味線を手にしたお写真!
表紙にちっちゃいのがあるんですけど〜、満足できないんです〜もっと大きく見たいんです〜(哀願!!)
ご四女さんとご一緒のショットには、なんていうか、明らかにいつもの顔とは違う「ニヤケ」があって(笑)これまたファンにはたまりませぬ〜♪
・・・はっ、失礼しました!今一瞬、ものすごく「Deepファンモード」に突入してしまいました(焦)

さほど分量の厚い本ではありませんし、インタビュー形式の生き生きとした文体ですのでとっても読みやすいです。
吉右衛門ファンならずとも、一読の価値、アリです♪

『歌舞伎未来形 新時代をひらく若手役者たち』

著者:小松成美(写真:福岡耕造)
発行所:マガジンハウス
YahooブックスURL: http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30855977

このご本の刊行は2001年、ご登場の各役者さんへの取材はそれよりもっと以前のもの。
染五郎丈の表情にはハムレット的な憂愁のプリンスっぽい気配が漂うし、当時16才の七之助丈に到ってはやんちゃな小動物系のとらえどころのなさがあって、本人寄りというより、思わず保護者寄りの目線になってしまう(笑)
お顔立ちだけを見たって、どなたもが今よりも「男の階段」の数段下にいらっしゃる感じがします。
本著に登場するのは、立場も個性もまったく異なる若手歌舞伎役者さんたち。

市川染五郎丈
中村獅童丈
尾上辰之助(現 松緑)丈
市川春猿丈
中村勘太郎丈
中村七之助丈
澤村宗之助丈
市川男寅(現 男女蔵)丈
市川亀治郎丈

花形としての蕾ほころぶ9名を、小松成美さんが熱意と敬意+たっぷりの愛情で汲み取ったインタビュー&人物評集です。

生い立ち、経歴、背負うもの、それぞれに「立場」があります。
9人の「立場」を垣間見て、その違いと同時にビックリしたのが、全員を繋ぐ揺ぎ無い共通点でした。
恵まれていること、リスクを負っていること、その全てをひっくるめて、彼らは自分の立場を(若干の強がりや、そうありたいという願いを含めて)肯定しているということ。
その「立場」に驕ることがないということ。

人物としては、感性や美意識の切っ先が鋭すぎるほど鋭かったりだとか、歌舞伎というものに全人生ごと心中してかかってしまっていることだとか、はっきり言って(キワモノだな)と思える部分もあります。
ただ、誰もが根底の共通認識としてもっているらしいのは、歌舞伎の巨大なこと、奥深さへの敬意と安心感のようなものでした。
自らの中にある刀が如何に凶暴であろうとも、歌舞伎という鞘はそれを収めてくれると信じている、人生ごと決死のダイブをしても受け止めてくれるスケールを信じている・・・その、なんていうか「信仰心」みたいなものに揺るぎがなくて、それが9人全員に共通しているのが、なにかすごいことのように思えます。

今の世の中に、こういう「絶対的な存在」ってそう多くはないのではないだろうかって。

《それぞれの「言葉」》

「どんな偉大な役者が亡くなっても、幕があがらない日はない。
役者が生きた証である芸は、他の役者の中に生き、吸収されていく。
その積み重ねがあって『役』ができあがっているような気がする」

「(芸とは)僕にとっては闘いです。
闘って、勝たなければおじいさんやお父さんには近づけないと思う。
逃げる場所のない自分は、人生の勝負で負けるわけにはいかないんですよ」

(市川左團次丈について)
「洒脱で艶っぽく、真似のできない色香と品格がある」

「(情熱だけでは)受け入れてくれる舞台はない。
自分の居場所を見つけるためにも、負けるわけにはいかなかった」

「歌舞伎とか、能、狂言、どれも生身の人間にしか伝えられない。
人間がいなかったら滅びてしまう。
その自負は勇気にもなっていると思う」

「本来あるべき位置に手が行ったときに『美』に昇華するわけで、
その位置を人は一生かけて求め続けているのではないだろうか」

「あるべき場所にあればその存在価値は生まれるわけで、
人間だって、いるべき位置をきちんと探し当てれば美しくなれるのかな、と」

それぞれに心を深いところへ引き込んでくれる響きがあって、興味深いものばかり。

《イメージ一転、二転、三転!》

尾上辰之助(現 松緑)丈。
明朗で男性的なお役が吸い付くように似合う、でも、周囲に影響されることのない「自分」がキッパリしていて、容易な親しみやすさというのともなにか違う。
私には芸云々のことは良くわかりません、その個性からくる印象を良くとったことも悪くとったこともありましたが、総じた印象として、この人は観客に媚びない、というのが常にありました。
一歩間違えばふてぶてしいような度胸だし、若手役者さんにしてはやりにくかろう、誤解も生むだろうなぁ、決して器用ではない・・・そう思うと同時に、なんというか、その揺るぎのなさに(これはある意味、見事なもんだなぁ)という敬服さえ感じていたのですが、このご本のインタビューを読んでなにか納得できるものがありました。

彼の言葉を単純に書き抜いたら、誤解を生じさせてしまう部分も充分にありそう。
自信というより自負の気高いことといったら、歌舞伎界の中でも屈指のものじゃありますまいか。
不器用には違いない、謙虚好きの日本人に万人受けする受け答えをしようと思えば、彼の頭脳からいっても必ず出来る。でも彼はそうしない。
嘘に言葉を飾らず、リアルな自分をさらけ出して・・・なんといいますか、尾上松緑丈は世間にケンカを売っているような感じさえするんです。

「(芸とは)僕にとっては闘いです。闘って、勝たなければ。逃げる場所のない自分は、人生の勝負で負けるわけにはいかないんですよ」

芸の上でも、世間に対しても、自ら退路を断ってかかっているように思えるのです。
見守ろう、という甘さを含んだニュアンスじゃなくて、「じゃぁ、あなたの将来を見せてみろ!」と、彼を見つめる視線に一点の妥協も許させぬような。
その、嘘のない生々しい視線を受けて、尾上松緑丈は自らに鞭打つんだなぁと、そんなふうに感じたことでした。

市川男寅(現 男女蔵)丈。
浅草歌舞伎の大ファンから見ると、男女蔵丈の存在はおおどかでゆったりとした、ものの分かる兄貴といった印象。
役者として、というより人間としての紆余曲折を知って「兄貴」への敬愛がいっそう深まってしまいました。
あの体験を経て、人間としての存在感、オーラみたいなものに人を落ち込ませるような暗さがないことに、人としてのスケールの大きさを感じます。
男女蔵丈が人生において選び取ってきた道を一つ一つ辿っていくと、その共通点は常に誰かを助けているってこと。
自分の存在を誰かの支えに、誰かの願いに、心に捧げているところだって感じました。
そしてそれらに犠牲とか義務とかいう暗さを持っていないのが、すごい。
ホントに、優しいし、強い。
人間として信頼の置ける人に違いないって感じました。

一筋縄ではいかない複雑さをブラックホールみたいに吸い込んで、どこか飄々と、ちょっぴりエロく(笑)男女蔵丈が慕われる理由、分かるような気がします。

市川亀治郎丈。
話を聞いていると、ぐわーっと引き込まれていくような独特の感性があって、彼に嵌ったら抜け出せないものを感じますねぇ!
クレヴァーって言葉が文字通りに良く似合う、演劇人にとっては将来カリスマ的な存在になるんだろうなぁって、なんかそんなふうに感じました。
もちろん、私達観客にとっても!
今こんなことを言うの、明らかに早すぎですが(^^;
「亀治郎丈、ホント長生きして!」
そのことが、歌舞伎の、演劇の、日本の・・・いやっ世界の財産ですから、多分!

中村獅童丈。
化粧なしの素顔で役に扮するお写真があるのですが、その顔が凄い!
顔が凄いってのも凄い表現ですが(^^;あのね、浮世絵の顔ありますでしょ?
グゥッと暴力的な力を込めて歪ませた顔で、口なんかが普通だと考えられないような不自然な場所にあって、どうにも凄いような絵。
あれは誇張なんだと思っていましたけれど、このお写真を見て「ウワッ!あの絵、現実なんだ!!」と思いました。
なんて立派なお顔だろう!
現代的に見てもスタイリッシュなお顔立ちですけれど、歌舞伎を演じた時のあのお顔立ちは、強烈に古風で、なんとも立派なんですわ!絵になる役者ってこういうこと!?

《表紙と裏表紙》

表紙は、こちらに背を向けた一条大蔵卿、裏表紙は扇で顔を覆った常盤御前。
(・・・だと思う、お役、あってますよね?)
双方ながらに顔を見せないこのお写真に、収録された9人の若手花形への「まだまだ!」が詰まっているように思えます。
彼らは、バンと正面きって「これが『自分』だ!」と大見得を切れる存在では、まだ、ない。
おそらくご本人たちにとっても、観客にとっても。

その上で、いつか振り向いてくれる、扇を下ろしてくれる、そのときをワクワクと待つこの期待、喜び!
今と未来を思わせる、とても素敵なデザインのご本。

登場する役者さん、著者さん、写真家さんのお心を感じさせる、なんともカッコいい一冊だと思います。

『役者の青春』

著者:中村勘九郎(現 十八代目 中村勘三郎)
発行所:講談社文庫
YahooブックスURL: http://books.yahoo.co.jp/book_detail/18678788

この文章の中にいる勘九郎丈は、今を遡ること十年、二十年、三十年・・・
中村屋の表看板には十七代目中村勘三郎丈がでんと座っていて、勘太郎くん七之助くんはまだマスコットみたいにちっちゃくて、カンクロウ丈の「歌舞伎役者・旦那さん・父親」というどの立場にも「若い」っていう枕詞がくっついていた時代。
お写真なんか、いっそう若い!
その表情、高校生が部活仲間とワイワイやって笑ってるような理屈のない朗らかさ明るさがまぶしくて、「若い!」って以外の表現が見つからないくらいです。

読んでいて思うのですけれども、勘九郎丈(=現 十八代目勘三郎丈)ってビックリするくらい素直というか、衒いがないんですよね。
それは批判されたり叱られたりっていう時であれば、変に理屈理論でごちゃごちゃさせずに本質のところだけすっと掴んで、それが感覚的に納得いくものだったら子供のように従っちゃう。
子供って偉いなと思うんですけれども、大人って、こっちの都合や気分で子供を適当にあしらったりすること、ありますでしょ。そりゃもちろん普段の愛情とか、信頼とかそういうものがあった上でですけど、そういう大人の我侭っていうのを、大人同士だったらいちいち目くじら立てて騒ぐようなことだって、子供はけろりとしてますでしょ。
愛情とか信頼とかの本質をぱっと掴んで、些細なことには動じない大らかさというか、気取りのなさというか、卑屈じゃない謙虚さというか・・・
変なプライドがないんですよね。本人だけが「矜持だ誇りだ意地だ」などと思い込んでいる偏屈がない。これ、すっごい気持ちいい。

だから、誇らしく思っていることだとか、身内自慢だって思ったとおりに喋っちゃう。
自慢話が生む皮肉だとかやっかみだとか、気恥ずかしさとか、考えないんですね。
誇らしいから誇らしい、単純明快。
勘九郎丈の言葉って隙だらけで、あやを捉えてのツッコミどころなんていくらでもある、けど、それをやることは(あまりに野暮だ)って思える。
いい悪い、じゃなくて野暮だって。
それはお父様(=十七代目勘三郎丈)のエピソードなんかから立ち上がってくる人物像と、そっくりだって思う。
これ、出来るようでいて難しいよなぁ!って思いますねぇ。

内容は、歌舞伎のことから日々思うことなど盛りだくさん。
お父様と共に立つ舞台のこと、歌舞伎の中に面白いトリビアを発見しては、大喜びして夢中でご披露したりも。
(判でついたよう)な息子たちのこと、若いパパの悩み。
・・・この悩みってのがなんていうか一途で、子供を馬鹿にしていないっていうか、護るべきものであると同時にひとりの人間として接している生真面目さがあって。
いかにも若いし、お悩み相談に「正解」をくれる子育て本じゃないけれど、この人の元で子供はいい子に育つやろうなぁ〜って、なんとなく思う。特に男の子なら。
でね、息子さんが可愛いんだわ!特にカンタロウちゃん(笑)
とあるエピソードの中にあったぷわーってあくびをしている情景とか、映像で浮かんできて笑ってしまう!

若い時分を回想しての数々のエピソードも面白い!読んでいてニヤニヤしちゃうもの〜。
悪友・・・いえいえ親友(笑)の八十助丈(=現 三津五郎丈)との珍道中、オトコノコだよなぁ!の感覚やロマンチストぶり(^皿^)
その青春のこっぱずかしさが、こっちまでムズムズさせます(笑)

そして、とっておき、さまざまな役者さんの舞台裏エピソード。
大成駒(=故 中村歌右衛門丈)の意外!?なイタズラ心、ビックリと可笑しさがこみ上げてきて、お写真でしか拝んだことのないあの美しすぎる面差しに、生身の血が通ったような気がしました。嬉しいな。
「市川團十郎のお兄さんって、舞台も私生活もおっとりしていてスケールの大きいところがあって、ぼくは大好きです。それだけに失敗談の宝庫みたいなところがあって・・・それが皆いかにもあの人らしくて、素敵なんだ(引用)」
・・・この書き出し、続きが読みたくてしょうがなくなりますでしょう!?
もう、地下鉄の中で読んでいる時、顔が笑ってしまって笑ってしまって、恥ずかしいからいかにも考え事でもしているかのように眉をしかめたふりをして誤魔化したりして大変でした(笑)
團十郎丈のお姿を思い浮かべてこのエピソード・・・うんっ(笑)私も團十郎丈が大好き!!

読んでいて(へぇっ)と思ったのが、勘九郎丈って、受け取ったお手紙なんかをすごく読んでいらっしゃるし、喜んでいらっしゃるのだなぁってことでした。
役者さんにお手紙を書くなど考えたこともなかったのですけれども、大きな感動のお礼、直接差し上げるのもアリなんだ!って目からウロコ。
でも・・・うきゃー!!恥ずかしいよねぇ!だってだって、あの役者さんが、私の書いた手紙を実際に・・・うきゃー!!(←うるさい!!)

勘九郎丈(=現 十八代目勘三郎丈)の文章って、全部が「声」に聞こえるから面白いんですよねぇ!傍らで喋っているような感じがするの。
他のご本でもそうですけれども、一冊読みきると、どこか他人とは思えない妙な親近感が出てきちゃってね、薦められて歌舞伎を観にいこうというより「(友人の気分で)あの人舞台やるんだって、面白い面白いって散々宣伝してたから、行ってみようか?」っていう知人友人のノリで出向ける感覚が湧いてくる。
歌舞伎初心者さんをデビューさせる時、事前に勘九郎丈の著書を一冊渡しておく・・・ってこのテクニック、実は結構使えるんですよ!!
私も何度か実践したのですけれども(というか、自分自身もやった)、いい効果♪

そして、最後の最後に素晴らしいのが・・・あとがきに代えて、関容子さんが寄せた一文です。
十七代目中村勘三郎丈と親交の深くていらした関さんが描写する、最晩年の勘三郎丈のお姿―――
敬愛されている、尊敬されている、息子も嫁も孫たちもあたたかい、けれど・・・対等にものを言える、馬鹿も言える「仲間」は鬼籍に入っている人たちばかり。その孤独、寂寥。
勘九郎丈は、とうとうしまいまで父の眼をまともに見ては話せなかったのだといいます。
あれほど愛し、その存在を体に取り込むほどに魂は親しんでいらしたというのに、いや、だからこそなのでしょう。
勘九郎丈の奥様・好江さんが、最後の看病で「私だけの父」を手に入れた、嬉しかったと仰った言葉のニュアンス、痛いほど切ない喜び、本当に良く分かります。
誰もが優しく、誰もが無力で、でもがっちりと支えあってきた中村屋の絆が思われます。

関容子さんの筆は、もうそこにはいない人を人の形に中身を添えて3Dみたいに立ち上がらせて下さる。本当にあたたかく、素晴らしい。
この方がいて下さることが、中村屋が大好きな私たちの幸運だとさえ思いました。

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事