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『高橋克彦版 四谷怪談』
著者:高橋克彦
発行所:講談社文庫
発行日:2000年8月15日
YahooブックスURL: http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30711470
「わたしにとって四世鶴屋南北の『東海道四谷怪談』ほど大きな意味を持つ作品はない」
作者の高橋克彦さんがあとがきでおっしゃっているその言葉通り、原作への尊敬がひしひしと伝わってくる「丁寧な作品」というだなぁというのが第一印象でした。
作中で登場人物が話す言葉のほとんどが、歌舞伎の舞台とおなじもの。
四谷怪談がどういう作品なのか、これほどわかりやすいテキストはほかにないのじゃないかなぁ。
歌舞伎を見ているときには舞台の勢いに飲み込まれて、少々うやむやになってしまっていた「?」点は残らずこの本で解決。
どころか、すべての行為、すべての偶然に、人智を超えてはいるものの確かにそうあるだろうと思わせる「必然」の裏打ちを感じさせて。
良くぞここまで綿密な、悪魔的な世界を組み立てたものだなぁ!と、作品の裏に潜む作者の影に不気味な恐ろしささえ感じました。
それを、文学研究的マニアックな視点じゃなく、人の血を通わせた読み物として読ませてくれるところが実に嬉しいです(^^)
私は原作を読んだことがありませんのでどこまでが高橋氏のイマジネーションが生んだ解釈なのかちょっと分からないのですけれども・・・
この作品の中で、著者は民谷伊右衛門の行為の裏にある「感情」を綿密に暴き出しています。
一言で言えば幼い、その分分かりやすくある意味では非常にまっすぐな伊右衛門像。
恐ろしく身勝手で愚かではありますが、伊右衛門の心、感情の理屈は誰であっても頷けるものに違いありません。
悪逆の限りを尽くして人も殺す、行為だけ見れば人間とも思えぬ悪鬼―――同情の余地などないと知りながら、その浅ましさに憤りながら、でも伊右衛門の姿を見ていて、道理より先に浮かぶ感情があるのです。
「かわいそうだ」って。
伊右衛門は子供なのだと思いました。伊右衛門を見ていると、子供を見ているのとまったく同じ感情が生まれるんです。
素直な心とは幼さのこと。幼さは愚かさのこと。愚かさを非難するのはたやすいけれど、いたいけな子供が「素直な心」を全否定されるのを見ていて、感じるのは痛ましさ。
子供は、理屈を超えて、非をも包み込んで信じられるべきで、認められるべきで、その懐の大きさこそが「愛情」というべきもので。
伊右衛門は子供だった、なりは大人で、頭脳も大人だったけれど、精神は子供だった。
それなのに、社会は彼を大人扱いした。
運命が塩冶家をつぶし、「子供」は突然家庭を失った。
そして、理不尽な試練の前にひるむ「子供」の目の前に、大人たちは見張りのいない金を置く。
見えない未来が怖くてそれをとったら、周囲は「子供」を攻め立て追い詰める。
そして、その罰にいつも一緒にいた仲良しの友達を奪った。いつも一緒にいたお岩ちゃん!
お岩ちゃんを返せ、お岩ちゃんがいれば頑張れる、一人じゃだめだ、怖くて、寂しくて、一人じゃだめだ!
「お岩ちゃんを返せェェェ!!」
子供の悲鳴が爆発する、子供の心を宿した「大人の肉体」の剣の腕は人後に落ちず、老人を一太刀で切り伏せるに不足はなかった―――
正論は理屈では正しい、けれどそれは子供の弱さを許してはくれない。
当然、伊右衛門と同じ立場の人々は「大人の心」を持ちえていて、正しい道を選ぶことができた以上、すべてが伊右衛門の甘さであり非であることは間違いないのです。
伊右衛門の行為が許されざるべきものであったことは否定のしようもないのです。
でも・・・ラストで、お岩に許されたと信じた伊右衛門の微笑みにほっとした思いがしたのは何故なのでしょう。
子供が、思うさま甘えて、ホントは怒られるべき我侭も笑って受け入れてもらえて、心のそこからの安寧の中に・・・母の懐とでもいいたい「愛」の中に受け止められたことに(それがたとえ、伊右衛門の心が作り上げた虚像であったとしても)ホッとする思いを感じた。
高橋氏が描いた「伊右衛門」はそういう男だったって思います。
もちろん、伊右衛門の心は伊右衛門役者が描くもの。
ただいま、コクーン歌舞伎では橋之助丈が民谷伊右衛門を熱演中ですが、橋之助丈はどんな心であの非道の限りを尽くすのか・・・
行為の裏打ちの感情を演じること、それが「役」であり「芸」であるのでしょう。
伊右衛門が、お岩さまが、直助がお袖が小平が与茂七がそれぞれの人生を背負って生きている空間、それが「劇場」なのだろうなぁって。
俳優さんは怖い仕事をなさっている、と改めて尊敬してしまいました。
前半、高橋氏の筆は個人の心をとても丁寧に描写していました。
けれど、これは一読したあとの漠然とした印象なのですけれども、後半になって、物語が「人智」とは別の力にものすごい勢いで動かされるようになっていくにしたがって、起こった事実以外の行間を埋める「個人の心の解説」がどんどん削られていったような気がするのです。
最後など、「事実」と登場人物の「言葉」だけがほとんど箇条書きに近い形で続いている。
筆に勢いというものがあるならば、そういった「余分」を書き込む時間がなかったのだって感じがします。
「事実」がものすごい勢いで走ってしまったのだって。
四谷怪談はそういう、人の力で制御できない「勢い」を持った作品なんだって思います。
本当に、悪魔が書かせた物語だって、そんな感じがいたします。
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