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歌舞伎Review

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歌舞伎の舞台感想です
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【公演データ】
公演名:歌舞伎座さよなら公演 六月大歌舞伎 夜の部 『梅雨小袖昔八丈』
会場:歌舞伎座/3階11列4番
観劇日:2009年6月9日(火)

【主な配役】(敬称略)
髪結新三:松本幸四郎
弥太五郎源七:中村歌六
手代忠七:中村福助
娘お熊:市川高麗蔵
下女お菊:澤村宗十郎
車力善八:松本錦吾
後家お常:市村家橘
家主女房おかく:市村萬次郎
家主長兵衛:坂東彌十郎
加賀屋藤兵衛:坂東彦三郎

《わるいやつら》

驚いた、こんな『髪結新三』初めて観た!
老若男女の登場人物――誰もかも、てめぇが可愛くてならないんだ。
欲とエゴを抜き身のまんま背中に隠して、野獣のご面相につんとすました人間の仮面をかけていやがる。
全員が全員、そんな「わるいやつら」の物語。

《娘お熊@市川高麗蔵さん》

私は今まで、お熊は善良な被害者だと思っていました。恋という弱みを悪人たちにつけこまれた、かわいそうな少女なのだと。
けれど、違う。高麗蔵さんのお熊は、少女の姿を借りた「女」なんです。
高麗蔵さんの目鼻立ちの整った細面の美貌は「女」を演じるに何の不足もないんです、けれど、いわゆる歌舞伎らしい女――「役としての個性」以外の人間臭を持たない、どこか超然とした、芝居の中に住まう「娘フラグ」としての女――の存在感と、彼の役者としての本質は違うんだと思う
(役者としてのというより、幸四郎新三率いるこの舞台、このお役の役作りの上での本質、といったほうがより正解かな?)
なんというか、強いのです。
少女の風貌からなんともいえないアクがにじみ出る。エゴの匂いがする。性の気配がする。
高麗蔵さんのお熊は「髪結新三」で描かれているだけで完結するキャラクターじゃなくて、今そのもの、そして未来、死ぬまで生きる人間としてのリアルさを持っていました。
綺麗な顔立ちに濃厚に浮かぶ自我の強さ。お嬢さんらしい、自分の意志に対する正直さ。そして、そのためには恩や義理やしがらみを、最後は軽いステップで飛び越えそうな、リアルなしたたかさ。

人身御供といわんばかりの結婚に泣く姿は少女らしい可憐ぶりで、こちらの同情を呼ばずにおかない。容姿の綺麗さもその感情に追い討ちをかけて。
承知しないと母は死ぬとまで言われて同意の返事をする、なんてかわいそうな不幸な少女なんだろう―――
そして、一人になったとき、愛しい男がやってくる・・・
「一緒に逃げて。駆け落ちしましょう」
なんといったらいいんだろ。泣いてすがるお熊に、想いに殉じるピュアさとか、若い恋人達の未来を暗示する儚さとか、「そうしなければ死ぬ」と言った母親に対する責任感とか、そういうの、ないんです。
いや、ないとは言わないな。女の武器として、その不幸を全部味方につけている!
好きな男の前に身を投げ出して甘えて、涙と色気にお主といい仲になった責任もしっかりちらつかせて、決断を下す感情のアンテナを巧みに探すその、したたかな生命力。
少女の仮面の下で、相手の隙を狙って獲物をとらまえようとする視線の鋭さ。
若い男女の泣き場が、その裏になんともいえないぐらい皮肉なスリリングさをもっていて、これがなんとも、強烈に面白かったんです!

お熊がかどわかされたのは犬にかまれた事故じゃない。
小さなワルが周囲を巧いこと利用したつもりでいて、ちょっと上手のワルに騙され、さらに上手のワルに助けられ、なんにもない空間に小判の雨を降らせたっていう、皮肉で痛快なピカレスクというわけなんです。

《手代忠七@中村福助さん》

こいつもねー、ワルかった!こんな色気とエゴにまみれた忠七、初体験です!
いままで観た忠七はお熊同様、若い恋人の悲劇の範疇から出たことなかったんです。
それが、この忠七さん。あのワガママ娘をゾッコンに惚れさせて、一段上から手玉にとるような余裕を持っているんですもの。
お熊に「結婚を承知したんですって」と言うところなんぞ、その拗ねたような口ぶりにほれられている自信が漲って、ホントいけ好かない!!(笑)
お熊の若さと美貌、そして自分に惚れこんで身を投げ出してくるところというのは忠七にとっても魅力というもので、失うには惜しい。けれど、ごたごたは御免。そんな色男の気配が濃厚で、でも表面は手代のつつましさを隠れ蓑にしているもんだから、あのお熊お嬢さんさえもが必死になってご機嫌をとらないといけない力関係を保ってる。

いやなやつ〜〜〜〜!!!

しかし、それでいてなんとも魅力的なのがね、福助忠七のニクイところ!
新三に髪を整えられながらかどわかしをそそのかされるところで、なんというか、自分の立場を守りながら、道義を味方につけて、かつ、お熊を手に入れる・・・その条件が整っていくのを、忠義な手代の隠れ蓑をしっかり着込んだ外面を崩さずに、用心深く、疑り深く、じっくりと検討している感じ・・・・
そして、頭で勝ったつもりがやすやすと騙されている、そのマヌケさ加減もある意味色男のかわいらしさというもので。
利口づらした色男に、一枚上手の悪の鉄槌!なんとも痛快じゃありませんか。

――わるいやつら、さらに続々!その2に続く――

【公演データ】
公演名:吉例顔見世大歌舞伎 昼の部
『雨の五郎』
会場:歌舞伎座
観劇日:2005年11月3日

【主な配役】(敬称略)
曽我五郎:中村吉右衛門

非常にボワーッとした、大雑把な、鷹揚な踊りぶり。
吉右衛門丈踊るところの『雨の五郎』はそんな印象でした。

正直、ちょっと拍子抜けをしたんです。この踊り、主人公は敵討ちだけに若い命を燃やした火の魂みたいな男。そんな男が、雨の降るそのひと時、悲壮な覚悟を一時忘れて恋人のもとへ訪れる・・・そんなストーリィ(歌詞)を、こんなふうにことさらに強調した力みもなく、サラサラと踊るの?と。

それというのも、この舞台を拝見した丁度その頃、私は日本舞踊のお稽古で、この踊りを舞台にかけるために自分なりに突っ込んでお稽古していたんです。
もちろん、プロの舞踊家と比べたら恥ずかしいばっかりのレベルではありますけれど、一体どう踊れば、この踊りを最も魅力的に、表現したいことが最大限に生きるだろうか、と常に考えていました。
剛勇無双の血気盛んな若武者を表現するにあたっての「それらしさ」を、私は「力強さ」「鋭さ」「スピード感」といった、いわゆる「リアルな若さそのもの」の部分に求めていたんですね。
めったに与えられない「本番の舞台」に対する真剣さもあり、もう、なんというか、非常にテンションの高い、自己主張の塊のような『五郎!』というのが染み付いていたんです。

そんなさなかに、吉右衛門丈の『雨の五郎』がかかる!と喜び勇んで観に行って、の印象が、上記のようなものでした。
その印象が変わった・・・変わったのじゃないな。吉右衛門丈の五郎の、魅力の「本当のところ」に気付いたのは、自分自身が舞台で踊り、その結果をDVDで観た時でした。
「力強さ」「鋭さ」「スピード感」を求めた私の踊りは、狙いを貫徹こそしていたものの、非常にこせこせと小さく見えたんです。
手前味噌ではありますが、仕草のひとつひとつだけクローズアップしてみるならそれなりにスッキリと、凛々しい部分はある。
けれども、これじゃこの男、ただの癇の強い若者というだけなんです。
別に「五郎でござい!」と大見得きって舞台に乗せるほどのもんじゃない、只の「若者」という存在でしかなかった。

それに、余裕がない。隙がない(←踊り的にはツッコミどころ満載ですけど(^^;)遊びがない。イコール、可愛げがない。人間的魅力、いわゆる「色気」がないんです。

自分を大きく見せようとオーバーアクション気味に踊った部分もあったんですが、それがまったく大きさを生んでいない―――
要するに「輪郭がクリアすぎる」んですね。
そうなると、存在感=「自分の体の大きさ」ぶんにしか見えないんです。
結果、舞台姿が小さい。人間、そう物理的にデカイ人ってのもいませんからねぇ。

そう思って改めて吉右衛門丈の五郎を思い出すと・・・ボワーッとした、輪郭のあいまいな、大雑把なあの印象がとてもとても「大きい」のです。
物理的な意味だけだったら、同じ振りだったら、私のほうが吉右衛門丈よりも大きく踊ってました。
吉右衛門丈は、体を殺す、とまではいかなくても、めいいっぱい使うようなアクションはしてなかった。あるところなんか、手踊り的に小さく、振りをなぞるぐらいの軽さでやってたところもありました。
それが余裕を感じさせるんですね、振りが動作の説明じゃないんです、いわば「しゃれ」なんです。
改めて考えると、歌詞にある程度の物語性があるとはいえ、これは『踊り』なんですよね。『芝居』じゃない。
そして、登場人物の五郎さんは一個の『人間』というより、いわば『キャラ』としての存在なんだって。
だから、動作=踊りの振りつけも「まるで本物の若武者よう!」なリアルさを要求してるわけじゃなくって、振りが現実の動作に引っかかってるってのはいわば『ご趣向』、『洒落』なんですね。
それをご見物にきもちよーく観せる、魅せるってのが娯楽としての「踊り」なわけで。

もっと言えば、舞台の上にいたのは「曽我五郎」じゃなくて「中村吉右衛門」であることがハッキリしてました。吉右衛門が趣向で五郎に扮してます、っていうスタンス。
真剣になりすぎて、もしくは陶酔しきって、地の役者が消えてしまうような感じじゃない。
第一、あんなに立派な、運慶快慶の仏像みたいな貫禄の18才(だっけ?五郎さんの実年齢)いないよ。いるわきゃない。
客席はその二重性というか、二重写しになった趣向を楽しむという、こりゃまたヒネた、洒落を効かせたお遊びを楽しむわけなんですな。
吉右衛門丈の踊りはまさにそういう踊りでした。

この感覚というのは吉右衛門丈の舞台がそういう個性をもっている、というのじゃなくて、この『雨の五郎』って踊りそのものがそういう趣向の曲なんだなぁと気付きました。
だって、私の感覚で踊ったとき、なんというか、曲と踊りの寸法が合ってなかったんだもの。それはどうやっても埋まらなかった。
大きく踊れば大きく見えるわけじゃない。
若く踊れば若く見えるわけじゃない。
ことほどに、日本舞踊は、ムズカシイ・・・

【公演データ】
公演名:寿 初春大歌舞伎 昼の部 『猩々』
会場:歌舞伎座/3階9列16番
観劇日:2008年1月14日(月祝)

【主な配役】(敬称略)
猩々:中村梅玉
猩々:市川染五郎
酒売:中村松江

と、ある時代。あるところ。
親に孝行を尽くしつつ日々を暮らす、貧しくも心美しき青年がいました。
日中の疲れにまどろむ夜更け――夢と現の境い目で、青年は何者かの声を聞きます。
「市に行って酒を売りなさい」
言葉に従い酒を商えば、それは面白いように売れていく。
いつしか暮らしは潤い満ちたり、喜ぶ親の顔、旨き酒に酔いあそぶ客の顔。
それらに囲まれる青年もまた幸せに笑みつつ、かの声に感謝を捧げていました。

折から、市がたつごとに青年の元から酒を買っては、面白いようにすいすいと飲む客がいました。
いくら飲もうとも顔色さえ変わらない、なんとも不思議な人物―――
青年が名を尋ねると、かの人は「私は猩々(=酒を好み、守護する霊獣)である」と名乗り、常の如く酒の美味さを喜び愛でつつ、いつの間にかその姿はそこにないのでした。

青年は、かの猩々が自分にお告げを与え給うた神だと悟ります。
(この幸せへのお礼がしたい)
冴え冴えと月の美しい夜。
青年は極上の酒を甕いっぱいに湛え、猩々が住まうという海へ運んできました。
酒を好む猩々にたらふく飲んでもらおうと。
海辺に着いた青年は、甕の口からふくよかに立ちのぼる美酒の薫りを、海上へと吹き流します・・・・

酒売りの青年、名は高風。演ずるは中村松江丈。
能めいた端正なお衣装に、白皙の美丈夫ぶりが映えます。
能に近い厳粛さの中にも、高尚めかしすぎた気取りのない、グッと控えた存在感。
上手いなとか際立っているなとかいう感じこそないけれど、イヤなあて込みとか、余分なところのないのが、私は好き。

サテ、酒の香りに誘われて、スゥと海面を滑ってくる影二つ。
燃える様な赤い髪、ぽっかり浮かぶ白い顔。連れ立って現われた猩々@梅玉丈、染五郎丈です。

酒売りは礼を述べ、心づくしの美酒を差し出します。
ひときわ高い香りに甕の中を覗けば、たっぷりと満たされた酒の表面には美しい菊の花びらが浮かんでいます。
故事に曰く、かつて都を追われた男が霊山に入り、菊の花に宿った露を飲んで千年の寿命をたもったとやら。
願わくば千代に八千代にと神を寿ぐ菊酒に、猩々は大いに喜びます。

サァこののちは酒に酔い、お互いをむすぶ感謝と幸福とを謳歌するばかり。
冴え冴えと浮かぶ月さえ嬉しき酒宴の灯なるか。
双方喜びを舞いつつ、好きな酒を大杯に汲んでは飲む、飲む、飲む。

なにが素晴らしいって、猩々@梅玉丈の舞い!
体の形はカッチリと規格正しくありながら、舞う姿の縁がフウッと柔らかく滲むように見える・・・
なんといったらいいのだろう。古格とか、風雅とか、そういう「気配」をかすかな光として、まとっているようなのです。
それでいながら、かつ飄々と、動作は野生の動物のように無防備、奔放。
二つの気配を同じ体で見せつつ、踊りの振りに乱れも、抑制もない。
酔いが廻っての足使いなんて、本当に見所で面白かった!

もちろんこれは、舞踊の「技巧」なんだと思います。
でもその「技巧」が、完全に猩々そのものの存在感で包まれてる。
だからね、安心なんです。
どんな動きをしても、動作の一つ一つも、観る方がもう圧倒的に心穏やかでいられる。一切の不安がない、だってそこにいるのは猩々だから。
だからこそ、夢幻とか、異次元の世界に、何の不安もなく観客の心を遊ばせてくれる。
気持ちよく、舞台に酔える。

染五郎丈の猩々も、美しいです。
真っ赤な髪に縁取られた白い顔は、ミステリアスな無表情を能面の如く吸い付かせて美しく、動作もキレがあって端正。
初春公演の序幕を任される人の踊りに違いない。
でも違う、何が違うって問われてもあいまいだけれどはっきり違う。

染五郎丈は猩々「を」踊っている。
梅玉丈は猩々「が」踊っている。

踊りを見ているこちらの心に湧く「ありがたさ」の度合いが、違う。

峻烈な才気が迸るような染五郎丈ですもの、一番近くで梅玉丈の踊りを見て、何を思っていらっしゃるのかな。
ふと、そんなふうに感じました。

酒売り@松江丈は、イヤなところが一切ないのが美点であり、弱点でもあると思いました。
当て込みがない、だから面白みも、薄い。
酒売りの舞、もちろん音に外れているところなんて一切ありません。でも、感覚を細かく研ぎ澄ませた時の音と振りとが完璧にぴたりと嵌る気持ちよさ、一瞬が際立った鮮やかさみたいなものは感じられず、記憶に引っかかる要素がごく少ないんです。
これは・・・松江丈大好きだからこそ!的に、物足りない。
松江丈こそ、もっと欲出してもいいのじゃないかなぁ?前に自分を押し出す気迫というか、スター気質を持ってもいいのじゃないのか。
こんなに姿もお声もいい方なのだもの、その素質の究極は、絶対もっと魅力的なはずなのだもの。

―――月に見守られた酒宴もいつしか時すぎて、海の彼方が白々と明けてきました。
さすがの猩々もすっかり酔い痴れ、足元も雲を踏むよう。
すっかり上機嫌の猩々は、富を得ても驕らず敬虔な酒売りの美しい心栄えを愛でて、酒売りに贈り物をします。
いくら汲めども酒の尽きぬ、霊なる酒甕。
それを酒売りの手に残し、猩々は海の彼方へ還って行くのでした。
・・・千鳥足になりながら、っていうオチをつけて(笑)

格調高く、ユーモラスに、大らかにめでたい2008年の歌舞伎座幕開きでした(^^)

2008/2

【公演データ】
公演名:コクーン歌舞伎 『三人吉三』
会場:シアターコクーン/2階R列5番
観劇日:2007年6月25日(月)18:30開演

【主な配役】(敬称略)
演出/美術:串田和美

和尚吉三:中村勘三郎
お坊吉三:中村橋之助
お嬢吉三:中村福助
十三郎:中村勘太郎
おとせ:中村七之助
研師与九兵衛:片岡亀蔵
土左衛門伝吉:笹野高史 他

《白、白、白・・・》

大車輪の大立ち回りが烈しさを増すほどに、雪と三人吉三のまとう衣装の白が音を吸い込んで、感覚が麻痺するように静かに、静かになっていくんです。
ヴォリュームをあげていく音楽は確かに聞こえているのに、とても静か。
盛り上がるという行為が燃え上がるような熱を生まず、これほどまでに冷たく、静かに心を縛って身じろぎさえも起こさせないようで・・

(こんな思いをさせるものか、歌舞伎は!)

その言葉を覆いかぶせて、力任せに押さえつけた感情がありました。
それが何だったのか・・・一番近い言葉を探せば、怒りだった気がします。同時に、怯えていたのだとも。
一切の不純物が消え去って、目を眩ますほどに強烈な『純粋』が、そこにあったんです。
あまりに澄みすぎて、あまりに真っ白すぎて、人間が人間の肉体を持ったままそこに居ることは――そのなかで「生きる」ことは絶対に不可能なのだと、本能が「恐怖」として教えてくれました。
しかし、それはあまりに美しくて。
感情というより、もはや魂のレベルで、もう痛いほどに、切ないほどに強烈に美しくて。

私がそれ以上を知るまいとしたのは、本能が叫ぶ恐怖と、憧れ、それゆえだったと感じています。


《お坊吉三@橋之助丈》

積もり積もった悪事の記憶が鉛の重さでのしかかり、知らぬ間にじわりじわりと体力を奪われて―――
目を閉じてなお、まぶたの裏にベッタリと描かれている、あの殺人の記憶。

ただの老いぼれと侮った男の痩躯がブワッと真っ黒に膨らんだ、
それはまるで、化け物に命を食わせて体を明け渡し、この金だけに執着しつくしているかのようだった、
追いつめられ竦みあがって、恐怖のあまりに揮った刀は、いともたやすく老人の肉体を切り裂いた、
けれど死なない、斬って、刺して、息こそもうしていないがまだ死なない、
置き去りに打ち捨てた死体は闇に呑まれて視界から消え、もう二度とその姿を現すことこそなかったけれど、
しかし化け物は、人間の形を捨てて姿を変えただけだった。
いつの間にか目の前に鏡が立っている、
そこに写るのは悪夢でも幻影でもない、ただ偽りを偽りどおり、真実を真実どおりに映すだけ。
目をそらすことすら叶わない、そこに映るのは

「自分自身がこそ、もっとも忌み嫌った畜生のありさま」

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

お坊@橋之助丈が和尚に、お嬢に寄せる信頼・・・信頼という言葉では、ニュアンスが微妙に違う気がするなぁ、
一番近い感覚でいえば親子の間に流れるなにものかような、本能的とも思える「絆」と言ったらいいでしょうか。
良家の子息が盗人に堕ちるまでにどれほどの辛酸を舐めたか、それは今の境遇があからさまに物語っています。
それでもなお、彼は「心を許した」という自分の中の「真実」ひとつで、赤の他人を、その一部は自分自身だと言い切って嘘のない態度を見せるのです。
ほとんど交流とてないままに、その心意気に通じたと「信じた」、ただそれだけの絆であるにも関わらず。
凡人から見れば異常とも思えるくらいに、彼は人間を(自分自身を、そして他人を)信じられる人なんだって、そのことがもう強烈に感じられたんですね。

橋之助お坊のこの心根を理解させられたとき、本気で「はっ」としました。
人格の芯のところを、これほどまでにピュアに保てる、それは本当に稀有なことじゃなかろうか。
誰であろうと、他人との関係に対して、少なくとも自分の心が壊れない程度の保証はかけておくものです。
それが利口であり、心にうっすらと麻酔をかけておくことこそ大人の処世術という理屈もまんざら間違いではありますまい。
けれど、和尚・お嬢の対する橋之助お坊には、それがない。一切ない。
それを愚かと呼ぶなら、彼は大馬鹿野郎だと思う。
けれどこのお坊吉三ほどに信じられる人が、いるだろうか。
いや、「信じたい」人が、いるだろうか。

三人吉三のリーダー格・和尚とて、お坊よりはちっとばかし「利口」であったように思います。

たび重なる悪事についに追われる身となったお坊は、和尚の住む吉祥院へ逃げ込んできます。
そこに人の気配、咄嗟に身を隠すお坊。
入ってきたのは和尚、そしてなんと、敵方の捕り手たちです。
お坊の隠れるその前で、和尚は捕り手に取引を持ちかけられます。
(悪名高いお坊吉三・お嬢吉三を捕らえて引き渡すなら、お前の罪を赦そう)と。
和尚は考えあって、それを承諾してみせます。
捕り手たちを帰し、思案する和尚の前に、隠れていたお坊が姿をあらわす場面―――

裏切りを承知したことを知られて、さすがに動揺する和尚を見上げ、お坊はこう言うのです。
「もういいから、俺を首にして持っていってくれ。
赦されて褒美の金を受け取り、和尚だけでも生きてくれ」と。
そのときのお坊@橋之助丈のまなざし、あまりに一途で、嘘のないそのまなざしが忘れられないんです。
裏切った和尚を咎めるでもない、恨むでもない、諦念はあったろうけど、決して絶望してはいない。

その瞬間、理解できたんです。
お坊は、義兄弟の杯を交わした和尚を信じている。
それは、彼が自分に味方してくれるとか、助けてくれるとかそういうレベルで信じているのじゃなくて、「和尚そのものを信じている」んだって。
だから、和尚が自分たちを裏切る決断をしたことも受け入れて、和尚が生きる道の前に自分の死があることも承知したんだと。
自分の命と他人(=和尚)のそれを同じ天秤に載せて、いささかの利己心をさえ上乗せせずに、自分たちの代わりに和尚が生きること、それを「同じことだと判断した」―――
お坊は、この事態においても「絆」を決して疑わない。
なんと強いことだろう、なんて強烈な純粋!

お坊のまなざしに、和尚が一瞬動揺するように素を見せたその瞬間がくっきりと記憶に残っています。
和尚はお坊に変えられたのだ、何がどうという理屈じゃなくて、その純粋さにアテられたんだと。

和尚はもともと彼らを裏切る気なんかなくて、二人の捕縛を約束したのも計略あってのことでした。
けれど、和尚の心にあったのは純粋に「人間」としてのお坊、お嬢だったろうか。
彼は二人を通して、父の代からがんじがらめにこんがらがった「罪」に対していたようにも思います。
「人間」をすり抜けて、その後ろにあるものに焦点があっていたように感じられました。
それを、まっすぐに和尚本人を見つめてぶつかってきたお坊の強烈な純粋が、一番大切なもののありかを教えたのじゃないかって。

人生に対して斜に構え、幾重にも鎧われたお嬢の本心を引き出したのは、まっすぐにお嬢そのものを見つめたお坊ゆえだったと思う。
不器用な少女が、人生に後悔を残さないためにふりしぼる勇気のようだった「私を殺して」という告白が、極上の愛情表現にも、甘美な甘えにも聞こえたのはそれゆえだと思いました。

お坊の前身が「育ちのいい武家のお坊ちゃま」であるという設定は、転落の幅の大きさを強調するためだけの単純な仕掛けじゃない。
その真の意味、真の価値は、お坊の純粋を生んだ土壌のありかを示すものだったんだと知りました。
真っ白な純粋にべったりと穢いものをぶちまけて、元には戻らぬ変質をさせたことの真の罪を問い、最後は死を以って純粋に返す・・・
倒錯的で詩的な世界に、美しい橋之助丈の肢体が見事に映えていたように思います。

犯したくない穢したくない聖域の品位を持ちながら、そのことにあまりに無自覚なこと。
それゆえに、どこか甘さを含んで、守護欲を掻き立てられるようなフワッとしたところがある―――

橋之助丈のお坊吉三、彼こそがこの舞台にあふれ出す『純粋』の源泉だって、そう感じました。

【公演データ】
公演名:芸術祭十月大歌舞伎 昼の部
『羽衣(=はごろも)』
会場:歌舞伎座/3階1列1番台
観劇日:2007年10月20日(土)

【主な配役】(敬称略)
天女:坂東玉三郎
伯竜:片岡愛之助

天女が衣を靡かせて天空へと飛び去る、私はその信じがたい光景を確かに・・・肉眼ではありますまいな、しかしそれは写真に残るより鮮やかな真実として私は観た。
ぞくりとしました、典雅な夢を見ているような景色だった。

制約に縛られることは、表現として自由になることだってどなたかが言っていましたけれども、お能の風情で枠を引いたこの舞台、その不自由こそが、夢のような空想を描かせてくれるものだなぁと―――
あの気配を他のなにが表現し得ただろうと思う。
それはもちろん、表現者が玉三郎丈であったことが唯一無二の条件であったのでしょう。
坂東玉三郎という存在が現世の命あるものと思えないのは、これはいささかも言葉を飾る必要もない事実のようなもので、奇跡のような存在という言葉を私もその字面どおりに使いたいと思いました。

生身の腕を振りかざして、己の全てをこの一瞬にかけて天女を抱きとめようとする伯竜@愛之助丈。
あの方の風情の根っこのところには、なんというか、非常に寂しい、哀しい気配がある気がします。
端正な雰囲気のなかにその感覚が一刷毛、すっと刷かれたようなのが人間の業というか、存在の限界というか、そういうもののように思われて、能面のように無表情なまま美しい玉三郎丈との対比が映えていたように思います。

でも、品位の保たれた表情の変化さえもが少々うるさく感じられてしまう気がしました。
それはもはや、この舞台が娯楽本位というのでもなくて、もっと別のニュアンスをたたえたものへ昇華されかかっていたからかなぁとも思います。
顔をキメる時の眉を動かすクセ、舞踊や演技の質によってはそれが面白い愛嬌として魅力と映る時も多いのですけれども、今回はそれを抑えたほうが・・・とも感じました。

演者も舞台もそれはそれは美しく端正で、まるで、いにしえの夢でも眺めているような一幕でした。

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