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【公演データ】
公演名:七月大歌舞伎 夜の部
『山吹(=やまぶき)』
会場:歌舞伎座
観劇日:2006年7月
【主な配役】(敬称略)
辺栗藤次:中村歌六
島津正:市川段治郎
縫子:市川笑三郎
女は誰しも、胸に湧きだす泉を持っています。
幼い頃その水底には何にもなくて、水は湧き出すままにただ清く、透明に胸に満ちていたものです。
年月がめぐり季節が繰り返されるたび、泉を覆う森は落葉を繰り返し、その水底に朽ちた葉をためこんでいきます。
葉は水の中でほろほろと腐り、澱みとなって水底を覆うでしょう。
けれど穏やかに湧く水は、その澱みを揺らして行きはするものの、決して自らを濁らせはしません。そっとしておいてくれたなら、泉は底の澱みなど見えぬげに清いままであったのです。
しかし、悪意の泥足が泉にずかずかと踏み込んできた。
汚物が水を黒く染め、水底から湧く清水の流れさえもが腐臭を運んで水面を翻る―――
(自分の胸から黒い泉が湧いてくる!)
縫子の驚愕が手に取るように分かりました。婚家の仕打ちは、美しい少女が親に守られ、家に護られてひとり静かに見つめていた美しい泉を、一瞬で真っ黒な泥沼に変えたのだと。
怒り憎しみ、呪詛の言葉、ごぼごぼと音をたてて胸の底から浮き上がってくるそれら、無体な足に踏みしだかれて舞い上がる汚物は相手の罪とはいえ、紛うことなき自分のもの。
自分自身がどす黒いものを吹き上げ、自らを汚していく様に、甲高く響く縫子の悲鳴はまるで少女のそれと思われました。
縫子の行動、そのすべては、彼女がその恐怖のあまり、全速力で過去へ―――「少女」へ逃げ込もうとしている、そう思われたのです。
縫子が逃げ込もうとした「少女」という空間は、過去のただ清らかに純粋で、無力な存在ではないように思います。
少女は権力を持っている、権力という言い方はあまりに突飛かもしれませんが、彼女らは弱く、幼く、無力だけれども、誰にも何者にも敵わない力を持っています。
それは何だというならば・・・着物に隠され、日に当たったことのほとんどない腹あたりの皮膚が、この世のあらゆる極上の絹よりも柔らかく、しなやかに薫り高い手触りをもっているということ、それがまばゆいばかりに真っ白であるということ、とでも言えばよいでしょうか。
神様はまるで悪いジョークのように、女の人生のある一点、未熟で甘ったれた乳臭さの抜けない一点に、ある種の頂点を極めたのだと感じることがあります。
彼女たちの権力は輝くばかりの命そのものであり、なんの努力も要らない、ただ時がそこを通過するだけの一瞬の存在そのもの。
この上なく無邪気で、尊くも気高くもあり、この上なく脅迫的で残酷な・・・最も弱く見えて、この世のあらゆることに勝る絶大な力です。
その一瞬、少女はある種の神であり、その住まう場所はすでに現世ではないとさえ思われます。
その存在は崇められ尊ばれるべきであり、住まう池に土足で踏み込むなどという行為には神罰さえ下せるほどの。
島津の存在は、縫子にとって少女時代の象徴、そのすべてであったのだろうと思います。
縫子は島津の引導で死に逃げ込もうとした・・・いや、その本心は島津に救い出されようと願っていたのでしょう。しかし願いは拒絶され、生への道も示されぬままに死への逃げ道を塞がれた縫子の目の前に現われたのが、命すら持たぬ女人形に傅く老爺―――老爺に声をかけたのは絶望ゆえの気まぐれであったやもしれません。けれど彼女の本能は悟っていたのだと思う。美しきものに異様な執念で傅くこの老爺が、自分に再び「少女」の権力を与えてくれると。
かつての、奇跡のような夢のような美しい王座に、再び誘ってくれるのだと。
その行動は異常であったかもしれません。けれど、潔癖で清らかな「少女」は一途に、したたかに身を護ったというだけのことではなかったかと思うのです。
(この老爺に守番を任せれば、胸の泉に土足で踏みこまれることは二度とない)
少女は老爺に権力を揮い、現世との結界の守番を命じたのだと思いました。ただ、その権力が正当なものでない代償として自分自身を捧げて。
老爺との盃ごとは、汚濁に満ちた「現世」からこの上なく清らかな「異界」へ嫁ぐ花嫁の、名残尽きせぬ覚悟の盃ではなかったかと思われました。
命を失って水にほどけかかった鯉の死骸は、異界へ旅立つ餞の肴にこれ以上似つかわしいものはありますまい。
かつて自分の傍らで命そのもののように輝いていた美貌の娘、少女そのものの心で今なお自分を愛していると笑ったこの美女を、自らの手で異界に嫁がせた島津が去り行く彼女の背中へ投げた最後の台詞が、あまりに鮮やかに耳に残って離れません。
(悪夢の先に住まいを定めた縫子を救い出すナイトには、私はなれない)
思いを残しつつも、彼には現世から逸脱する度胸も義理も、いや、愛はなかったのだと。
大人の肉体を持った「少女」の存在は清らかなようでいて、畸形のようでもあって、美しくもまた不気味でもあり、哀れにも、また逆に一種の憧れさえも思われ、観劇後のいつまでも深い思いの蘇る作品でありました。
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