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【公演データ】
公演名:坂田藤十郎襲名披露 寿初春大歌舞伎 夜の部
『玩辞楼十二曲の内 藤十郎の恋』
会場:歌舞伎座
観劇日:2006年1月7日
【主な配役】(敬称略)
坂田藤十郎:中村扇雀
若太夫:中村歌六
丹波屋主人:大谷友右衛門
澤村長十郎:片岡芦燕
宗清女房 お梶:中村時蔵
藤十郎丈が生涯を捧げると仰った『和事』というものが実はなんなのか、私は正直良く分かっていなかったのです。
私にとって藤十郎襲名披露の幕開きにこの芝居を観て、「あっこういうことなんじゃないか」と思った和事の本質みたいなものがありました。
今まで観てきた歌舞伎って、その「芯」の部分がスコーンと竹を割ったかのような直線であることが多かったなって思うんです。もちろんその「真っ直ぐさ」は人間の本質じゃないから無理もする、感情も殺す、人間の生き様として正解かと問われれば一概には頷けないにしても、美学の筋が通っている。
だからある種の爽やかさがあるし、その感情に添うて生きる人間の心には「不気味さ」がないのです。
でも、今回のこの芝居はなんとも胸にわだかまるような不気味さがあった。
その不気味さこそ、言い換えれば人間らしさということでもあるような気がするのです。
人間は曲線で出来ている、だから曲線の間に淫靡な闇も生まれるし、筋道だたない狡さや残酷も潜む。
そういう闇から一切目を逸らさずに、ある意味観察者のような冷静さでそれを描ききるという芝居。
和事が描くのは「人間」なんだって、「ドラマ」主体じゃなくてそのドラマを切り回す人間そのものなんだって感じたんです。
直感のような理解でしたし、もちろん間違っているかもしれませんが。
扇雀丈の藤十郎、時蔵丈のお梶、どちらもさらりとした透明感があって、表向きは普通に生きている人間そのものでした。
けれど一人は死に、一人は直接は手を下さない殺人者になった。
和事は怖い。手触りは柔らかくて温かいけれど、究極の本質が怖い芝居だって思いました。
その分、とても面白い芝居だとも。
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