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【公演データ】
公演名:九月新派公演『初代水谷八重子 生誕百年記念 九月新派公演 京舞』
観劇日:2005年9月24日 昼の部
【主な配役】(敬称略)
片山春子(=三世 井上八千代):水谷八重子
片山愛子(=四世 井上八千代):波乃久里子
片山博道:国広富之
松本佐多:英太郎
杉浦:安井昌二 他
《演技と現実》
演技がどうだった、演出がどうだった・・・と考えても、何も思い浮かばないのです。
心に残っているあの場面を表現しようとしても、理屈めいた分析の余地なんてまったくない。
舞台の上の水谷八重子さんは、現実と演技が完全に溶け合ってしまっていたのです。
言葉や所作、何気ない仕草、そして舞の姿に到るまで、ただの一瞬だって水谷八重子が透けて見えることがありませんでした。
そこにいたのは「片山春子」を演じる水谷八重子さんじゃなくて「片山春子」ご本人。本人がそこに居ることに、作為や技術や、演技うんぬんの理屈をこねるのは筋違いというものでしょう。
お見事っていう言葉の他に、正直何にも思い浮かびません。
《百の舞い》
自由奔放って言葉がぴったりくるような老婆のわがまま。
それに翻弄される周囲の人間。
あの場面の朗らかで明るい面白味といったら、思い出しても顔が緩んでしまいます(^^)
なんといいますか、私はお弟子さんたちの心であのお師匠さんをものすごく愛してしまっていました。
権高でわがまま、口うるさくて閉口しちゃうような「くそばばあ(by松子(笑))」。
けれどその芸は珠玉のもので、芸に一途で、それを受け取ろうとするお弟子たちには本気で向き合ってくれる。とことん、愛してくれる。
居なくなればどれだけ清々するかって毒づきながら、もし居なくなったらという事を考えるだけで怖くなる。
大切な人。理屈や利害じゃなくて、親みたいに大切な人。
周囲がまるで「こわれものの宝石」みたいに老婆を崇める様が、滑稽でもあり、物悲しいまでに温かく、清らかでもあり・・・
最後の舞に向かう姿を目にした時の、喉もとを締め上げられるように突きあがってくる思いは忘れられません。
舞台へ向かう歩みの一歩一歩を、大切な時を逃がすまいとひたすらに凝視していたあの緊張感。
つえを倒し、「お幕!」と叫んだ声のこと。
百歳の老婆が舞う『猩々』の舞―――
悲しくもないのに、涙が出ました。
あまりにありがたくて、あまりに尊くて、畏れ多くて涙がでました。
「珠玉のひと時」というものが存在するならば、あの空気はまさにそれでした。
本当に、この舞台を観ることができた幸せを感じています。
《才能の形》
才能が固い岩の中に潜む宝石だというならば、三世(=水谷八重子さん)は岩を叩き割って宝珠を手にした才気と鋭さを感じさせます。いわゆる「天才」なのでしょう。
対して四代目(=波乃久里子さん)は、いかにも、鈍。
もちろん宝石は同じ場所に入っているのです。
けれどその取り出し方は、まるで原石を川底に沈めて、柔らかい川の水が固い岩を削り、丸め、長い年月の後にようやっとあらわれ出でたかのようでした。
派手さはない、華やかさはない、けれどあるとき日の光が差し込んだ瞬間、人の目を射る宝珠の輝きを示すように。
その鈍さに、三世がもどかしさを堪えきれなかった思いが良く分かります。
そして、その鈍さをどれほど愛したかも。
ラストシーンの『八島』、不器用な人が練磨に練磨を重ねて掘り出した形がものすごく伝わってきました。
踊りの名手を演じるにあたって、踊りが上手なだけではもちろん駄目なのでしょう。
それだけなら意味が無い。吹き替えを使った方がどれほどいいか。
でも、女優の仕事はそれ以上のものでした。
踊りの形がうんぬん、というのではなく、四世の人となりと才能と生きてきた歴史のすべてが伝わってくる!
なんといいますか、あの舞台には嘘がなかったように思うのです。
「京舞の最高峰」という人間を演じるにあたって、その舞い姿を織り込む趣向は最高に効果的。
けれど、それをできる女優さんが居なければ絶対に成立しないものでしょう。
名作を名作たらしめるのは生身の俳優ゆえ、という当たり前のことがものすごく大きな力で思われました。
そして、その「生身の俳優」を育んでいる劇団新派の実力は、本当に最大の賞賛に値するものだと思いました。
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