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礼拝の恵み : ヨハネの黙示録

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数々の書物が開かれた

『また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も
 御座の前に立っているのを見た。
 そして、数々の書物が開かれた。
 また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。
 死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って
 自分の行ないに応じてさばかれた』(黙示録20:12)
 
 
いずれ時が来れば、必ずやってくる死者たちの復活。
イエス様を信じた者のみならず、信じずに死んだ者たちも
全員が復活する。
 
そして、御座の前に立ち、ひとりひとりがさばきを受ける。
 
滅びるか、否か。
それを決定するのは「いのちの書」。
 
そこに自分の名があるか・ないかで全てが決まる。
 
イエス様を信じて救われると、この書に名前が記され
各自の名があるかどうかが調べられる。
 
名前があれば、天の御国へと招き入れられるけれど
そうでない者たちは
『いのちの書に名のしるされていない者はみな
 この火のいけに投げ込まれた』(同20:15)
とあることから、その時点で後悔しても、もう遅い。
 
御座の前で「なんで?」「どうして?」と問おうとも
いのちの書に自分の名が記されていない「理由」は
その他の書物に決定的な事実をもって、記されているのだろうから。
 
 
私が最初に通っていた教会でも
「ヨハネの黙示録」は、部分的にかいつまんで
主題説教の中で語られたり、聖書研究のクラスで学んだりもしたけれど
何というかな、恵みが薄かったのを思い出す。
 
イエス様を信じ・新生体験をしている者たちにとっては
「黙示録」は物凄く大きな恵みのはずなのに
当時、教会に集っていた多くの人たちは
さばきや滅びはコワイ、という言葉をよく使っていた。
(それって・・・
 
テキストに沿って、聖書研究のクラスのリーダーが
あれこれと概要を語ってくれたけれど、今から思うに
その話の内容は律法的な香り満載〜!でね。
 
私にとっては、それが凄く鼻について嫌だったし
御言葉の解釈に誤りがあったことにも
全く気づかなかったんだよね。
 
やっぱり、立脚点は「イエス様の御言葉」じゃないと
美味しく味わえない。
 
 ・・・イエス様を信じてクリスチャンになっても
 主の似姿とされるためには、人間側も努力しなければならない。
 救いに与ったこの身は、主の宮なのだから
 内側からも外側からも清められなければならない。
 お酒やたばこは悪なので、断ち切るように。
 
 また、世の人から見ても模範となるよう、清い行いをすること。
 罪をおかさぬ様に、常に主に祈り求め
 気づかぬところでおかした罪も、祈りの中で悔い改めよ。
 
 祈りの時間を日々、出来るだけ長く取り
 意味がわからなくても、とにかく聖書を通読せよ。
 聖書の御言葉は一語一句誤りのない神様の御言葉なので
 ひとつでも多く御言葉を暗誦し、生活の中で実践すること。
  
イエス様の十字架のあがないを信じ・救われて
世を支配するものの縛りから解放されても
これでは純粋な福音が、ぶっ飛んじゃうよ〜って思って
包み隠さず、その勢いで本音を口にしたら
 
 あなたが口にする全ての言葉と行いは
 天の御国において全て記されています。
 ですから、いいことも・そうでないことも
 自分が忘れてしまったことさえも、全てが記されるのです。
 
 いいですか。最後のさばきの時には
 そうしたことひとつひとつが神様の御前に明らかになり
 言い逃れが出来なくなるのです。
 
 クリスチャンとしてふさわしくない行為をしたなら
 神様からさばかれ、いのちの書からも名前は消されます。
 あなたは、それでもいいというのですか?
 地獄に、落ちますよ。
 
・・・それって、一種のオドシやん。
救いに与った事実や信仰よりも、世における「清い」行為を重要視され
滅びか否かを判断されるなんて、タマランなぁ〜、と
と笑いながらまた、口にしてしまったけれど
 
ま、その教会の教義が、私には受け入れられなかった
ってことなんだろう。
 


 
さて。
今日の集会で語られた御言葉からのメッセージ。
 
まさにこの「数々の書が開かれた」場面。
 
やはり、御霊を通して解き明かされるメッセージは
鋭い真理が満載!って思った。
 
詳細は、また後程。。。
 
 

祈りの香

まいど〜♪
 
今日は週に一度の礼拝の日。
夫も共に礼拝に与ることが出来て、感謝でございました
 
なんというかな・・・。
私一人が「単体」で教会に行くことも
勿論、イエス様の御言葉を慕い求めて…というアツイ思い
神様はしっかり応えて下さるから
豊かな恵みに満たされることは、間違いない! のだけど
 
やっぱり、夫が一緒にその交わりに加わると
不思議とホッとするような感覚を覚え
これって、面白いものだなぁ〜って思うのよ。
 
賛美をしていても、男声は、女声と違ってボリュームがあるし
ひとり加わるだけでも、随分と音の響きの層が厚くなるなぁ、と感じてね。
 
趣味のひとつ、とはいえ、彼は現役の合唱団員。
初見読譜の強さと、安定した音程で回る息を隣で聴きながら
つくづく、思っちゃうんだよね。
 
夫に、本物の信仰が与えられたら
きっと、凄いことになるだろうな、とね
 
それこそ、賛美だって、「つるかめ」 に
霊的一致のある男声が加わったら
倍以上の輝きが増すだろうなぁ〜って思ったし
彼に与えられたその声も、余すところなく用いられるだろう。
 
勿論、母に関しても、同じ思いを抱いているわよ。
「家族の救い」 は、先に救いに与ったものたちに課された
大きな祈りの課題のひとつでもあるからね。
 
 
でも、今は直接、面と向かって言葉に出しては言うまい、と思う。
聖書の中には、こんな御言葉もあるからね。
 
『 妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。
たとい、みことばに従わない夫であっても
妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです
                            (ペテロの手紙 第一 3:1)
 
はっきり言って、誰かに強いられて
あるいは自分の思いや考えで、無理にコトをなしても意味がないし
信仰は理屈じゃないからね。
 
イエス様のこと (本物の真理) は、体験をもって悟るしかない。
 
まさに父が召される前がそうだった様に
「福音を伝えよ」、と主が背中を押した時こそ、動くけれど
「動かずにいなさい」「とどまっていなさい」 と言われている時は
まだまだ動かずに、ひたすら祈りをもって執り成すのみ。
 
まずは私が主に心を向けて祈り
祈ったことは、あとは神様の領域なので
主がコトを成して下さるのを、ひたすら信じて待つだけ、だ。
 
 
家族の救い、必ずその日は訪れるだろう。
神様が定められたその時を待ちながら
日々、淡々と祈り・とりなしていくことが
今の私のお役目なのだ、と今日の礼拝を通しても
強く強く示される思いがあった。
 
 
ま、祈りの課題はそればかりではなく
具体的に重荷として与えられていることや
祈りの中において、更に示される祈りもあり
本気でひとつひとつとりなしていたら、夜が明ける。。。(笑)
 
でもまぁ、自力で頑張って祈っているわけではなく
主の助けを受けながら、「祈り」 を通して
神様との交わりを楽しんでいる、という感じかな。
 
途中で祈り疲れて寝てしまうこともあるけれど 
そういう意味では、徹夜祈祷をすることもあれば
自然に1食くらいは断たれ、祈っていることもある。
(私は意識的な断食祈祷は、絶〜対無理です。
お腹が空くと、集中力が散漫になりますゆえ。はい
 
祈りに導かれていく面白さ。
これもまた、救われた者たちの特権と醍醐味なのかもね。
 
 
『 彼が巻き物を受け取ったとき
 四つの生き物と二十四人の長老は
  おのおの、立琴と、のいっぱい入った金の鉢とを持って
 小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである』
                             (黙示録5:8)
 
イエス様に捧げられた、香としての聖徒たちの祈り。
 
 
『 また、もうひとりの御使いが出て来て
 金の香炉を持って祭壇のところに立った。
 彼にたくさんのが与えられた。
 すべての聖徒の祈りとともに
 御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった
 
 香の煙は聖徒たちの祈りとともに
 御使いの手から神の御前に立ち上った』 (黙示録8:3,4)
 
そして、聖徒たちの祈りとは別の祈りの香が立ち上った。
この香は、イエス様のとりなしの祈りと考えられるそうな。
 
 
   私たちの祈りは不完全であるが
   それに、また、イエス様のとりなしの祈りが加えられて
   神様の御前に立ち上る。
   したがって、私たちは必要以上に
   自分の祈りの未熟なことを気にすることはない。
   どんな祈りでも、イエス様によって、神様の御前にささげられるのである。
                               (メッセージプリントより)
 
私たちクリスチャンの、祈りの最も中心にあるものは
「御国が来ますように」(マタイ6:9) というものだけど
いよいよ時が満ち、その祈りが成就する時となれば
結果は、明らかだ。
 
私も肉体のいのちある限り、とりなしをやめるわけにはいかないけれど
だからこそ、祈りとて、いのちがけでもあるんだな、と、ふと思う。
 
なにより、私が「単体」であるよりも、夫や母も同じ神様を信じ
日ごと、夜ごと、心を合わせて主に祈ることが出来たなら
その香はきっと、金の鉢を満たし
香の煙が加えられて、神様の御前に、麗しくささげられることだろう。
 
その日が、1日も早く来ますように!
 
 
 
* おまけ *
オモロイ菓子パンを見つけましたよん♪
かめ☆ でございまーす
イメージ 1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1匹 200円で Get!してまいりましたぁ。
ちょいと、角度をかえて、もう一枚。。。
カメロンパンでっせ☆
イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今朝、起きたら
母がゴーカイに、カメロンパンを頭からがぶり!と
食しておりました。
「美味しかったわぁ〜♪」 って喜んでいたけれど
 
何だかちょっと、フクザツな気分になった、かめ☆でした。。。
因みに、この商品には「しっぽ」は、付いていなかったそうです。
残念〜〜〜っ
【ヨハネの黙示録2章1節〜29節】 vol. 3
(教会でいただいたメッセージプリントを抜粋・引用しながら綴っています)
  
ペルガモ教会
http://kaze-sora.com/sozai/line/li_rainbow1.gif 
また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い両刃の剣を持つ方がこう言われる。
 
「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。
そこにはサタンの王座がある。
しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスが
サタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。
 
しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。
あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。
バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き
偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。
 
それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。
 
だから、悔い改めなさい。
もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き
わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。
 
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。
また、彼に白い石を与える。
その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』
                                     (黙示録2:12〜17)
 
ペルガモ教会に対して、主は
鋭い『両刃の剣』を持つお方として記されている。
これは、① 外部に対しても戦い
      教会内部に対しても戦われるお方、という意味なのだそう。
 
ペルガモは、アジヤ州の州都であり、政治・文化の中心都市。
アジヤを支配していたローマ帝国の皇帝崇拝も盛んであり
ギリシャ神の立派な神殿があったと伝えられている。
 
「サタンの王座」(13節)は、そうしたものを指すと考えられており
異教の力が強い中で、アンテパスという殉教者が出たらしい。
 
また、教会内部においても
イスラエルの民を主の道から離れさせようとするような
「バラムの教え」 を奉じていた人々もいた様だ。
 
 
外部では、異教の力が強く
教会内部では、誤った教えをもって
主の道から離れさせようとする力がはたらいていた、ということ
今の世においても、そして時代は変わっても
そうした攻撃や圧迫は、あるのだろうな、と思う。
 
やはり、敵にとっては、真の信仰者ほど厄介なものはないのだろうからね。
あの手・この手をもって、主から目を、そして心を逸らさせて
神様から引き離そうとする。
 
ただ、霊的な戦いは肉弾戦ではないから
私たちは祈りをもって、イエス様の御名を心に念じて
神様に心を向けるだけ、なのだけど
鋭い、両刃の剣を持つ方が、戦って下さる!
 
最後まで、信仰を持ち続け
勝利を得る者には、天における報酬を意味すると考えられる
「隠れたマナ」や、「白い石」を与える、と主は言われる。
 
 
黙示録、はね。
実際にその時が来なければ、明らかにならない、という御言葉が
沢山あるからね。
 
『今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが
その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。
今、私は一部分しか知りませんが
その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります』
                                        (1コリ13:12)
 
いずれ、天の御国へ行ったならば、パウロが言っている通り
全てが明らかにされるのだろう。
 
 
 In Paradism 〜 Fauré: Requiem
 
【ヨハネの黙示録2章1節〜29節】 vol. 2
(教会でいただいたメッセージプリントを抜粋・引用しながら綴っています)
 
 
スミルナ教会
http://kaze-sora.com/sozai/line/li_rainbow1.gif 
『また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。
 『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
 
 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。 
 ――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが
 実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
 
 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。
 見よ。悪魔はあなたがたをためすために
 あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。
 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。
 そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
 
 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』
                                 (黙示録2:8〜11)
http://kaze-sora.com/sozai/line/li_rainbow1.gif 
 
「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる」』 (2:8)
 
初めであり、終わりである方  主が絶対者であり
死んで、また生きた方  永遠のいのちをもたれる方であることが記されている。
 
エペソと並ぶほどの大都市であった、スミルナ。
ローマもスミルナを保護していたことから、ローマ帝国と親しい関係を結び
皇帝崇拝やローマの偶像を拝むことが、広く行われていた、という。
 
主はこうおっしゃった。 
『わたしは、あなたの苦しみと貧しさを知っている』 (2:9)
 
ギリシャ語原語では、この「苦しみ」 とは、圧迫に押しつぶされる、という意味。
そして、無一文、という意味の「貧しさ」。
 
当時のスミルナにおいては、イエス様に対する信仰により
皇帝崇拝や偶像崇拝を拒否してしまったら
ローマ帝国を背後に置いた圧倒的な力によって迫害されてしまう
という社会的な背景があった。
 
そうした苦しみの中にある、スミルナ教会。
彼らの財産も、迫害によって全て奪われる、という状況にあった。
 
イエス様を信じること・信じ続けることにおいての迫害は
まさに、命がけ…。
初代教会ならではの苦しみは、いつも「死」が身近にあり
それだけいつも全てが追いつめられていた、ということなんだね。
 
だからこそ、真実な絶対者である主に対する信仰が必要、ということも
凄くよくわかる。
 
 
『 しかしあなたがたは実際は富んでいる』 (2:9)
この世的にはなにもなくても、主にある信仰者は
神様の絶対的な主権の中、誰よりも祝福され、幸いな道を歩んでいる…って
全く、Amen!だと思うよ。
そして、このことばは、彼らにとって、どれほど大きな励ましとなったことか。
 
また、この教会も、どうやら、他の地域と同様に
ユダヤ人からの迫害もあったらしい。
異教徒たちからの、圧倒的な迫害、という
強い圧迫に押しつぶされそうになる中において
いわば、同じ創造主なる神様を口にする、身内のような者たちからの非難や罵りは
どれほど辛いものであったか、と思う。
 
自分たちこそ、真の神に仕えている者、という自負を持っていると
ある意味、常識では考えられないほど残酷なことも平気でするからねぇ。
 
ぶっちゃけ、私も信仰を持って日が浅い時
「クリスチャン」 と自称はすれど、一般の方々でさえしないであろうことを
平気でやってしまう人たちを、間近で見ることがあって
口では神様の愛を語りながらも、言ってることとやってることが
まるっきり違うジャン!って思ったことが、何度かあったし。
 
正しいのは、自分(たち)ではなく、主のみ。
時代や国が変わっても、そしてやり方は違えども
その手の迫害って、無くなることはないんだなぁって、しみじみ思ったよ。
 
でも、そんなことに負けるわけにはいかない。
 
 
『 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。・・・
  あなたがたは10日間の苦しみを受ける。
 死に至るまで忠実でありなさい。
 そうすれば、わたしはあなたのいのちの冠を与えよう。
 
 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
 勝利を得る者は、決して第2の死によってそこなわれることはない』
                                (2:10、11)
「10日間」・・・。
試みの期間の象徴的な数字として旧約にも出てきていることから
実際の日数ということではなく、試みによる一定の苦しみの期間を表すみたいね。
 
外部からの圧倒的な圧迫に押しつぶされそうになり
更には、同胞と思っていた人たちから受け続ける、非難や罵り・・・。
そうした苦しみにあっても、最後まで信仰を持ち続ける者には
いのちの冠」 が与えられ、 第二の死によってそこなわれることはない
と、主は御言葉をもって約束して下さった。
 
信仰生活には、ある意味、戦いは付き物だけど
敵は、何とかして信じる者たちを神様から離そうと
あの手・この手で攻撃してくるからね。
 
勝利への鍵は、諦めないこと
以前、礼拝メッセージで、そう語られたのを聞いた。
見据えていくのは希望であって、それを離してしまったら
絶望しか残らない。
 
主にある人生、目に見える人の言動に惑わされることなく
真実な絶対者である主に対する信仰を握りしめ
 “ Victor's crown ” が与えられるその時まで
忠実なものでいられますように、と願ってしまう。
 
 
Victor's Crown  】
 
 
 
 
 
 
【ヨハネの黙示録2章1節〜29節】 vol.1
(教会でいただいたメッセージプリントを抜粋・引用しながら綴っています)
 
 
教会の礼拝や集会で聴く、御言葉からのメッセージは
本当に興味深い。
御言葉の解き明かしの賜物が与えられたメッセンジャーの口を通して
正しく意味を解したメッセージを聴くことは
信仰者にとって、物凄く大切なこと。
 
それらを豊かな霊的糧として、私たちは養われていくのだからね。 
 
 
さて、島流しになっていたパトモスで
ヨハネが聞いた、大きな声が言ったこと。
それは、ヨハネがこれから見ることを、巻き物に記して
七つの教会に書き送れ、という内容だった。
 
 ・ エペソ
 ・ スミルナ
 ・ ペルガモ
 ・ テアテラ 
 ・ サルデス
 ・ フィラデルフィヤ
 ・ ラオデキヤ
 
七つの教会への書信。
これらは、単なる手紙ではなく、霊を介する、霊による御言葉。
いわば、黙示録の中にある啓示の部分。
つまり、語られたことを知り、受け取った教会側の対応によって
未来が変化していく、というものだった。
 
教会に遣わされているそれぞれの御使い宛てになっている書信。
イエス様  御使い という形ではなく
イエス様  ヨハネ  御使い  教会のリーダーへ、と伝わる形になっており
ヨハネという人間がそこに介されたのも
「書き記す」ことによって、人間の目に見える形で
後世に広く御言葉が残されるため、という大切な目的がそこにあったんだね
 
 
エペソ教会
http://kaze-sora.com/sozai/line/li_rainbow1.gif 
エペソにある教会の御使いに書き送れ。
『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
 
「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。
また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず
使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
 
あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
 
しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
 
それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。
もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って
あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
 
しかし、あなたにはこのことがある。
あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
 
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』
                                      (黙示録2:1〜7) 
エペソはアジヤ州最大の都市。
ここでパウロは、3年に渡る伝道をした。
もっとも、福音を聞いても、全員が信じる・・・ということはないけれど
エペソの街の人々全員が福音を聞き
この教会が誕生した、って、凄いことだと思うよ。
 
エペソ教会には、教会内部の問題があった。
 
教会を守られ、その御使いを支配されるイエス様が
エペソ教会の苦難に対する労苦と忍耐を賞賛された。
その労苦と忍耐は、偽の使徒を通しての誤りの教えだった。
 
 『私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て
 群れを荒らし回ることを、私は知っています。
 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って
 弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう 』
                         (使徒の働き20:29.30)
 
第3時伝道旅行の時に、パウロはエペソ教会に臨むであろう苦難を
述べているけれど
様々な間違った教えが教会内に持ち込まれ
内部からも曲がったことが起こり、教会が荒らされるようになるという
まさに、その通りのことが起こっていたと考えられる。
 
賞賛と共に、厳しい非難の言葉が述べられた。
 
『 しかし、あなたには非難すべきことがある。
  あなたは初めの愛から離れてしまった 』 (2:4)
 
初めの愛・・・。
聖書で説く「愛」とは、神様との交わりから来るもの。
「初めの愛」とは、救いの体験・新生体験と
その喜びの中での主との交わりのこと
 
いわば、異端といった誤った教えなどとの戦いが激しかったために
エペソ教会の人たちは、霊的な間違いを見抜くことには熱心だったけれど
かえって、もっとも大切な、主との交わりが
おろそかになってしまった、ということが考えられるらしい。
 
うーん。
それって、凄くオソロシイことだと思う。
 
私たち信仰者は、イエス様を第一として生きていくのだから
霊的な間違いを見抜くこと > 主との交わり
という状態になってしまったら、向かっていく方向が違ってしまう。
 
つまりは、それを悔い改めよ、ということなんだね。
 
緊張を強いられ、互いにさばきあい
ぎすぎすした雰囲気に満ちている教会…なんて、行きたくないもの。
いや、行きたくない、とかいう次元のハナシではなく
そんな状況だったら、「教会」 が教会として成り立たなくなる。
まわりにばかり目が行き、主との交わりをおろそかにしていたら、ね。
 
信仰において、求めるものの方向が違うということを悔い改めないなら
『 わたしは、あなたのところに行って
 あなたの燭台をその置かれた所から取り外してしまおう』 (2:5)
と、イエス様はおっしゃる
 
燭台を取り外す・・・。
どの教会においても、「教会」である限り注がれている
主の守りと導きをなくす、という意味だそうで
ホントに主がそうなさったら、その瞬間から、教会は成り立って行かなくなる。
 
・・・・・・コワッ
 
 
『 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにある
 いのちの木の実を食べさせよう 』 (2:7)
 
神様から離れる前の人間は、エデンの園で
いのちの木の実を食べていた。
食べることを禁じられていたのは、善悪の知識の木の実だけ・・・。
 
そっか。
アダムとエバが、エデンの園を追放されたのも
神様の御愛のあらわれのひとつ、だったんだね。
「罪」をおかした体で、いのちの木の実を食べてしまうと
永遠に生かされてしまう、から。
 
罪をおかす前の人間の状態に回復させるために
イエス様は十字架にかかられた。
ご自分の方に向き直させ
世とは違う次元に目を向けさせるために。
 
 
人格を持っておられるイエス様との出会い。
イエス様を信じ、受け入れたことで変えられた価値観と生き方。
神様を知らず、神様から離れて生きてきた、わが罪
その全ての罪がゆるされた、ということを身をもって体験したあの時。。。
 
忘れるまい、「初めの愛」 の正しい意味と
新生体験をした時の喜び
そして、その中での主との豊かな交わりがなされてきたことを。
 
 
【 Blessed Assurance  】
 

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