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相模原市文化財調査・普及員南部班の調査研究で、このほど「下溝の一里塚」が見つかりました。市の文化財展(相模原市南区相模大野のユニコムプラザ)で先月発表が有りました。神奈川新聞にも掲載されたので関心が集まり、大勢の市民が見に来ていました。
 
徳川家康の遺言により、久能山から日光に柩を遷すことになり、元和3年(1617)に東海道を三島、箱根、小田原、平塚と通り、厚木、座間、相模原、町田を抜け府中、行田、佐野、鹿沼、日光に向かうことになり「御尊櫃御成道(ごそんびつおなりみち)」として整備されました。相模原市内も通過したのです。道沿いには一里塚が設けられました。
 
市の南西には「新戸の一里塚」(相模原市南区新戸2392-12)が判っていましたが、その先が判りませんでした。
 
新戸の一里塚


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御成道 崖の上はキャンプ座間(旧陸軍士官学校あと)
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           相模原台地に向かい、緩い登坂が続きます。
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「新編相模国風土記稿」に新戸の一里塚の事が書いてありました。


塚 府中道の左右に相対す。高さ一丈。頂に榎木あり。寛政中枯。元和3年神櫃通御の時。築立ありし一里塚なりと伝う。そこより東北の方。下溝村に一里。そこに又塚あり。


 

この「下溝の一里塚」が判らなかったのです。その原因は、


 

昭和10年に旧日本陸軍士官学校が相模原市相武台に移ってきて、それの伴う膨大な敷地が練兵場として強制接収されました。そのために練兵場内の道も区画も判らなくなったのです。


戦後は食料増産のため新規に区画整理されて、民間、農家に払い下げられました。


新戸から1里の所にあるはずの一里塚も、御尊櫃御成道の跡も判りませんでした。


 

相模原市の文化財調査・普及班の方々の努力で市内を通る道と塚の位置が解明されました。


 

確認された、下溝の一里塚跡 現在の地名は麻溝台4丁目、コンビニの駐車場でした。

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「新編相模国風土記稿」に、


下溝村。江戸より十二里。座間領に属す。二つ塚 一里塚なり。高さ九尺。塚上に榎木あり。元和3年。神櫃日光遷御の御路なれば。築きし所なりという。

 

塚は何処に在るか


昭和9年の大日本帝国市町村地図刊行会発行の地籍図が見つかり、「麻溝村土地寶典」17ページに記載が有りました。今の地図とは、道路、区割り等全く違います。


地籍図には、塚が二つある事が記入されていました。赤い線は御尊櫃御成道です。
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旧地籍では「大字下溝字八ノ芝野ノ二」に「塚」の記号が見つかりました。幸いにもX印が記入されているところには「北端点」が有りました。



今の地図に重ね合わせることが大変でしたが、現在の地図と重ね合わせて、下溝の一里塚は現在の麻溝台に有ることは判りました。
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北端点


明治15年に設置された地図測量の基準になった「相模野基線北端点」下溝村一等三角点。


近くの中学校の脇に有りました。(南端点は座間市に有ります)

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新戸の一里塚から下溝の一里塚を経て、木曽の一里塚に向かう道も判りました。


相模原市内を通る「御尊櫃御成道」と「一里塚」が確定されたのです。


地図の下(南)が新戸の一里塚、上(東北)が木曽の一里塚、中が下溝の一里塚の位置です。相模原市南部の台地を縦断しています。

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新戸の一里塚の坂の上から、下溝の一里塚付近の道はほとんど残っていませんが、接収された旧練兵場の場所から離れた木曽の一里塚の方には面影が残っています。


 

木曽の一里塚に向かう龍像寺坂

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木曽の一里塚(町田市木曽西4-14

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