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さて、一同はゲッセマネという名の場所に来た。そこでイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈りおえるまで、ここに座っていなさい」。 そして、ペテロとヤコブとヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき苦悶しはじめ、 彼らに言われた、「わたしの魂は悲しみのあまり死ぬほどである。ここに留まり、目を覚ましていなさい」。 それから少し先へ行って、地にひれ伏し、できることならこの時を自分から過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたはどのようなことでもできる方です。この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしが願うことではなく、あなたが欲したもうことを成し遂げてください」。
それから、戻ってきて、弟子たちが眠っているのをごらんになり、ペテロに言われた、「シモンよ、眠っているのか。ひと時も目を覚ましていることができなかったのか。 試みに陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は熱くても肉体は弱い」。 そして、また離れて行って、同じ言葉で祈られた。 再び戻ってきてごらんになると、弟子たちは眠っていた。彼らの目は重くなってしまっていたのである。彼らはイエスにどうお答えしてよいのか分からなかった。 イエスは三度目に戻ってきて、彼らに言われた、「ずっと眠っているのか。休んでいるのか。もう決着したのだ。時が来た。見よ、人の子は罪びとらの手に引き渡されるのだ。 さあ、立て。行こう。見よ、わたしを引き渡す者が近づいてきた」。 (ヨハネ14章より) 最後の晩餐の後、イエスは死が近づいていることを弟子に語り、弟子たちが自分から離れてゆくということを予言した。これに対してペテロは猛然と反対して、たとえ死ななければならなくても私は一緒に死ぬと見得を切る。この時の言葉は実行に移されることは無い。予言通り逃げてゆくのである。しかし、彼の言葉が心の底からの言葉で無かったかというと、そんなこともない。その時は確かにそういう覚悟のようなものがあったのだと考えられる。彼を責めることのできる人間はそうは居ないだろう。ただ、この覚悟というものが何に根差しているかということを考えるためには次の行動を見ることで明らかになる。師であるイエスが苦悩の中で祈っているとき、ペテロらは眠ってしまうのである。しかも3度も。一緒に死ぬと言ったペテロはもうそのことから離れてしまっている。ここにはもはや覚悟のかけらも見られない。ペテロの言葉は一時的な感情に流されたものであることが明らかになる。「離れる」ということに対して「決して離れない」と言ったもののそれは師に対する信頼とか愛では無く、不完全な自分を否定したかったというだけのことだった。
ここでもし、「離れる」ことを受け入れて「そうかもしれません。」と言ったらどうだったろうか?眠ることは無かったように思う。また、仮に眠ってしまったとしてもそれは言葉通りのことであり、過ちという意味では小さい。だが、しかし、ペテロはこれから自分がするであろうことは夢にも思わず、呑気に眠っているのである。これは私たち自身に重ねて思うべきことで、人間は自分の思っている以上に愚かで、不完全なものであるということを如実に表している。この後、十字架と復活の師に再び出会うことでペテロは信仰の人となるがそれは別の個所で語られるべきであろう。
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聖書の無神論的解釈
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キリスト者が敢えて 無神論的に聖書を 捉えなおして見ました。無神論は大変厳しい思想ですので 小生には荷が重い。ですから 無神論もどき ということで 聖書を無神論的な捉え方をしています。
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キリスト教の功罪を歴史的資料をしっかり見つめながら包み隠さず書いた名著です。
どちらかというと罪の方をしっかり捉えていますが功罪を論ずる時にはやはり罪の部分をしっかり
捉えておかないと独善的な信仰に陥りますのでとても良いとおもいました。
このような書籍は純粋な信仰を持たれている人達にはいささか誤解を生む可能性がありますが、時折私が感ずる−実際はイエス自身が意図しなかった−というよりむしろ逆の思想である−キリスト教の独善性や世界支配的な立場を取ろうとする人および思想に警鐘を与えその理由を解き明かしている点で優れていると感じました。
イエス自身の語る思想とか信仰というものは 他を認めるという多様性であり、自然主義的素朴性、つまりは 今もなお地球平和を維持するために理想とされる思想を2000年前に語っていたと言うことに今更ながら驚かされます。
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小生の周りにいる多くの子供たちは善良である。ところがある程度の年齢になるに従い邪悪になる者がある。
そして、その多くが邪悪な者、あるいは邪悪な行為に触れることで善良から邪悪への変貌を遂げる。
この世の中邪悪でないと生き残れないというような錯覚に陥り、己を邪悪な者へと変えてしまう。
聖書の時代の古代人はこれらを 悪霊の働き と呼んだ。
人間はどういうわけか卑劣な行為に対して、邪悪な行為で立ち向かうことが多い、そしてどんどん邪悪化する。善良には生きられないような思いになる。邪悪な心は伝染するかのようだ。
実際、自分が汚れたなと思うそのきっかけを与えているのは他人の邪悪な行為であることが多い。
だが、稀にどんなに邪悪に晒されても、卑劣な行為の犠牲になっても、あるいはもっと恐ろしい出来事に会ってもなおその善良さを失わない人がいる。
どうしてそんなことが出来るのだろう。それはその人が真理に出会っているからだと聖書は語る。
では真理とは何か?古代人はそれを神と呼んだ。
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5つのパンと2匹の魚を分け与えて5000人が満腹したという有名な奇跡の物語が聖書にあります。本日の礼拝のお話はそれについてでした。
この頃の5000人というのは男が5000人と言う意味。女と子供は数に入れないので少なく見積もっても15000人は居ただろうということです。何故、イエスは食料を与えようとしたかと言うと過酷な環境の上に食べるものが無い人達が飢えて帰路で死ぬものが出ることが確実だったから。たとえ死ぬものが出なくても苦しい旅であることは間違いの無いことだったからである。
信仰を持ってこの物語を読むと神の恵みと力の物語という風になってしまうのですが ここであえてそうで無い読み方を試みます。
そのような試みは沢山なされていて、例えば
1、弟子達の中には商売に長けたものが居たのでその力によってそれが可能になった というもの。
2、子供の持っていた食べ物を受け取りこれを感謝して分配しようとしたイエスの姿に目が開かれて群衆が自分の持参した食料を差し出したから というもの。
が知られています。ここで大切なのは 群集に食べ物を与えよという言葉に 弟子達が一様に無理だと言っている点と イエスを信じて 自分の食料を差し出す子供の姿の対比です。
やりもしないうちから 駄目だ、無理だと してしまう。経験が行うことを邪魔している大人と、信じて突き進む子供の姿勢がここでは明らかにされている。
例えば15000人に10円のパンを渡したとしても150万円が必要。ただ、この発想は自分達だけで行うという罠に陥っている。発想を逆転すれば一人が10円づつ出せば15000人では150万円分の食料が入手出来るという考えだ。
上記、無神論的解釈の1、2何れであろうと 常識的な大人では 無理だと諦めてしまっては結果が得られないということになる。無理だと諦めないで イエスの言葉を信じて僅かな食料を差し出した子供の行ったことこそが まさに奇跡であり、イエスの示す神の力を受け取ることに他ならない。
残ったパンくずを集めると12のかご一杯になったという。この物語を無神論的に解釈しても無理と諦めてしまうことが如何に愚かなことかと言うことを示している。
実際にこの時、何もしないで群集を返らせても多くが死ぬことは無かっただろう。しかし。99匹の羊が無事であっても1匹が失われることを喜ばないイエスの姿勢が見て取れる。当時、人間の命は軽く見られていた時代であっても一人として失われることが無いようにとこのようなことが行われた。
この物語ひとつとっても キリスト教の真髄が 随所に見て取れる。キリスト教は無神論的に解釈したとしてもそこには人間を導く知恵が隠されている。
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現実を見ろということがあります。それはそれで大切なことです。
しかしながら 現実を見るあまり、これに囚われ 現実の奴隷になっている人が居る。
人間はそうなりがちである。特に苦しい時、恐ろしい時、人間は目の前の現実の奴隷になる。
現実に対処することだけに終止してしまう。
さて、後1ヶ月の寿命であると宣告された場合、その現実に圧倒されて何も出来ない場合がある。
それとは逆に 勉学に打ち込んだり、何かをやってみたりすることもある。
ここで一つ思い直してみる。現実は絶対では無い。駄目だという風に諦めることもできる。残された人生を大切に生きることも出来る。自暴自棄になることもできる。
そしてもう一つ出来ることがある。現実が変わると信じて突き進むこと。。
そんな馬鹿なことをと思うかもしれない。ところが事実そういう人は身近に居る。そしてそのことに圧倒された自分が居る。寿命が1ヶ月だったらそれ以上生きてやろう。治らないというのだったら治ってやろう。出来ないというのならやってやろう。
これを愚かな妄想と笑うことは簡単だ。しかし、本当にそれは時に奇跡と思えるような結果を生む。何のことは無い結果が出てみればそれは現実だと思っていたことが実は単なる思い込みだった、あるいは誤診だった、あるいは変えられることの出来る未来であった だけということに気づく。
キリスト者とはこの苦しい現実の中で現実に囚われずに突き進む人達のことである。駄目かどうかはやってみなけりゃわからないだろうということだ。でも、それには勇気も居るし気力も居る。だから祈ることが大切に成る。信じて、祈って、成し遂げる。
これを信仰と呼ぼうが 強い意志の力と呼ぼうが 結果は何も変わらない。キリスト教は無神論的だからこのように無神論的に解釈できる。それに味わいを加えたものがキリスト教である。そういう言い方も無神論的には出来るのではないかと思う。
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