少年期(経験談)

[ リスト | 詳細 ]

少年時代の思い出の中で特に人から「面白い」と言われた部分を記載します。ノンフィクション。
記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

とりとり

「とりとり」という言葉を知っているだろうか?
 
例えば野球をやる。強打者あるいはエース級のトップが2人に分かれてじゃんけんをして勝ったほうから
順番にメンバーを選んでゆく。評価はそのトップ2人によって分かれるものの強打者、守備要因はおおよそ決まっているので戦力はほぼ互角になる。
 
人数が偶数の時はそれほど問題にならない。最後に採られるほうは複雑な心境だろうがそれでもそれほど問題では無い。
 
奇数の時、最後の一人だ。これを勝ったほうが選択権を持つ。要るか要らないか。
 
随分残酷な表現だがこのトップの性格および戦略によって要るか要らないかが分かれる。
皆で仲良く楽しみたいと思えば要るし、戦力的にハンデになると考えれば要らないという宣告を受ける。
 
中学生の時、班長が班員を取るという「とりとり」会議が放課後開かれたことがある。小生も班長として推薦されていた。でもこのとりとりが気に入らなかった。当然ながら、成績優秀者、スポーツマン、美形を採って行く。それが気に入らなかった。
 
せめてもの抵抗が 俺は敢えて選ばないよ という宣言だった。まあ小生も多感な思春期時代だったからお気に入りの女の子も居たのだが それを敢えて採るということは 何だか 人として間違っているような気がした。それでもって要らないと言われた人達全てを小生が面倒を見ることになった。
 
今、思えば其の仲の一人と今も交流がある。ちょっと変わったやつだが平和な家庭を築いて暮らしている。メンバー各位は 1、オタクの女(成績優秀) 2、オタクの男 3、面倒な男(理屈っぽい) 4、クラスの嫌われ者、男(ちょっと不潔+成績下位) 5、アイドルのように可愛い子(ただし気が強い、でも小生の好みでは無かった) 6、学年の嫌われ者、女(不潔+成績下位+性格がちょっと) 7、ムーミン似の性格美人 というレッテルを貼られていた。自分でも酷いヤツだと思うがこのレッテルは少なからず当たっていた。
 
それにしても露骨に 要らないと したものだ。これで2年生の1学期はスタートした。それなりに良いチームだった。メンバーがまとまらなければならないグループ作業では随分と苦労したけど。良い勉強だった。オタク男女同士はお互い仲が良かったのでその辺も旨くいった理由だろう。
 
無事に1学期が終わってさて2学期だが 再びとりとりで同じメンバーが要らない宣言を下されたのだ。でもってそれも引き続き小生が面倒を見ることになった。さすがにこれはおかしいだろうと気づくかと思いきや、まあ実際気づいていたのだろうが そのまま2学期は進んだ。今でも思うのだがこのメンバーはそれなりに仲が良かった。小生の配慮が良かったとは決して思わない。けれども はじき出された人同士が力を合わせればそれなりに力を発揮する。
 
自分が取られる側に回った時、果たして自分は要らないのか要るのか?そんな他人の評価が如何に意味の無いことか?でもそれに振り回されるということも事実だということを思い知らされる出来事だった。
 
この後3学期はさすがに問題に感じたのか とりとり は無く完全なくじ引きになった。それで良かったのだとおもう。小生はこの1-2学期のメンバー達との信頼関係はその後の中学生生活でも大きな糧となっていったのだと思う。
 
蛇足だが会社という組織でも少なからず似たようなシチュエーションに出くわすことがある。面倒な人、病弱な人、暗い人、鬱な人など 仕事が効率よく進まないためにこのような人達は蔑ろにされ、冷や飯を食わされている。でもこの人達が無能かといえばそうでは無い。
 
このような人達をまとめてよい仕事が出来たらなんて素晴らしいだろう。そんなことを夢見ている。難しいことではある。出社拒否する人間と仕事が出来るかと言えば難しい。それでも一人一人の素晴らしい個性が一つになればよい仕事も可能だろうと思う。
 
まずは小さな仕事を立ち上げてみたいと思う。彼らは大変に頭は良いが意志が薄弱であったり、人付き合いが下手だったりする。そこを如何に旨く持ってゆくかが腕の見せ所なのだろう。今のところかなり難しいがあきらめずに続けてみる。それがもう一つのライフワークなのかも知れない。
 

これは小学5年生頃の話。東京の日野というところに住んでいた頃。ニュータウン計画の一端として山を切り崩した住宅地、其の周りにはただの空き地が沢山あった。赤土がむき出しの斜面には子供一人がすっぽり入るほどの溝が彫ってあり、木の枠どりをした立派な溝があった。

この溝は普段は水が流れていないが雨の後などは水が流れ小川のようになる。探検ごっこには良い遊び場であった。この溝で巨大なミミズを見たのである。

その巨大さは少なくとも60cm以上、場合によっては1mはあったと思われる。太さは一番太いところで2−3cmというところ。環帯もはっきりあったため蛇などでは無い。後にも先にもそのような巨大なミミズを見たのは初めて。全身はピンク色でかなりはっきりした横じま模様があった。シマミミズを大きくしたようなそれはゆっくりゆっくりその溝の底を這っており、姿を土の中に完全に隠すまでに2−30分ほどを要した。

シーボルトミミズと言うコバルト色の巨大ミミズがいるがそれとは明らかに色が異なっていた。しかも20年以上も前の東京での観察例があるかと言えば疑問である。

シーボルトミミズの亜種なのかも知れない。あるいは突然変異の2倍体、3倍体の可能性もある。とにかくこういうミミズに出会えたことを喜んでいたい。

このときの目撃者は弟を含めて複数居た。今でもあの巨大ミミズの正体が何だったのかという疑問を持ち続けている。

小学4年生の頃だったか、夏も終わりに近付き 相変わらず 色々な遊びに精を出していた。そのころ
土手を掘ると穴が空いてトンネルが表れる。モグラか何かの穴だ。モグラを捕まえたいなんてことは一
度は考えるものだが掘っても掘っても穴は何処までも続いて生き物に出会えることは無い。

けれども其の日は違った。穴を掘っていると土煙を立てて黒い塊が飛び出してきた。黄色い筋が何本か
縦に入っており、頭と尾が細く、胴体がずんぐりと太い生き物だった。印象としては巨大なヒルのよう
な形。これが1mあまりも飛び上がって小生の右手にあたり、土手に落ちると大変な速度で土手の下の
茂みに滑り降りていった。くねくねと体を左右にゆすりながら目にもとまらぬ速さであった。手の感触
はひんやりとして冷たかった。長さは20cmくらい。厚みは2−3cmというところか?

あまりにも気持ちが悪かったので冷や汗を掻いていた。目撃者は小生のほかに団地の隣に住む一つ年上の男の子。二人で肝を冷やしたことを覚えている。弟も一緒に居たのだが死角になっていて見えなかったらしい。あれはなんだったんだろうねと道々話しながら家に帰った。

暫くして隣の男の子が あれはツチノコじゃないかな という。其の子が持ってきた少年誌によると1m
あまり飛び上がり土手を転がるように走ると書かれていた。まさにこれだ と思ったが 挿絵がどうも
違う。挿絵は胴の太い蛇。小生の見たものは大きなヒルのような生き物。

その後、ツチノコについて其の子とはよく話をしたのだがある日を境にそのことを話さなくなった。ま
た、そんなものを見たということも忘れてしまったようだった。

今思えば、嘘つき呼ばわりされたので話さなくなってしまったのかも知れない。かみさんにこの話をし
た時も他の人には言わないほうがいいと諭されたことがある。

こういう不思議な目撃体験は意外に沢山あるのだと思う。けれども嘘つき呼ばわりされるなど誹謗中傷
の種になるばかりか 精神病とまで言われかねないために口を閉ざして語らないのだろう。けれどもブ
ログなるこういう機会があるのだからどんどん語ればいい。

そうすればその情報を元に世紀の大発見があり、いずれ分かる日が来るのかも知れない。
というのも イリオモテヤマネコ、それから オカピ、古くはゴリラやライオンも初めは未確認生物だ
ったのだから。カモノハシの発見者は発見当初詐欺師扱いされたらしい。そんな生き物がいる分けない
と思ったのだろう。

動きが早い点から考えてカワネズミの類という予想も立てられる。そうだとしても川の無いところだっ
たので新種の高速移動生物なのかも知れない。ちなみに高速移動生物と言うのは小生の造語で カワモ
グラやヤマコウモリのように高速で移動することからその生態が最近まで分からなかった生物を指す。
例えばヤマコウモリは非常に速い速度で飛ぶためについ最近まで未確認生物だった。カワネズミもその
動きの早さゆえ最近の高速撮影技術が開発されるまでは生きている姿が撮影されることは無かった生物
である。故に更に高速撮影技術が発達することで今まで知られていなかった生物が新たに発見されるか
も知れない。

17、理科系

 小学生の時、大胆に 宿題をやらなかったり、廊下に立たされて逃げてしまったり テストを白紙で出したりと 今で言うと 問題児だった 私も 当時 教育が今よりもおおらかというか大雑把だったせいか問題児というよりも 個性児 あるいは 悪い子 ということで 認識されていた。また、精神的な障害があるとまで言われたこともある。

 多少そういうことがあったとしても当時は体罰が当たり前だったから 特に学校に親が呼ばれることも無く体罰一つで勘弁してもらっていた。

 勉強もそれほど出来ないわけでは無かったが 社会科など興味の無いことは 酷いものだった。興味のある算数と理科だけは 得意だった。特に理科は6年間学年トップだったらしい。これは担任の先生から後で聞いたことだ。勿論勉強などしたことが無かったが
 
 好きこそものの何とやら で 趣味と言うか 楽しみの一つだっただけなのだ。

であるから 自然と自分は理科系なのだなと思っていた。現在、しがない研究員をしているがこの選択が正しかったのかどうかはまだ分からない。

 小学生のころ、気付いたら何となく理科系だったということ を思い出したので書いてみました。

16、不登校について

今は不登校なんてのは珍しくも無いが 今から30年以上も前、当時は そんなやつは 殆ど居なかった。

でもって 不登校を続けるのは 意外に大変だった。

ということで 不登校もしたけど 登校して 他のことをしていることもあった。

今思えば学費の無駄だったわけだが 其の分 図書館で 本を読んだりしていたのだからまあ

少しはましだったのかもしれない。この後、2年ほど遅れて 大学へと進学するわけだが

そのときはバチがあたったとは言わないが 学費は自分で払う羽目になった。当たり前のことだがそうなって初めて大学の授業=金ということが身にしみて分かった。だが、お粗末な内容にも腹が立った。今の大学はどうだか知らないが当時の大学の授業は酷いものだった。言うなれば教授の自己満足。

授業なんかやらないほうがましなものも随分とあった。それでも感動するような講義もあったのだからまあ良しとしなければならないのかも知れない。非常に稀な例ではあったが。

学費は自分の懐を痛める。人生を蝕む。だから分からないなりに必死で勉強した。多分全然元は取れていない。それでも意地になって勉強した。お陰で主席になった。奨学金も貰えた。

でも、小生の通った大学は不幸なことに 特待生制度が無かったのだ。。さて、そんなわけで大学院を終了するまで学費に苦労させられたわけだ。正確に言うと 学費は奨学金のお陰で大学院では殆ど払わなくて良かった。

けれどもこれは将来返さなければならないお金である。就職後16年間かけて返したがこんなに長い間、返し続けることになったのも高校生の時に学費を無駄にした報いなのかも知れない。両親が命を削って出してくれた学費を無駄にしてしまった報いなのかも知れない。そう思った。

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.
華福
華福
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(3)
  • masaki1957825
  • A級
  • 絵sora
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

ブログバナー

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事