本来、本プロジェクトの責任者である、この技術者はそれなりの地位にある人なのですが
どういうわけか何も出来なかったのでした。
数十年前に作ったであろうプロトタイプを再現することが出来ないということは
新規開発品など夢のまた夢。結果、酷いことになった。不思議なのだが妄想の中ではできることになっているようだった。
で、前記事で書いたようなことをやって、私が何とか技術を掘り起こして、とここまでやったところでストレスはピークとなり怒りが収まらなかった。
というのも、もう一方の大事な仕事が私にはあったからだ。しかしながらもうサイは投げられてしまったのだった。私自身の仕事はそこで力を割けなくなり、この人のために時間が割かれた。仕事も相当きつかった。
でも、この人と付き合っているうちに、これは仕方がないことだと思えてきた。この人もやる気が無い分けでは無い。でも出来ない。昔からそうだったようだ。でも、歳をとってそれが更に悪化した。結局、技術者として何も出来ないひとになっただけでなく、間違った情報を信じ込んで、人に伝え、マイナスの仕事をするようになってしまったのだった。
ある日の礼拝のメッセージから強く感じたことがあった。
この人はそれでも職場にしがみつき、必死に解雇されないように頑張ってきたのだろう。ただ、後から聞いた話だが若い人たちは相当に苦労してきたみたいだった。
会社を含めて社会にマイナスの仕事をしてしまうこのような人は少なからずいて、この社会からは排除される人も多いのだと思う。会社であれば仕方のないことなのかもしれないが、それを私が認めてしまっていいのか?という疑問というか問いかけとして示されているように感じた。
キリスト様だったらどうするだろう。仕事が出来ないからと言って切り捨てるだろうか?嘘をつくつもりが無くても妄想が激しくて結果的に嘘を言ってしまうこういう人をどうすればいいのだろうか?
祈り続けることで、では「まともな人」というのはどういうことなのか?という問いに達した。また、今、多くの人に及んでいた被害が、私の処に来たというのは【一つの機会】なのではないかと思えた。
この人に仕事をさせるわけには行かない。でも、何かしらこの人もここにいる意味があるのではないか?そう思えてきたのだった。
まだ、結論は出ていない。でも、この人に仕事をさせないで私がこれを行うということに何か意味があるような気がしてならない。そう思い、開発を続けているとそれなりの形になってきた。彼が1年間やってダメだったのはある意味当たり前なのだが、私が1カ月やることでゴールが見えた気がした。
社会は厳しいから、彼はこの後、職を失うか、閑職に回されるのは間違いないだろう。ただ、だからと言って私はこの出会いが、初めは迷惑としか感じられなかった出会いが、憎しみという形で終わっていいわけがないと思った。
彼は今回の仕事で完全に信用を失い、これから更に大きな社会的な制裁を受ける。であればせめて私だけでも彼の側に立って居たい。そう思えてならなかった。その時、ストレスと怒りは消えて、彼のために祈るという気持ちに変わっていた。
今後どうなるかは分からないが、祈りつつ、進んでゆこうと思う。
で、職場の先輩が言ってくれた。何かストレスから解放されたみたいだね。 そう、私はストレスに押しつぶされそうで以前、下ばかり見て歩いていたのだが今は前を見て歩いていることに気付いたのだった。