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弘ちゃんは生きている(26) 木村徳太郎作
「おら、先生に怪我のときも乗せてもらったし、また乗せてもらって嬉しいな」背で、父親のことよりも、そんなことを言っている弘に答えないで、自動発電ランプの明るい光を暗い空間につきさし、それを、前へ前へと押し進めるように町へ急いだ。「速いなあ。おらも、今日、自転車買ってもらえる。買ってもらったら、先生と競争するんだ」梶野先生は、なにか考えているように、弘の喜びの言葉にも答えない。梶野先生の様子に、常にないものを感じて、弘も黙ってしまう。井上の万やさんの前を通り過ぎ、宇多川を左に折れようとした時だ。土手につながる県道に黒く蹲くまったものに、梶野先生は「はっ」と驚いて、ブレーキをぐっとかけた。
後ろの弘が梶野先生の背中にずしんとつきあたって、二人とも前にのめりこむようになり、それでもことなく自転車をとめた。「先生どうしたん」と、弘が体を少し横にねじまげて前を見る。発電ランプがとまって暗く、とっさに判らなかったらしいが、やはり心におもい当たるものがあったらしい。「お父っあんだ」と、梶野の先生よりも、さきに気づく。
「えっ」弘の言葉に、梶野先生は、自転車を降りる。それよりも早く、弘は自転車の荷物代から滑り落ちでもしたかのように降りると、黒くうずくまっているものに。「お父っあん」と、言葉をかけ、手をかけた。
返事が無い。よほど酒を呑んで苦しいらしい。それでも弘と気づいたのであろう。黒くうずくまっていた人は「うーん。弘か。今ごろ、何しにきた」と、舌も縺れて、動くのが大変らしい、やはり、弘のお父っあんである。肩に手をかけた弘の手を振り払らって「なんじゃ。前田はどうした。前田は…。金は…。金は足りたか分からぬことを、ぶつぶつ喋べったかと思うとまたうずくまって、大きなないびきをあげる。「お父っあん。お父っあん。自転車はどうした」その様子に、弘は一度に悲しくなってきて、待ちのぞんでいた自転車の事を聞いてみる。それにも答えないで「あかん。みな金使こうてしもた…。お父っあん馬鹿やな」と、一人ごとのように、言葉尻が弱くなり、弘にすまなそうにまた顔をそむけてしまった。どうやら持っていた金を、全部酒を呑んでしまったようすだ。弘は気が狂るったように「お父っあんの馬鹿。お父っあんの馬鹿」と、叫ぶ声をだして泣きながら、うずくまっているお父っあんの背中を握りこぶしでうち、それどころか足で蹴りだした。その様子に、「まあ、弘君待ちたまえ」と、梶野先生が弘のお父っあんを弘から庇うように傍に近寄ると、弘の手をぐっと握り止めたのである。
☆
ハイヤーの金を払い、梶野先生は運転手に手伝わせて酔いつぶれている弘のお父っあんを家の中に担ぎ入れる。きつねつきのお母は、お父っあんの様子に、怒りが爆発しそうだが、」梶野先生がいるので、爆発させることもならないのだろう。口早く事情をはなす梶野先生にも、腹立たしい様子。むっとした顔つきで美代に手伝わせて寝床を敷きながら、はじめて「なにぼやぼやしてんねん、早よ、お父っあん寝かさんか」口から針でも吐き出すようにきつい口調で、弘に言う。弘は酔いつぶれたお父っあんよりも、今はお母のほうが恐ろしい。
皮膚の毛穴の一つ一つから、お母の感情の高ぶりが、電波で流すように突き刺さってくる目から涙がこぼれている弘。辛いのであろう。子供だから、この不満をだれにも訴えることは出来ないのだ。お父っあんをかかえて寝床に連れて行こうとする。梶野先生にすがって、お母呪いの術にでも罹かって腑抜けたような弘は、お父っあんを寝床に寝かせようとおろおろしている。酔いつぶれているお父っあんをやっと寝床にいれる。寝床に入れられたお父っあんは、好い気なものだ。弘の哀れな気持ち、お母の怒りに震えた気持ち、酔っ払っていてとんと感じぬ。「ウ、ウウーイ。ここは何処じゃ。水、水、水を持ってこい」まだ、町の呑み屋で酒をのんでいる夢でも見ているのだろうか獣のように喚めいている。お父っあんを寝床に入れた梶野先生は上がり口に腰をおろすと、やっと、自分の務めが終わったと言うふうに落ち着きをとりもどして、「大分酔っておられるようです。道でたおれておられたのですよ。弘君一人では駄目だと思って、一緒に行ったんですが。どうもあま良いことではありませんね」お母を見て言う。お母は梶野先生の目を避ける。どうも若い先生からそのように言われることを親切だとは思わないらしい。なんだか、お父っあんのふしだらさと、自分が妻としての責任のなさを言われているようで、僻んでいるのだ。その僻みが、いっそう、お母をひねくれさせた、無愛想で、お茶を入れようともしない。腰を下ろした梶野先生に「早く帰って欲しい」と言うふうな様子がみえる。「水、水、水持って来い」お父っあんがまた唸なった。その声に弘は家にいて、きつねつきのお母と顔をつきあわせているのが恐くってならない。その恐さが酔っ払って、魂の抜けたようになっているお父っあんでも、やはり頼りにしょうとするのであろう。道で酔いつぶれていたお父っあんを見つけた下り、井戸へ水を汲みに行こうとする。
「ほっとき」その様子をみて、お母が浴びせかけるように弘にどなった。はっきりとお父っあんに対して、怒りをぶちまけているのだ。梶野先生がいるので、怒りを行いに表せないだけである。
弘は一瞬戸惑った。弘だけではないお母の言葉に梶野先生もその場にいたたまれないふう。「おじゃましました。どうか、気をつけて。静かに寝かせてあげてください、そのうち酔いも醒めるでしょう」腰を浮かして帰りかけようとする。「先生もう少し…」おって欲しいと言いたいのだが、言葉にならない涙の滲んだ目に哀願をこめて梶野先生を見るが、弘の心が分からないらしい。「じゃあ弘君、先生は宿直だから学校に行く。用事があったら来ておくれ。さようなら」立ち上がって、表へ出かけようとした。と、「先生おらも学校に行く」弘が梶野先生について表に出ようとする。その背に「弘、先生の邪魔したらあかん」お母がとめた。弘は立ち止まった。表へ出かける先生に「先生。お父っあん、すみませんでした」と、言葉をかけて先生と一緒に行くことを、お母の言葉が恐くって思い返えしてあきらめたふうだ。引き返してお父っあんが、まだ水を求めている声を耳にすると、こらえかねたように再び井戸端へ水を汲みに行こうとして、コップを出すべく台所の隅の煤けて黒ずんだ水屋の戸を開ける。あけたがコップがない。ふりかえり、お母に聞こうとしたが、先ほど止められ恐さで訊ねることもならない。何気なく見回すと、美代のみかん箱の机の上にある。「美代、ちよっと、コップとってんか」美代は素直にとらない。じろりっとお母の顔色を読んで聞こえぬ素振り。美代が聞こえぬ素振りをするものだから、弘は土間から上に上がりかけた。と「ほっときと言うのに分からんのけ」梶野先生が、帰えってしまって、こらえていた怒りを抑えることが、できなくなったのだろう。なに弘とコップに当たらなくともよいの、つと立ちあがって、みかん箱の机の上からコップを手にとると、憎々しげに「オマエがつまらんもの買ってくれと言いよるから、こんなことになるんじゃ。甘えよって。おまえのような奴は家におらんと出ていけ」と言うなり、弘にむかってコップを投げつけた。子犬が身をさけたように弘は跳ねどいた。土間に砕けたガラスのコップ。目に涙をにじませていた弘は、こらえきれなくなったように、声をあげてなきだした。あふれる涙を手でこすっている。それをきっかけのようにお母は酔いつぶれて寝床で唸なっているお父っあんの傍に近寄ると、「あんた、どうしはりましたんやお金。みんな使こうてしまいはりましたんか」頭に手をかけ、ぐいぐい揺さぶりながら聞く。頭を揺さぶられてお母だとお父っあんは気づいたようだ。でも自分のやった来たことにまだ気づかぬふうだ。「ここはどこや」と、じろりと家の中を改めるように見回す。「なに言うたはりまんねん。ここは家やおまへんか。分からんようになるまで、呑みはりましたんか」家と聞いてお父っ安心したのだろうか、お母に「水、水をくれ」と、また催促。その言葉を受け付けないで「桐久保さんの金。みんな呑まはりましたんか」どこへ、お金やりはりましたんや」と、問いつめるお母。煩さくなったのか、お父っあんは急に寝床から立ち上がると、水を飲みに行こうとするのだが、体をひょろりひょろりとひょろつかせながら土間に下りて行こうとする。行きかけて、思いついたと言うふうに寝床を横にずらせ、畳の隅を上げると、家に置いていった二万円の金を引きずり出し「うるさいな。金はあるやないか、ほらみてみ」と、お母の手元に投げだす。けげん顔ながら、瞬間満足げに顔がほころぶお母。だが札束の薄いのに気づいたのだろうか、札束の枚数を読み終わって、三万円足らないのを知ると、「これなんだんねん。桐久保さんに貰らわはったのは五万円のはずやおまへんか。後はどうなりましたんや」下駄がうまくつっかけられないのだろう。体を揺ぶりながら、下駄を履こうとしているお父っあんの側に近寄ると、立ったままお父っあんの背中に憎しみをつき混ぜた口調で強くぶちまけた。他のことを考えているのだろうか。弘しのお父っあんはそれに答えなかったが、泣いている弘を見ると、酔った心にも少しは自分の誤った行いを思い出すことが出来たのであろう。だが、その過ちをひつっこく責められたくないという気持ちが、泣いている弘をみるといっそうたかまって「やかましいやい。ごてごて言い寄って、弘をなぜ叱り泣かすんかい」と、お母の憎ゝしげな言葉を跳ね返すように言って「弘、泣くな。お父っあんにまかせとき」なにをまかせとくのかわからない。自転車は買ってやるというつもりなのだろうか。口調を和らげて弘に向かって言うと、井戸端のほうに行きかけた。そのようすにきつねつきになっていたお母の怒りがとうとう爆発した「家の言っていること答えられしまへんのか」と、後ろからお父っあんの襟首をつかみ、ぐいと引き戻した。「なにさらしけつかる。酔っていると思って馬鹿にしてきさるのか」後に引き戻どされたお父っあんは、首をねじまげて、お母の手を離すと一緒におもわず手がでてお母を下手でぐんとはねた。酔っぱらっていても山仕事に従っているお父っあんの力は普通ではない。板の間に転がされたお母は立ち上がると力ことなん思っていぬのだろう。お父っあんに手向かって喉首に手をかけた。そのとたん、千円札二〇枚、ビラをまいたようにそこらに散らかる。お父っあんとお母の喧嘩が始まったのである。美代がわっと鳴き声をあげてお母にすがり付いて、止めようとする。土間の隅で泣いていた弘はお母の手から投げつけられた道具が地面にぶち当たった音にはじかれたように無我夢中で表に飛び出びだしたのである。
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