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ひとつぶの茶の実 ___ 弘法大師の話___ 木村徳太郎
(一)
宇陀郡の山間部は、奈良県の北海道といわれていて、朝ばんのひえが、きつい土地でありましたから、村びとは、よくせんきやみ(神経痛)にかかったのです。
住屋源子(すみやもとこ)の母も、このせんきやみがひどくなって、三月まえになくなったのでした。
秋にとったささの実も、粉(こ)にして、むしてたべました。冬に、ふじの根から、しぼりとったしるを、さらしてつくったくずも、たべつくしてしまったのです。
七月だというのに、あめつづきのため、家のなかでも、寒さがきびしく、炉(ろ)に、ほだ火をいっぱい入れて、源子と、祖父が、からだをあたためながら、じざいかぎにかかった、土なべのなかに、ちいさくきっていれた、わらのにえるのをまっているのでした。
母をなくした源子は、まだ八つで、どことなくさびしそうでしたが、気がつよく、心のただしい祖父、住屋嘉兵衛(すみやかへえ)の血をうけて、さびしいとは口にだしませんでした。祖父はそれがいじらしくて、のこりすくないわらをにて、わらもちをつくり、源子に、ごちそうをしょうとしているのです。
名主(みょうしゅ)といわれた源子の家でさえ、このありさまでしたから、村人たちのこまっているようすをさっすることができます。そのとき、家のおもてで、源子の父住屋弥助(すみややすけ)と、だれかの話ごえがします。
「お祖父(おじじ)。間垣与一郎(まがきのよいちろう)も、がしん(餓死)した。」と、
大門理兵衛(だいもんりへい)が、青くむくんだかおで、杖(つえ)にすがって、はいってきました。
きのうも、的場五郎介(まとばのごろうすけ)が、金があっても、たべものもかえないと、くやしがって、黄金(こがね)を、口にくわえて、がしんしたということを、きいたばかりです。
理兵衛は、御井神社(みいじんじゃ)の倉にある領主の米をぬすんで、村人にくばるそうだんにきたのでした。
御井神社の神主(かんぬし)も、こまりきった村のようすを見て、秋のとりいれができたら、かえすということで、見て見ぬふりをするといってくれたのです。
嘉兵衛祖父(かへえじじ)は、すぐにそれをさとって、わらもちを重箱につめて源子にわたして、いいました。
「源子よ。仏隆寺(ぶつりゅうじ)の堅慧法師(けんけいほうし)に、これをとどけて、いっしょに、いただいてきなさい」と、源子にみのをきせて、つかいにだしたのでした。
村の名が赤埴(あかはに)というように、村はいたるところ、べに色の土におおわれています。なが雨のため、そのべに色のねんどが石だんにもながれ、ずるずるとすべって、足をとられそうになるのを、重ばこをさげ、みのをつけた源子は、ちゅういしながら、のぼっていきました。
げんかんにつくと、
「お坊(ぼう)さま、これ・・・」
と、わらもちのはいった重ばこをわたしました。
母をなくした源子を、堅慧法師は、たいへんかわいがっていたのです。源子をみると、すぐ庫裏(くり)にいれ、ぬれたきものを、あたためたやり、あつい湯をわかし、重ばこのわらもちを、木の皿にもって、塩を、ふりかけてたべさせたのでした。
(二 )
そのころ京の都(みやこ)では、藤原氏(ふじわらし)の貴族(きぞく)たちが、宮中(きゅうちゅう)の実権(じっけん)をにぎっていて、全国の田をとりしまり、源子の家のようにみじめなくらしをしている、百しょうのことも、かんがえずに、年ぐ米(米ではらう税)を、きつくとりたてて、かってきままなくらしをしていたのでした。
唐(とう)の国でながく勉強していた僧空海(弘法大師こうぼうだいし)が日本にかえってきたのは、ちょうどそのころでした。空海は、貴族たちと、手をむすんで、都のあちらこちらに、りっぱな寺をたて、坊さんのつとめをすっかりわすれて、おなじように、ほしいきままなくらしをしている坊さんのおおいことを、こころからなげいていたのです。
貴族たちは学問のある坊さんを、じぶんたちのなかまにし、いっそう、きままなふるまいをしょうと、空海にもさそいかけました。しかし、空海は、むかえにくる貴族たちのもうしでをことわって、ふかい山のなかに寺をたてて、坊さんとしての、ほんとうの修行をしょうと、かんがえて、勉強(べんきょう)にはげんでいたのでした。
学問は、貴族たちのような、とくべつの人や、金もちばかりのものではないのです。ひとびとのわざわいをのぞき、ひとびとの幸福(こうふく)をはかり、日本じゅうの人ぜんぶが、学問ができて、じぶんでくらしが、できるようにすることこそ、ほとけさまの、ほんとうのおしえです。
そのためには、だれでもよめる、やさしい字をつくろうと、いろはうたの五十音図(おんず)や、字を書くときの、ふでのはこびかたの図をつくって、おしえました。また「綜芸種智院」(そうげいしゅちいん)をたてて、だれでも勉強のできるようにしょうとかんがえました。すっかり日がくれたのにも、きがつかず、あれこれと、かんがえつづけていたのでしたが、ふと、なく虫のねにきがついて、
「ああ、日がくれようとするのに、堅慧法師と源子が、まだつかない。まちがったことでも、おきたのではなかろうか。」
と、まだあったこともない源子と、弟子の堅慧法師のことを、しんぱいして、おもわずひとりごとをいったのです。そして、よんでいた本をふせました。
本をふせても、なおも空海は、いろいろのおもいにふけりました。
唐の国にわたって、くるしい修行をしていたころのことです。かってきままなくらしをしている、貴族たちのこと。それにひきかえ、源子の村人たちのように、くるしいくらしをしている、おおくの人・・・。
ここまでおもったとき、空海は、人びとの不平に、おもわず涙をぽつりと、机のうえにおとしたのです。おちたところに、小さい木皿(きざら)がありました。木皿のなかに、ひとつぶの茶色の実(み)がありました。その実は、唐の国から、もちかえった、お茶の実でありました。お茶の実をとると、
「米もなく、たべるものもない、ふこうな人たちに、これをあげよう。唐の国にいたときに、わたしは、お茶で、どんなに心をなぐさめられたかわからない。」
と、お茶の実と、いっしょにもちかえってきた、お茶の葉をひく、金のうすをさがすために、たちあがりました。
そのとき、
「ごめんください」
と、源子と堅慧法師がたずねてきました。きのう、奈良の宇陀(うだ)をたって、とおい京のみやこにきたのに、ちいさい源子は、つかれたようすもみえませんでした。
空海の弟子が、源子のために、あまい菓子をもってきました。あつい白湯(さゆ)でいただきながら、二人はすぐ話はじめました。
話とは、その年は、雨つづきで、山川の水がつめたく、そのためいねのみのりがわるかったこと。二百十日の風が、内牧村のうえを、東から西北にふいて、ねこそぎにいねをふきたおしたことです。あんなにまちのぞんでいた、秋のとりいれもだめになりました。嘉兵衛祖父、理兵衛は、御井神社からかりた領主の米を倉にかえそうと、かんがえていたけいかくも、すっかりやぶれたのです。そのうえ、倉から米を、ぬすみだしたことが、領主にしれたのです。その罪で嘉兵衛祖父、弥助、理兵衛の三人は、牢屋にいれられてしまったのでした。それで、堅慧法師はひとりぼっちになった源子がかわいそうで、どうにかして、三人のいのちを、たすけることができないものかと、先生の空海に、そうだんにきたのでした。
「坊さま。どうかたすけてください」
たびのつかれもわすれて、ぎょうぎよくりょうてをそろえて、おねがいする、源子のけなげなようすに、
「ふびんなこと。これも、政治がわるいから・・・」
と、空海の目は、いきどおりに、もえていました。だれに、このことを、たのめばよいのか。空海にも、すぐにおもいあたりませんでした。
虫のねがさえて、あたりが、すっかりくらくなってしまいました。
(三)
天長二年(825年)五月。堅慧法師のたよりで、嘉兵衛祖父、弥助、理兵衛のおしおきを空海はしったのです。三人のいのちをたすけてほしいと、あれほど領主にねがっていたのに、じぶんたちに、つごうのよい権力をふりまわして、はりつけにしてころしたにくい領主。日本じゅうの人びとのくるしみを、なくそうとかんがえている、ひろい心の空海は、役人や、金持ちに、つごうのよいとりきめに、心がにえくりかえるおもいで、じっとしていることが、できなくなったのでした。
人びとの幸福をねがって、勉強していたことを、いよいよやくだてるために、室生(むろう)に道場(どうじょう)をたてようと、旅にひつような荷(に)をつくり、その荷のなかに、ひとつぶのお茶の実と、お茶の葉をひく、茶うすをいれて、京の都をたちました。
奈良にはいり、ほうぼうの村にきました。
堅慧法師や村人たちは、赤埴にはいる高井の辻まで、出むかえにきていました。ひとりぼっちになって、どんなにかなしんでいるだろうとおもっていた源子も、
「坊さま。よくきてくださいました。」と、にこにこわらって、みんなのあいだからでてきました。
赤土の山道は、おもったよりもけわしくて、仏隆寺峠が、みえるところにきて、空海は、ひとやすみしました。そこへきねんのために、一本の杉をうえておきました。
岩にこしをおろして、やすんでいる空海に、
「坊さま、この花をあげよう。」
と、二,三本の、しゃくなげをおってきて、旅のつかれをなぐさめようと、源子がさしだしました。
「ほう、きれいな花。源子のようにけだかい花だ」
空海は、しゃくなげが、きにいったのでしょう。しばらくみつめて、なにかかんがえているふうでした。
ひとやすみした空海は、源子のちいさい手をとって、仏隆寺につきました。
旅の荷をかたずけるまもなく、すぐに空海は、赤埴のとなりの室生村に白鳳九年(680年)行者の役小角(えんのおずね)という人が、つくりかけた道場のあることを、堅慧法師からきいて、よくしっていましたので、そこに唐の国からもちかえった、とうとい仏さまをおさめて、心と身体を鍛える、道場をつくりました。そして、わるい政治をよくし、人びとのこうふくをねがう、真言宗(しんごんしゅう)のあたらしいおしえを、ひろめようと、ながいあいだ、かんがえていたことを、弟子の堅慧法師にうちあけたのでした。そして、すぐに源子の家にきました。
荷の中から、ひとつぶの茶の実をとりだし、嘉兵衛祖父、弥助、理兵衛の墓にそなえて、ていねいにおがみました。おわると、
「たべもるもののない、村人をたすけようとして、おしおきになった、三人のかなしい心、その心をうけついで、ちえのあるけなげな源子、内牧の村人の情け(なさけ)のふかさ。茶の実のそだちによい、赤土の土地(とち)これだけよいじょうけんに、かならず青(あお)あおとした、かおりのよい茶ができるだろう。」と、源子のもみじのようなちいさい手に、涙(なみだ)にぬれたひとつぶの茶の実をにぎらせたのでした。
「はい、坊さま。坊さまのおしえを、よくまもって、おおきくそだてて、こまった人びとに、わけてあげましょう。」
と、源子のけなげなこえとともに、僧空海が、唐の国からもちかえった、ひとつぶの茶の実は、このようにして、奈良県宇陀郡内牧村赤埴に、うえられたのでありました。
そのとき、茶のつくりかたとともに、のこしていった茶うすは、国宝(こくほう)として、いまでも赤埴の仏隆寺に、たいせつにのこされています。
2006.10.26
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