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弘ちゃんは生きている(28) 木村徳太郎作 未完
母に見つかったらいつでも逃げられるようにと、用心しながら再び節穴に近づいた。
「弘はどうした」
喧嘩していて、弘が表に飛び出したのに気づかない。前田さんを呼びに行かせようとでもするのだろうか、父が母にぼそりと初めて言葉をかけた。
母は「呼んできまひょか」と言っておきながら、そのことをすっかり忘れたように父の言葉には答えないで、散らばった千円札を喧嘩の後始末をするように拾い集めている。
父が尋ねているのにそれに答えない母の様子に、弘はまた悲しくなってきた。
母は「おれがいなくなることを、願っているんだ」と思える。
家にかえってやらなければ、母はどんなにか喜ぶだろう。
「弘ちゃんはどうしたんや」父に言葉をかけられながら、そっけない様子、千円札をまとめている母の様子に、桐久保さんも腹立たしいものを感じたのだろう。父と同じように母に言葉をかけた。
「美代。兄ちゃん。何処へ行ったんや」
桐久保さんに言われて、母は弘のことに始めて気づいたように、ばつが悪そうに美代に尋ねる。
答えない美代。
「ちよっと、表に行って見てきてみい」と、今度は父が頼み込む風に美代に催促する。
「うち、知らん。さっき喧嘩しているときに、表に出よった」
美代まで母と一緒に弘のことなんか気にも留めていない様子。
自分の気の向かないことは、父の言いつけでも返事をしないのが、母と美代の日常である。
おまけに今日は、父が酒に酔っ払って無駄な金を使い果たして喧嘩をした後だ。
逆らうように無愛想なのは、分りきったことだ。
「おまえら、二人はどうして、弘をそんなに毛嫌いするんだ。見に行ってやったらどうだ」
母と美代のぐずぐずした様子に、桐久保さんの手前堪り兼ねたのだろう、父がとうとう怒りを堪え切れぬと言う風に、声を荒げて言う。
「そんなに気になるんやったら、あんた、見に行ったりなはれ。あんたの日頃の行いが悪いから、弘まで捻くれるんや。
母は自分のたち性質を棚に上げて、父に言い返す。
またぞろ、喧嘩が始まりそうだ。その様子に弘は悲しくなってきて、ふと、死んだ母のことを思い出した。
顔は思い出せないが、いまの母のようにいじわるではなかったように思う。
節穴を覗き母のきつい言葉を聞いていると、どうして父は母に負けるんだろう。亡くなった母には、父ももっと父らしくふるまっていたように思える。
そう思うと、弘はたまらなく淋しくなってきて父まで頼れなくなって来た。
あんなに楽しみにしていた自転車も父は買ってくれないで酒を飲んでしまったではないか。
母だけではない。父も弘のことを思っていないんだ。
「捜しに来ないんだったら、おら、帰ってやらねえぞ」。
夢中で家を飛び出して、家の中に入りにくくなったところへ、母の意地悪い言葉を聞くと、弘は本気にそう思えてきた。
その時
「前田のところへ行ってみよう。もう帰っとるじゃろう」
山の話を進めるのに、ぐずぐずしていられないと言う風に、桐久保さんが言った。
酒の癖の疲れと、喧嘩の後で、外へ出ることが億劫なのだろう。
父は、弘に前田さんを呼びにやらせようと考えているのだろう。
「旦那、前田が此処へ来るように弘を呼びにやらせまっさ」と答えて
「兄ちゃんを、ちよっと見て来てみ。表にいよるんやろ。呼んで来い」
と、美代に押し付けるように、きつく言う。
父の言いつける口調の強さと真剣な顔つきに美代は恐れを覚えたのだろうか、やっとたちあがったのをみると「帰ってやらねえぞ」と言うその心と、美代に見つかりたくないと言う心が、さらに重なって、弘は節穴から退くと家から出てきて、
「兄ちやーん」
と呼んでいる美代との声を後に、なんとなく学校のほうに足を向けて駆け出していった。
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「だから詰まらない喧嘩をするもんでない。子供が可愛そうじゃないか」
表に出た美代から、弘の姿が見えないことを聞いて桐久保さんは父を責める。
「どこに行ったんやろう」
桐久保さんの言葉に、心配気にぼそりと言い、母のほうを見る。が、対手にもならなそうな母のようすに、
「旦那はん。前田の所へ弘を見に行きがてら、行ってみまひょう」
弘に前田さんを呼びにやらせようと思っていたのだろう。その弘が見えなくって、父は思いあぐねた風にやっと腰を上げた。
喧嘩で道具の散らばった部屋を気にも留めないで
「しっかり番をたのむぜ」と、母に言うでもなく、美代になんとなく言葉をかけると、桐久保さんと、前田さんの所へ伐木のことの話をするために表にでた。 2006.11.12
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