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弘ちゃんは生きている 第二部 (33) 木村徳太郎作 未完
春分の日で、学校は休み。
昨夜の泊まりは池田校長だった。
校舎の増築で、定年退職が一年間のびていたが、校舎がすっかり出来上がる四月はいよいよ定年退職。
そうと知っているのであまり校務に力が入らない。
休みなのを幸い、九時まで寝ていたが日直の梶野先生が登校したので起きる。
顔を洗おうと井戸端に行ってポンプを繰る。さそい水がぬけたのか水が上がってこない。
「用務員さーん」
歯ブラシを使っていたので、口中の歯磨粉がとばないように、ふくみ声を出して呼ぶ。
さそい水を茶瓶に汲んで持って来た用務員さんは、ポンプに水を注ぎ込むがうまくいかない。
唇まで歯磨粉だらけの校長は、
「やくざなポンプじゃ」
と、不平を言い、用務員さんに手をかしてポンプを繰る。が、やはり水は上がらない。
「水を汲んできましょう」
口中歯磨粉で、話にくさをこらえてポンプの傷んだ箇所を調べている校長のために、気をつかった用務員さんがバケツをさげて県道に出ていった。
口中の歯磨粉で息苦しくなった校長は、茶瓶に残っていた水を口飲みして歯磨粉を口からはき出すと、ほとんど完成した増築校舎をながめて用務員さんを待っていた。
校門を出るとすぐに県道。県道にそって内牧の渓流。渓流の向こうは、海抜七二四米の嶽山がそびえている。
三千坪ばかりの敷地の東寄りに、北向きに校門があり校門をくぐると南北に細長く計九十坪の三教室がある。その向いの西側に、一教室、教員室、用務員室、宿直室。そして計六十坪の二教室の増築が終ると、東西の旧校舎を新校舎でつなぎ、雨天の日でも学童が廊下づたいに、どの校舎にでも行けることになる。
二教室の新校舎は、ほとんど完成で、あとは窓硝子をはめ廊下の屋根を葺き終わると工事はすっかり終わるのだ。完成すれば、一教室の二学級が一学級になり、複式が単式になる。学童数も今年は増えて全校生百五十名程になる。山村の学校としてよく充実してきたものだ。
用務員さんが水を持ってくるのを待ちながら、校長は感慨深げに校舎を見まわし終わると、中途半端な洗顔に気分が苛立ち校舎にひきかえて、用務員室を裏に出た運動場の西北にある井戸、それ一つに頼っている水の不便さに腹立たしいものを覚える。
校門の前の県道をはさんで、鮎も釣れる渓流があるのに学校の井戸はどうしたものか、赤茶化た鉄分の多い水しか湧かない。
運動場の向う、いつか弘がムササビを追って木から落ちて傷をした神社の参道で、県道から二百米程奥に手水舎がある。
宮山から竹樋を引き、いつも清水が溢れている。よく運動場を横切り学童が手水舎の湧き水を飲みに行く。
手水舎の湧き水が、学童に水の不便を感じさせなかったし大変役にたっていたが、これは学校の施設ではない。
校舎が増築と決まったとき、学童の全校掃除、昼食の湯茶、飲料水等、一日何Lかの水が必要であるかを計算し、新しく井戸を掘って動力の使用で水管施設の予算を何故父兄会に要求しなかったのだろうかと、口惜しく思い返される。
顔を洗おうとして水の不便さに気づいた。が、四月に退職の今更、とやかく言うのも不覚さをさらけ出すようなものだ。気づかなかったことにして退職する事だと校長は思う。
バケツに水を満たして用務員さんが帰って来た。
「顔を洗ったら、すぐに食事にされますか」洗面器に水を注ぎながら聞く。
「うん」と、答えて校長は
「さっき、教室を貸してくれと言って来よったのはなんじゃった」
寝ている朝早く、垣内の協議に使用させて欲しいと誰かが言って来た事を思い出した。
「休んでいやはりましたんで、逢わずに帰えりはりましたけど、学校が休みやから教室を二、三時間貸して欲しいと言うて来やはりましたんや」
「わしの聞い取るんのは、どんな事で寄りよるのかと言うことじゃ」
濡れた顔をふきながら校長が問いただす。
山村で区の集会所をもたない区民は、学校をよく集会に使った。
村の出来事は村の出身の用務員さんがよく知っている。
教室の使用は慣習になっていて気にもしないが、集る目的を校長は知っておきたい。
「はっきり知りまへんが、桧牧区と自明区が山の立ち木のことで争いよりますんで、その対策の協議とちがいまっか」
学校のことでなはい。興味なさそうに用務員さんが答える。が、校長は聞き逃せない。
「桧牧区と自明区のもめごとか」言葉に力を入れて念をおして、
「そりゃいかん」と、自分に言い聞かせでもするようにつぶやいた。
通学区域の自明区と桧牧区が争っては学童にまで対抗意識が生まれて拙い事になる。
三月末の卒業式。四月の入学式と新学期。校務がいっぱいある。その上に自明区と桧牧区の争いの影響がふりかかってきてはたまらぬ。
先日の弘の家出事件で、時間割を独断で変更した梶野先生の意向をまだ聞いていなかった事を思い出し、それを幸いに日直で出勤している梶野先生と、村の事を話し合ってみようとタオルを腰にぶらさげ、深呼吸を二つ三つ大きくすませると、朝食のため用務員室へ出向いた。
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