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弘ちゃんは生きている(39)
前田が桧を伐って売り払った。それが自明区の峰垣さんの個人持ちの立木だと言う事から、話がこじれ諍いが起こりそうで今も教室で桐久保さんたちがこの解決策を協議をしている。
子供たちもすでに村と村で諍いのくすぶりがあるのを知っている。わずかな戸数の山村のことだけに、大人の世界のいがみ合いが、すぐに子供の世界にも跳ね返って来る。奥田君の詩にそれが現れている。
この詩を桧牧区の父兄が読めば前田朝子だけの問題でなく、桧牧区の区民が全部に言われた事として、いっそう対抗意識を広げることになるだろう。学校の中にまで感情のしこりを持ち込まれては困る。
六年に進級する記念に謄写版の詩集をつくって、配布する計画で今日の日直を楽しみに登校してきた梶野先生だったが、奥田君の詩を読んでその気持が崩れてきた。素直な気持で評を書き込んでいたが、なにか引っ掛りができて後の詩を見る気がしなくなってしまった。
詩をつくらせてどの児童の胸にも、理想と誇りと協調の精神を植えつけるために企てたことが、なんだかあざけ笑われているように思えてしかたがない。おまけに、区民が梶野先生を「赤」だと言うふうに言っていると言う校長の言葉が、梶野先生の気持をいっそう憂鬱にした。
明後日の終了式の準備も全て終り、この詩集を印刷する仕事だけが残こっていたのだが作りあげて児童に配布する気持がなくなってきた。
鉛筆を置くと梶野先生は、湯呑みに番茶を注ぎあおるように飲み終わると立ち上がって卒業式場になる新校舎の方へ、準備の確認のためになんとなく足を向けたのである。
☆
梶野先生は、屋根をふくだけになっている新校舎の廊下を通って、旧校舎の一室で桧牧区の人たちが協議をしているのを、横目に見過ごして新校舎の方に曲がって行った。
新校舎は真ん中の仕切り板をはずすと、二教室が一教室になるように作られている。
卒業式と修了式が終わるとそれぞれ二組の教室に使われる。木の香りが、ぷうんと鼻に付く新しい教室に梶野先生は入った。
卒業式が終わり、春休みの間には新しい机が入るがまだ入っていない教室内は、なにもなくガランとして広々としている。陽の光筋が、のびのびと入り込んでいるだけである。
二教室を仕切る真中に立った梶野先生は、来賓席と職員席、父兄席と卒業生席の椅子を明日の授業が終わると、全校の生徒に運ばせれば足りるだろうと心にうなずく。飾りの花は伊藤先生が活ける。卒業生の賞状と賞品の手配は、担任の平田先生が完了している。
準備に手落ちはないかと卒業式の順序を頭に描き念を入れた。準備は一応大丈夫と確かめて、何となく窓の外に目を向けた。
二人の男子学童が自転車を押して運動場に入ってくる姿が見えた。だんだんはっきり、隆と弘が自転車を押して運動場に来るのが見えてきた。
隆と弘は梶野先生には、気が付かないようである。どちらも子供乗りの新しい自転車を押している。運動場の真ん中まで来ると二人は自転車にまたがって乗る練習を始めた。
暫く様子をみていた梶野先生は教室を出て運動場にむかい、二人に近づいていった。
隆と弘が梶野先生に気づいて練習をやめ自転車をその場に停め立てて、
「今日は」と大きな声で素直に挨拶をする。
梶野先生は不審に思いながら
「二人とも、その自転車はどうしたんだい?買ってもらったのかい?」
と、挨拶を目で受けて訊ねた。
「うん」
と、隆も弘もにやりと微笑んで顔を見合わせ後を答えない。
「弘君!自転車を買ってもらえないでがっかりしていたけれど、やっぱりお父さん自転車を買ってくれたんだね。良かったね。」
弘の家出事件で、弘の父親が行いを反省して金を工面して弘に自転車を買ってやったのだろうと梶野先生は思った。それにしては、隆まで新しい自転車に乗っている。これはいったいどうした事か。
弘の父親が自転車を買えるなら、山持ちで金持ちの桐久保さんなら勿論の事、子供自転車の一台ぐらいはすぐ買えるだろうが、山間部の小さい村で、子供にわざわざ自転車を買って与えるのは、贅沢な事と考えられ例のないことである。
弘が買ってもらったので、隆も無理を言って買ってもらったのだろうか。
「弘君が買ってもらったので、隆君もお父さんにせがんで無理を言って買ってもらったの?」
梶野先生はそんなふうに思って、隆に向って笑顔でたずねてみた。
隆はにこにこしながら
「僕の知らない間に自転車を買ってくれていたんです」と、隆も買ってもらった理由が自分でもハッキリしないと言うような答えかたをした。
梶野先生の表情が、得心がいかないと言っているふうに見えたのか横から弘が、
「桐久保のおっちゃんが、僕に買ってくれくれたんや。僕だけでなく、隆君の分も買ってきたんや」。
と、弾んだ声で答えた。
自転車を買ってもらえなかったことも含めて、家を飛び出した弘が山の中で桐久保さんに見つかった。その時に弘の悲しみを知った桐久保さんが、弘が父親と自転車を買ってもらう約束をしていたのを知って、桐久保さんが代わって自転車を買ってやる約束を弘として、その約束通り買って与えたのである。
そして、桐久保さんは弘だけでなく隆にも買って来たのだ。
「ほう?ホント!」
桐久保さんが、弘の父親に代わって、弘に自転車を買って与えるという約束をした事を、梶野先生は知らない。梶野先生は桐久保さんが自分の子供の隆に自転車を買って来た事には頷けるが、どうして弘にまで買ってきたのか得心がいかない。が、現実にどちらも新しい自転車を持って運動場に来ている。頷けない気持の梶野先生だが、二人のために嬉しい気持になってきた。まして、いつもいじけた気の弱さを顔に表している弘が今日はそんな様子もなく生き生きと顔が輝やいている。これで母親とのしこりも幾分は紛れるだろう。誰に買ってもらったかと詳しく詮索する必要もない。弘の笑顔を見ているだけで梶野先生は自分まで救われた気持になった。
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