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オカリナの調べ花野をかけてゆく
♪ 花野照らして
京都駅ビルの空中通路に、「日本の秋・原風景」と冠して、水をテーマにする『嵯峨御流』の活花が展示されていた。
白秋・金風・錦秋・山装・山燃・花野・・・・。それぞれに表現された日本の秋は、私の原風景と重なり、懐・愁・童・想・奏などが、波のように押し寄せてはかえす。
そして、次々沸々と湧きおこるそれらの波から少し目を転じてみると、列車と人々が、これもまた大きな波のように、駅舎をうねっている。
私は、この空中通路に立つのが大好きだ。
活花展示の「日本の秋・原風景」のように、真赤に燃える紅葉の里から?とうとうと流れ落ち、紅葉を散らす滝の里から?それとももうすぐ雪が舞い降りる里から?いや、人々が落葉のように溢れた大都会の里から?織る錦のように人々が、駅舎を交差し動いているのだ。慌しい人の流れ、遠地からホームに滑り込む列車、遠くに出ていく列車・・・。これらを私はあきもせずに眺める。目的も無くそんな雑踏を眺め、そのあと、薫り高いコーヒタイムをとり、旅人になったつもりになる。これが大好きで、ときどき空中通路にたち、私のささやかな贅沢な時を味わうのだ。
その日は、そんな贅沢なうえに、オマケまでがついてきた。
通路に展示されている嵯峨御流の投げ入れと、オカリナ奏者「宗次郎」とのコラボレーションに出会ったのだ。
その日の天気予報は「氷雨」となっていた。しかし予報を裏切り、京都の底冷えを裏切り、襟足を流す風がとても心地よい。小春をそのまま夜まで持ち込んだ暖かさだった。そして、満月でもあった。
宗次郎の澄みきったオカリナの音色が、唱歌『赤とんぼ』を響かせ、舞台では、赤い小葉のついた大枝が大瓶に投げ入れられていく。赤い葉は赤とんぼのように舞うのだ。心憎い演出だ。「日本の秋・原風景」が、惜しみなく耳から目から心に響き入ってくる。
そして、むき出しの鉄骨屋根の間からは、十五夜の月が見えるのだった。
駅ビルが出来た当初は、これが異様に思えたものだが、その日は素晴らしい異空間を照らしだすもののように思えた。駅ビルの大階段では、常時イベントが行なわれているが、大階段に腰掛け座り込み、イベントに参加するのはジーパン姿にポップコーン片手の若者だけのものと思っていた。しかしそれは違ったのだ。そこは、異次元の素晴らしい異空間に照らしだされ、世代を超えてたくさんの人々が、共有の時を過ごす楽しさ、素晴らしさに溢れていた。
そして、その感激の面持ちにひたっているとき、ふと視線を感じた。
視線の先を見ると、建物と建物を切り裂いたわずかな隙間から、京都タワーが覗いているのだ。私はその京都タワーと目があったのだ。タワーが灯かりを滲ませて燦然とたっていた。
昼のタワーとは違う、始めて見る幻想的なタワーがあった。
舞台では、オカリナの音が響き、活花の赤とんぼが乱れ飛び、鉄骨の隙間から月と空が加わり、燦然と孤高にたつ京都タワーがあった。すっかり私は感動の波に漂ってしまった。
その感動が、私を、同じ場を共有し駅ビルの階段に居並ぶ人々を花野のように思わせ、階段を埋め尽くす人々が、野に咲き乱れる花々の佇まいとなって、彩(いろ)取りどりに広がっていくのだった。そんな錯覚を覚えた。そして思ったのだ。
階段に腰掛ける人たちだけが、花野ではない。それはまた、ホームに夜昼行き交う雑踏の人々の流れも、花野ではないのだろうか・・・。
千種(ちぐさ)が、一つ一つ健気に懸命に、野をいっぱいに広がり咲く花野。大階段に腰掛け広がる人々、雑踏を交差している人々が、そんな花野と重なった。
花野は、もうすぐ真っ赤な秋に埋め尽くされ、それが終れば雪が来る。そして芽吹き萌えるときがくる。階段に佇む人々も、駅舎に交差する人々にも、残照があり、冬を抱え、また春を迎える。それらを背負って人々はみな生きている。これは花野と同じではないか。
空に一番近く、大階段の最上階の上に満月が昇る。煌々と照らし出される月の光に、私はまたも思ってしまった。
あの満月に、かぐや姫は月に行ってしまったというが、それは遁世をしたのではなく、この美しい花野を空から照らしだすためだったのではないか・・・と。
「ニッポンノケシキ」を照らしていた。「ハナノ」を照らしていた。私も「ハナノ」の一つの花になった。
そんな、とても贅沢なオマケのついてきたある日の、満月のことだった。
木村徳太郎の未発表の詩は別枠木村徳太郎(現在『伝書バト物語掲載』)に移動しました。ご愛読下さい。
2007.11.15
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