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白梅 咲きて
近年の暖冬は、二月中旬にもなると梅の花を散らしていた。今冬は暖冬予報を裏切り、雪と寒さが大きかった。
根雪の解けた彼岸(春分)の今に、梅は満開となり白い花吹雪を空に舞い揚げている。
十二年前も同じように寒かった。彼岸に咲く梅だった。花びらかと思うような風花が、ときどき舞っていた。
彼岸明けの、3月23日の午前7時に、父は此岸から彼岸へと旅立っていったのだ。
父の事を兄(あに)さんと呼ぶ中川光子小母さんが、病気見舞いに遠方からかけつけたときには、旅立った後だった。小母さんは「服を着替えて(喪服に)もう一度出直してくる」と、父の好物の羊羹を置いて帰っていった。
昼には電話が鳴った。次男からだった。「合格!」
第一志望大学に失敗した次男を、父は病の中でとても気使っていた。第二志望合格を聞くことなく旅立った。もう少し、もう少し、旅立ちを遅らせることが出来たならば・・・・・・。
私の頬を涙が伝っていく。その涙は、前日の私の嘘にもつながっていた。
私は父に嘘をついた。父の意識は断片的になっていた。枕元に座った私に「藍子か?」と聞く。「はい。そうです。藍子です」と。(姉はいつも正しい言葉使いだった。私なら「うん。カーコや」というのだが)
「和子は、どこへいった?」
「お父さん、心配はいりません。和子のことなら、私が見守りますから」
私は姉になり会話をした。末期癌の痛みをこらえて父は頷き、破顔になった。安堵の笑みを浮かべていた。
父は姉に会いたかったのだ。ずうと、ずうと、会いたかったのだ。
姉の藍子は、二三歳で亡くなっている。私はいつも姉の後ろを追い、守ってもらうばかりの妹だった。
父は、二つのことを口癖にしていた。
「死んだら藍子の骨を一緒に自分の墓に入れて欲しい」「葬儀は橿原神宮へ頼んで欲しい」と。
父は姉の遺骨を納めることなく33年間、神棚に祭っていた。手元に置きいつも手を合わせていた。
藍子五歳、私が8ヶ月のときに母はいなくなった。私は何も知らない。ただ、かぼそく泣き、かぼそく笑うだけの赤児だった。私の前をいつも毅然と歩いている姉だったが、寂しいという言葉を一度も聞いたことはない。寂しさは、物静かな笑(えみ)に深く沈められていたのだろう。
姉が亡くなったとき、私は父を責めた。父の生き方が悪いから姉は死んだのだと・・・・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/hanahitohira06/7492221.html
光子小母さんが「兄さんは、『あのとき迎えに行ったら良かったのに、行かんだのが悪かったんや。藍子や和子には辛い思いをさせてしもぅた』そう話していたよ」と、後に聞かせてくれた。
母は幼児の姉と乳児の私をおいて、家を出たのだ。父が戦地から戻ったときには、古くからの商い家業も、四天王寺の古い屋敷も、三月十三日の大阪大空襲で「無」になっていた。迎えたのは祖母と、幼い私たち姉妹だけだった。それでもお互いの命があったのは、幸運な方だったのだろう。そんな時代だった。
復員後、父は橿原神宮に奉職した。そして心の故郷が、橿原神宮となったのだろう。
苦労を重ね私たちを育て、そして昭和38年には、姉をあっけなく亡くしてしまったのだ。
遺骨を手元に持っていたとして、誰がそれを責めることができよう。
探し求めた生母が私にいう。「藍子ちゃんの墓はどこにあるの」。
「神棚」と答える私に、「そんな浮かばれんようなことして」と非難した。
「あんたにそんなことをいう権利はない。育てることをしなかった貴方にいう権利はない」私は心の中で、トグロを巻き泣いていた。
父と姉が一緒に墓に入ったとき、私は墓に生母を案内した。私のせめてもの親孝行だった。
父のもう一つの口癖、「葬儀は橿原神宮の神官に来てもらって」
これを叶えてやることは出来なかった。「遠方で不可能だ」と、後添えが地元の神主にすぐさま手配をしてしまった。私の心にトグロが渦巻いた。トグロを巻いて私は泣いた。
彼岸に、梅の花が舞う。
「許してやれ。すべてを許せ、許せ、許せ」と、花びらは舞う。彼岸から此岸へ舞うのか、此岸から彼岸に舞い揚るのか。
花吹雪が舞う。父と姉が舞う。
あのときのような、白い白い梅の花吹雪が青空へ舞っていた。
梅咲きて主(あるじ)なき家錠をさし
http://blogs.yahoo.co.jp/hanahitohira06/4095393.html
2008.03.22
風のみち 木村徳太郎
此處は四つ辻
風のみち。
光に焼けた かんかん帽子
かんからかんと ころげます。
おかしい おかしい
みんなが見てた。
風にかけあし かんかん帽子
橋の上から ジャンプする。
此處は四つ辻
風のみち。
木村徳太郎の作品(童話、論評、随想)を別頁「木村徳太郎=現在『伝書バト物語』『児童文学者の目より見たる』」に掲載しています。ご愛読下さい。
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