来た道行く道通りゃんせ/風にのって花ひとひら

のんびりしたブログですがよろしくお願いいたします。

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花ふぶき

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 まぼろし    
 
 あまりにも速い。私の中にまだ落花の余韻が残っているというのに。
近くの公園では、シャクナゲが咲きほころび、コブシの街路樹は新緑に萌えまばゆい。一筋向こうの街路は、紅白のハナミズキが彩を競っている。私は時にしてこの速さが息苦しい。加齢と共に、季節がどんどん速く走り抜けていき、追いかけられているように感じる。
 私の頭の中では初夏はまだ遠く、落花が、秒速50センチでいまだ舞っているというのに・・・・・・。
 桜の落花速度は、秒速50センチで、蛍の飛ぶはやさ、雪の舞う速さと同じで、日本人の感性に最も心地よい優しさだと言う。また、桜前線は、一日約20キロのスピードで北上し日本列島をかけぬける。これは、1秒間に約23センチの速さで進む計算だ。これを私に置き換えてみると、私の靴のサイズ近く(22,5)で桜は近づき、私の二歩近く(一幅25センチほど)で、散るということだろうか。私はこの速度で、毎日急がず慌てず歩を運んでいるのだ。

 そして、これとは別に、心の中で私だけの速度で咲く花がある。その花は、まぼろしかうつつか分からない。ただ、甘く切ない匂いで咲いていく。その花々は、年を追うごとに一つ二つと数を増し、ほろほろと咲き、好きな時に好きな速さで心に咲いていく。しかし、それは桜吹雪が、霞か雲か定かではないように、「あれは本当だったのか」そんな思いで咲くのだ。

 小学一年生を迎え、校庭に全校生が整列していた。校長先生が木台の上で、手を後ろに組み講話をしている。一段高い石垣の上にある神社の境内から、大きな山桜が、新入生を歓迎するように児童たちの頭上を桜吹雪で染めていた。しっきりなしに花びらが舞っていた。整列する前の子の頭に背中に、花びらが乗る。私はそれを取り、自分の胸につける。 桜の花の匂いが私を包んだ。空を見上げると、それは優しいピンク色の春の空だった。まだ、速度などというものを知らない春の校庭だった。校長先生の声が遠いところから聞こえてくる桜吹雪の中にいた。
 ぼーとしている私に、ゲラゲラ笑う声が聞こえてくる。笑い声に気が付いた。
 運動場に隣接する神社の参道を指さして、みんなが笑っている。先生も笑っている。そして、その指差しが、私に向けられた。私は三年生だったが、二年生の時に奈良八木町の商店街から、下井足の水分神社に引越し、そしてこの桧牧の小学校に転校してきていた。私も新入生だった。
みんながゲラゲラと参道と私を指差して笑う。そして、「乞食や。乞食や」とはやし立てる。「おまえとこ、乞食と知り合いか」と笑うのだ。参道を汚い汚いボロをまとった男が歩いている。それは昨夜神社に泊まった男だ。私の住いは、桜吹雪を起しているその神社であった。
「乞食や乞食や」とはやし立てる声に、花びらまでが合わせるように踊っていた。
男には、そんな声は聞こえないのだろう。私たちに手を振って遠ざかって行った。
私に「乞食や乞食や」とはやしたてる声だけが舞い残こっていた。
 終了の鐘を小使い(用務員)さんが、「カラン、カラン」と振って歩く。花吹雪がやはり「カランカラン」と舞う。私はそれにぶち当たるように走って帰り、「なんで、乞食なんか家に泊めたん。みんなに笑われた」と父にくってかかった。
普段は物静かで穏かな父が、激昂したように言った。
「何を言ってる。あれは詩人のサトウハチロウだ。遊びに来てくれたんや」と言ったのだ。
そして、そんな事がときどきあった。そのあとにいつも父は、「東京へ行きたい」と祖母に言うのだった。私には、サトウハチロウも東京も分からなかった。ただ父が私たちを置いて遠くへ行くのではないかと、それが心配だった。
 二、三日は、祖母に叱られ考え込んでいるような父だったが、すぐにまた優しい父にもどり、馬のように四つん這いになって、背中に乗せて遊んでくれ、肩車をして木の葉を採るのを手伝ってくれた。
 私は大きくなりサトウハチロウが大詩人だと知った。そしてそんなえらい詩人を父がしっているわけがない、あれはまぼろしだったのだと思っている。
しかし、年代から行けば、サトウハチロウと父に、接点があっても可笑しくはない。父は北原白秋に師事していた。「メダカの学校」の茶木滋さんには、抱っこをしてもらったことがある。http://blogs.yahoo.co.jp/hanahitohira06/6329267.html
あれは、ほんとうにサトウハチロウだったのかもしれない。
 ときどき、まぼろしの花が静かに咲く。そして、子供のころには、優しさしか気が付かなかった父の、少し寂しそうな笑顔が浮かぶのだ。父は東京へ行きたかったのだろうか。
分からない。
すべてまぼろしの花吹雪だ。
 どんな花も「散り」「こぼれ」「落ち」「崩れ」「萎れる」。
しかし、まぼろしの花にはそれがない。いつも私の速度で咲いている。

    
      花吹雪かすみもくもも掬いとり         


2004.04.24



 早春      木村徳太郎      
 
          青空 路の

          ビルの壁

          並木つゞいて

          遠い路。


          こぽこぽ一人

          歩いてる

          チユゥインガムを

          嚙みながら。

          なんだか 唄を

          鼻のなか

          こそばく 空に

          向けてゐる



木村徳太郎の作品(童話、論評、随想)を別頁「木村徳太郎=現在『伝書バト物語』」に掲載しています。ご愛読下さい。 

     

木村徳太郎

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      ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 
ぐらつく童話作家
「お話の木」昭和三十六年七月     木村徳太郎
<童話作家は、児童の生活を知らなさ過ぎるか>  
  小さい子供に__となりの部屋にお茶碗があって、障子をあけて、あやまってお茶碗を五つ割った時と、お父さんお母さんの留守の時、戸棚からお菓子を内緒で取ろうと思って、不用意にお茶碗を落として二つ割る。このお茶碗を割った二つの行為のうち、どちらの行為のほうがいけないでしょう__とたずねてごらんなさい。となりの部屋のお茶碗をあやまちであったにしろ、五つ割ったほうが、悪いことだと、きっと答えるでしょう。
 私たちは、戸棚の中のお茶碗を落として割ったのが、数が少なく二つであったにしろ、このほうが人間として生きて行く場合、となりの部屋のお茶碗をあやまって五つ割ったよりもずっと悪い行為としてうけとるでしょう。それが、ちいさい子供にはわかりません。過ちであったにしろ、五つ割ったほうが、ずっと罪が重いように感じ思っているのです。
 幼稚な頭では、割れるまでの行為の善悪を判断することは出来ません。五つ割ったことは、二つ割ったことよりも、大きな罪悪感となり、数のうえで、善悪の判断をしてしまうのです。
 私たちの書く童話は、この盲点をつく童話であってほしいと思います。五つ割ったことは、二つ割ったことよりも、悪いことであってはたまりません。数が少ないにしろ、二つ割ったほうがずと悪い行いであるということを知らせるべき童話をかゝねばならないのです。 
 こんな事をしゃべったら、「あほな事をいうな、小さい子供じゃあるまいし、そんな事わかりきった事じゃ」と、おっしゃるかも知れません。が、よくよく考えてみて下さい。
 今日の世の中は、大人でさえ、あやまって五つ割ったことよりも、例え悪意にしろ、二つ割ったほうが、結果的には数が少なくて、このほうが罪が軽いと判断している輩が、いるのではありませんか。そうとしか、うけとれない行為に、日常なれっこになっているのではありませんか。心より物、心の美しさよりも、物の豊富を願う、馬鹿げた思想なり、唯物的にものを判断する合理主義かどうか知りませんが、これは人間社会をより醜くするためとしか、うけとれない風潮です。
 児童文学に苦悩することに衿を感ずる我々は、時代遅れかもしれませんが、幼い子どもに、心の美しさに目覚める事を叫びつづけ、それが当世風にみてあやまっているかどうか私にはわからなくっても、私は、二つ割っただけにしろ、五つ割った行為よりも、それが悪いことだという考えを知らせる、童話を書いていきたいと思っています。
 この一つの事例で、世の中のことを思ってもみて下さい。子供の世界だけではありません。子供や児童文学に一番関連のある学校の先生でさえ、教職組合をつくって、月給賃上げの闘争をやる。こんな馬鹿げた阿呆なことがあるものですか。先生とはそんなものじゃないと思います。=生活の保証をされないで、何が出来るか=という、あまのじゃく的な考え方の教師、こんな教師に、児童の魂を純化させる児童文学の仕事をまかせておけるものじゃない。新しい生き方かどうかは知りませんが、そんなものではない。それにも関わらず、児童文学者自体の間でも「童話作家は、児童の生活を知らなさ過ぎる」と言う、ちゃちな先生のご批判を気にして、それに頭をさげていく馬鹿げた卑怯者がいるのです。そんなことでは、良い童話が生まれるはずもありません。我々児童文学者は、そのような教師と、まず手を切ることです。
 筆が走ってしまった。悪気じゃない。そんな先生ばかりでもないことは、言い添えておきますが。
 五つ割ったことよりも、二つ割ったほうが合理的だと、理屈ばかり考えている教師が非常に多いということを言いたかったのです。
 それだけじゃない。どんな理由にしろ、結果的にみて、五つ割ったよりも、二つ割ったほうが、罪が軽いと判断する大人たちのなんと多いことか。
街を歩いてもみたまえ、オフィス通いの女性が、務めに出て働く、仕事をするのでありながら、耳に飾りをつけてござる。働くということと耳飾をつけることと、どのような関連があるのだろう。それはまた、「生活を楽しく明るく」なんて言って、それを当世風にけしかけている、馬鹿げた大人のいる事だ。
 若い連中が、強盗や人殺しを平気でやる。彼らは働く意志の尊さよりも、働いて得る賃金ばかりを願って、手段方法を選ばない。結果的に見て、大金がとれれば、そのほうが合理的なのだ。
 原爆、水爆にしろそうだ。二つ割ったことは五つ割ったことよりも数が少なくて、罪が軽いという、唯物的な合理主義が、つくらしめるのだ。人生なんてそんなものじゃない。私の考えはそうじゃない。二つ割ったことよりも、あやまって五つ割ったことのほうが、全て正しいとは言はないが、救われるように思うのだ。救われるものでありたい。この救われると思うものを、われわれは童話に書いていきたいのだ。
 そんな意味で、近頃の児童文学界の、どんな理由があるにせよ、五つ割ったことは、二つ割ったことよりも、結果的に罪が重いと言うような、理屈ばかりを探してきて、童話を書いているような現状をみると、私は嘆かわれてならない。幼児の魂の技師であるべき童話作家が、そのわかりきったことさえ、今の世間の風潮に流されてぐらついているのだ。そんなことでは、いい童話が生まれてくるはずがない。

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