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☆ ぐらつく童話作家 ☆
「お話の木」昭和三十六年七月 木村徳太郎
<童話作家は、児童の生活を知らなさ過ぎるか>
小さい子供に__となりの部屋にお茶碗があって、障子をあけて、あやまってお茶碗を五つ割った時と、お父さんお母さんの留守の時、戸棚からお菓子を内緒で取ろうと思って、不用意にお茶碗を落として二つ割る。このお茶碗を割った二つの行為のうち、どちらの行為のほうがいけないでしょう__とたずねてごらんなさい。となりの部屋のお茶碗をあやまちであったにしろ、五つ割ったほうが、悪いことだと、きっと答えるでしょう。
私たちは、戸棚の中のお茶碗を落として割ったのが、数が少なく二つであったにしろ、このほうが人間として生きて行く場合、となりの部屋のお茶碗をあやまって五つ割ったよりもずっと悪い行為としてうけとるでしょう。それが、ちいさい子供にはわかりません。過ちであったにしろ、五つ割ったほうが、ずっと罪が重いように感じ思っているのです。
幼稚な頭では、割れるまでの行為の善悪を判断することは出来ません。五つ割ったことは、二つ割ったことよりも、大きな罪悪感となり、数のうえで、善悪の判断をしてしまうのです。
私たちの書く童話は、この盲点をつく童話であってほしいと思います。五つ割ったことは、二つ割ったことよりも、悪いことであってはたまりません。数が少ないにしろ、二つ割ったほうがずと悪い行いであるということを知らせるべき童話をかゝねばならないのです。
こんな事をしゃべったら、「あほな事をいうな、小さい子供じゃあるまいし、そんな事わかりきった事じゃ」と、おっしゃるかも知れません。が、よくよく考えてみて下さい。
今日の世の中は、大人でさえ、あやまって五つ割ったことよりも、例え悪意にしろ、二つ割ったほうが、結果的には数が少なくて、このほうが罪が軽いと判断している輩が、いるのではありませんか。そうとしか、うけとれない行為に、日常なれっこになっているのではありませんか。心より物、心の美しさよりも、物の豊富を願う、馬鹿げた思想なり、唯物的にものを判断する合理主義かどうか知りませんが、これは人間社会をより醜くするためとしか、うけとれない風潮です。
児童文学に苦悩することに衿を感ずる我々は、時代遅れかもしれませんが、幼い子どもに、心の美しさに目覚める事を叫びつづけ、それが当世風にみてあやまっているかどうか私にはわからなくっても、私は、二つ割っただけにしろ、五つ割った行為よりも、それが悪いことだという考えを知らせる、童話を書いていきたいと思っています。
この一つの事例で、世の中のことを思ってもみて下さい。子供の世界だけではありません。子供や児童文学に一番関連のある学校の先生でさえ、教職組合をつくって、月給賃上げの闘争をやる。こんな馬鹿げた阿呆なことがあるものですか。先生とはそんなものじゃないと思います。=生活の保証をされないで、何が出来るか=という、あまのじゃく的な考え方の教師、こんな教師に、児童の魂を純化させる児童文学の仕事をまかせておけるものじゃない。新しい生き方かどうかは知りませんが、そんなものではない。それにも関わらず、児童文学者自体の間でも「童話作家は、児童の生活を知らなさ過ぎる」と言う、ちゃちな先生のご批判を気にして、それに頭をさげていく馬鹿げた卑怯者がいるのです。そんなことでは、良い童話が生まれるはずもありません。我々児童文学者は、そのような教師と、まず手を切ることです。
筆が走ってしまった。悪気じゃない。そんな先生ばかりでもないことは、言い添えておきますが。
五つ割ったことよりも、二つ割ったほうが合理的だと、理屈ばかり考えている教師が非常に多いということを言いたかったのです。
それだけじゃない。どんな理由にしろ、結果的にみて、五つ割ったよりも、二つ割ったほうが、罪が軽いと判断する大人たちのなんと多いことか。
街を歩いてもみたまえ、オフィス通いの女性が、務めに出て働く、仕事をするのでありながら、耳に飾りをつけてござる。働くということと耳飾をつけることと、どのような関連があるのだろう。それはまた、「生活を楽しく明るく」なんて言って、それを当世風にけしかけている、馬鹿げた大人のいる事だ。
若い連中が、強盗や人殺しを平気でやる。彼らは働く意志の尊さよりも、働いて得る賃金ばかりを願って、手段方法を選ばない。結果的に見て、大金がとれれば、そのほうが合理的なのだ。
原爆、水爆にしろそうだ。二つ割ったことは五つ割ったことよりも数が少なくて、罪が軽いという、唯物的な合理主義が、つくらしめるのだ。人生なんてそんなものじゃない。私の考えはそうじゃない。二つ割ったことよりも、あやまって五つ割ったことのほうが、全て正しいとは言はないが、救われるように思うのだ。救われるものでありたい。この救われると思うものを、われわれは童話に書いていきたいのだ。
そんな意味で、近頃の児童文学界の、どんな理由があるにせよ、五つ割ったことは、二つ割ったことよりも、結果的に罪が重いと言うような、理屈ばかりを探してきて、童話を書いているような現状をみると、私は嘆かわれてならない。幼児の魂の技師であるべき童話作家が、そのわかりきったことさえ、今の世間の風潮に流されてぐらついているのだ。そんなことでは、いい童話が生まれてくるはずがない。
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