|
虫たち の ララバイ
彼岸の入りがくる。私は森羅万象に手をあわせる。
春分は太陽黄経0度。啓蟄は345度で冬眠していた虫たちが、春暖に穴から出始める日でもある。今年はこの啓蟄の日までに三回も夏日があり、二月にして私を半袖に着替えさせ、数日後には毛布にくるまれて雪を眺めると言う戸惑いに悲しみも持たらした。
隣家から「日陰になる、落ち葉が困る」と辛夷の大木を伐ることを要請され応じていた。http://blogs.yahoo.co.jp/hanahitohira06/41229555.html伐採した幹をゴミとして処分するのは、忍びがたく裏庭に放置していた。そこに甲虫(カブトムシ)が卵を産んでいたのだ。大きな乳白色の三つの塊を見つけ、私は見つけるなりサンダルの片方を飛ばし、大急いで孫に電話をした。「婆ちゃんの家、古くて汚いし、木が茂ってるからだよ」と、まるで甲虫博士のように、冷静かつ得意気に孫は言う。デパートで幼虫を購入して育てた事があるらしい。「今度来たときに見せてあげる」と約束をし、大事な宝物を預かった気分になっていた。(孫が来たときには成虫になって飛び去っているかもしれないが、我庭に自然の息づかいを見つけたことが嬉しかったのだ)
三十数年前にこの地に引っ越してきたときは、一面ススキ原で、前の空き地を雉が悠々と歩いていた。狐や狸が遊びにきた。蛇もいた。蛇は二階の屋根にまで登ってきたし、雨戸を開ける時、重いと感じると戸袋の溝に入っていた。フエンスに撒きついている蛇に気が付かず、蛇を握った二男はこの世の終わりかと言うような声を上げていた。蛇だけではない。マムシもいた。退院してきて見あげる、久しぶりの我家の庇に、マムシが棒に巻かれ差し込んであった。「お父さんが捕まえはったんや。ものすごう格好良かった」と言うが、私はまたしても入院してしまった。
蛇は鶏の卵も飲み込んだ。夕方になるとヤモリが台所の窓に貼りつく。天井にいつまでも黒いゴミがついていると思ったら蝙蝠の子供だったし、鼬が走り鼠も走った。百足退治の薬が自治会で頒布された。(こんなことを書くと、まるで孫ではないが妖怪の住居のように思われるが、県道を狸の親子が悠然と歩いている時代だった)
子供たちは、トカゲの徒競走を部屋でやり、団子虫を集め瓶に入れ、ヤゴをバケツの土に埋めこみ、また漆黒の闇の中を縦一列に並び、手探りだけで昼に砂糖水を塗っておいたクヌギに忍び寄り、甲虫を捕まえることもした。蝉や甲虫が電燈に誘われ部屋に飛びこんで来た。雀もガラス窓に当るし、鶯も百舌鳥も梟も不如帰も郭公もいた。土を掘ればミミズが婉曲に挨拶をした。どれもこれも生きものどうしで、戦いでもあったが仲間のようでもあった。
戸数が増えるにつれ、狐退治の罠を仕掛ける人が現れた。捕まえてどうするのと聞くと「襟巻きにする」と言う。私は腹だたしかった。しかしそんな腹立たしさに関わっておれないほど、開拓化は進み転居してきた時は、17軒目であったのが今や200軒近い自治会になり、ニュータウン全体は3000戸以上だ。
あの生き物の、「同志たち」は何処へ行ってしまったのだろう。あの時と変らずにいるのはゴキブリだけだ。
二月中旬の二六℃と言う夏日に、甲虫の幼虫の1匹が這い出てきた。朽ちた辛夷の木から僅か10センチほど離れた所で、無残に翌朝は硬くなっていた。硬くなった乳白色が、陽を照り返し透明の輪が出来ていた。
母の気持で幼虫のいる朽木を眺める。サンシュウの金粒のような陽光が「手を出すな。目は離すな」とささやく。酷だ。手を出すにも私には出し方が分からない。眺めているだけはなんと辛いことだろう。
陽光に輝く花と、虫の命を思う。生き物は何万年もの間に変化する環境に合わせ、進化しながら今に生き延びていると言う。ならば甲虫も、いづれはこの気候の変化に応じられるように遺伝子は組替えられるかもしれない。が、現在、目の前の甲虫の幼虫は動かない。
甲虫は天気予報の「明日は暖かいでしょう」につられたように這い出し、三匹とも硬くなっていった。
甲虫に言いたい「もう少し外界を読み取ることをしておくれ。危機意識をもっておくれ。まやかしに騙されるな」(なんだか人さまに言っているようでもあるが……。人間は環境や時代の変化とともに、いままでに知りえなかったような心の虫を飼い始め、それに対応していくようにも思える……)
孫のあの「うわぉう! 婆ちゃんやったね」と喜んだ声は、デパートで甲虫をねだった時の声とは違うと思う。孫の喜びようが耳に残る。私はまだ孫に甲虫の幼虫が死んだことを伝えられずにいる。
虫たちのララバイが聞こえる。
森羅万象、手を合わせるすべしかもたない彼岸である。
さまざまを雲に映して彼岸くる
|