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謹呈本の栞
母とは 感謝の花
やっと出来た。昨年六月から取り掛かったのだから一年近くになる。平成二十一年三月の父の命日に合わせていたから、二ヶ月もの遅れとなった。
自費出版本「ジューンドロップ」のことである
紆余曲折のうえ生れ出た。絵本「星たちは花になりました」(新風舎発行)を出したことがある。この出版社は既にない。「ジューンドロップ」を進めているとき、後を引き受ける出版社や印刷屋から何度も案内がきた。いろいろと出版に関して勉強をさせて貰った気がする。プロとして仕事もまともにこなせないのに「本を出しませんか。お安くしておきますよ」と、どこかの名簿を入所して言ってくる印刷屋。出版社は「流通にのせます。売れます」と、それを繰り返す。すべてお金に置いている。
私は「流通にのせ、ひと稼ぎ(そんなことはありえない)」するつもりもないし、印刷ミスばかりの本を出すつもりもない。
父、木村徳太郎の遺品を受けとったとき、若き父が出版しようと試みたが出来なかった(経済的?力不足?)と思える詩集がたくさん出てきた。
私は思った。父との合同で本を出そうと。
そして行動にうつした。文章を書いた事がない。まず文章教室に入った。
文章を書く基本知識、「文を綴る」(心を綴る)と言うことを少しずつ学んでいった。そして誠実な印刷屋も見つかった。家族は「アナタしかできないことだ。頑張れ」と言ってくれた。パートではあるが仕事をしている。ヘソクリを注ぎ込むことにした。ブログを始め、父の作品と私の絵や文を投稿して行った。
そして、ブログから生まれた(支えてもらった)ような本が出来あがったのだ。
楽しい時間だった。父と話しているようだった。いつも応援して下さる人もいた。
もちろん嫌なこともあった。私の意図することを理解してもらう労力に、挫折しそうにもなった。
まず赤茶けた原稿用紙や、紙こよりで綴じられている冊子を解き、それらをコピーするところから始まった。父の手書き原稿をコピーして印刷屋に渡す。しかし、入力するオペレターが、字を判読できないのだ。私にも分からない字が出てくる。当用漢字に直すことも考えたが譲らないことにした。原文のまま、読者が読めなくとも原文のままで出そうと思った。(読んでもらえないのでは意味がない。しかし、それで良いのだと言う私の驕りもあったのかもしれない)父の字は判りにくい。そこへ字は薄れかかっている。見たこともない字。意味が分からない。字通・字訓・字統(白川静)、広辞苑、新字源、国語辞典、古語辞典を部屋いっぱいに広げ、分からない字と格闘した。(連れ合いが沢山の辞書を揃えていたのには感心した)お陰で私は随分に勉強になった。例えばケイソン(手書き入力でもPCで、漢字は出てこない)。辞書をくりながらなんども脂汗を流す。しかし、これが菖蒲の古名らしきことが判明し、字もあった。この化石のような字を印刷屋に入力してもらう。不明の部分は記号で戻って来る。原稿をなんどもなんども校正をし直した。詩に句読点が不自然についている。明らかに父の思い違いかと思う原文の字も有る。詩だけで五校になった。印刷屋は仕事とは言えよく付き合ってくれたと感謝する。
詩だけではない。文章を書くことに初心者のエッセイだ。句読点、当用漢字、送り仮名の使い方、漢字と仮名の使い方、(これはきまりがなく作者の意図でも良いらしいのだが)動詞の使い方など、あらゆる物に私は基本が出来ていない。文章は自分の思いだけで流れていく物ではない事を思い知った。印刷屋が編集者になった。
また、ワープロうちの原稿をオペレターが入力するのでなくスキャンで取るらしく、機械が読み取れないのか「柿」が「姉」、「縁」が「緑」と驚くほどの校正ミスが出てきた。つい印刷屋に声を荒げたりもした。私はどんな素晴らしい本でも、校正ミスがあると、それで価値が下がるように思う。それだけに校正ミスだけは出したくなかった。父と作品を並べるわけだ。好い加減な本にはしたくなかった。何人もの人に校正を頼んだ。そのつどミスが出てくる。何度読み直しても私は読み過ごしているのだ。他の読み手が読み直すことでミスの発見がある。自分を白地にすることの難しさも学んだ。(「行く」を「いく」「ゆく」。「言う」を「いう」に統一するかどうかの問題もあった。これはただ漢字にするか仮名にするかだけの問題ではなく、動詞または、接続詞につながるときなどで異なる。)
まるで、私の不勉強さが一気に吹き出るようだった。匙を投げたくなった。父は文を綴ることを「産みの苦しさ」と言っていた。私は気楽に文を綴る真似事をしているのだろう。ここでも挫折しそうになった。これも六校まで掛ってしまった。一般には再校(2校)までであろうか。根気よくつきあってくれたのには仕事とは言え、感謝と共に私の選んだ印刷屋に間違いはなかったと思う。
字(言霊)がなんとか形になったのは、もう秋も過ぎようとしていた。次は挿絵を入れることに掛った。私の描く絵の雰囲気を壊したくなかった。カラー印刷にまたしても注文をつけた。そして次は紙である。気の遠くなるような量の見本帳がくる。そこから自分で選んでいくわけであるが、楽しいような苦しい作業であった。 装丁も自分ですることにした。四角い堅い本ではあるが、手の中に包み込める、父や姉や祖母や関わった人々、関わった自然、時代、そんなものを優しく手のひらに入れられる、そんな雰囲気を出したかった。本が手の中に納まるわけがない。が、収められるような気持にしたかった。本の見返しは、同一紙が一般であるが、表と裏で変え、カバーから表紙の写真が見えるようにして雰囲気を出そうとした。
帯びのキャチフレーズは息子が書いてくれた。少し意味不明の部分もあるが私の思いを的確に掬い取ってくれているのには、さすが家族だと思う。(三世代で図らずも本が出来たわけだ)
失敗点もある。色、質で選んだ紙が印刷した時にどれぐらいの色(濃さ)になるかは素人の私には想像が付かない(専門家の装丁者なら分かるのだろうが)でき上がってみると、帯びの色が濃すぎた。カバーの繰り抜きと表紙の写真が合わなかったりもした。これは計算どおりに印刷したのに、表紙になる台紙に糊で貼り付けると、糊の乾き具合でズレることが起こったのだ。(まるで焼き上がりの時に縮む焼き物のようだ)。
こうして ホンに産む苦しさで本が生まれた。
流通を通さず、作者と印刷屋とだけで歩いた二人三脚だった。
お世話になった方達に配りたい。
そして、父と交友があった方々に手渡しの行脚に出たい。みなさん高齢になられ(父も生きていたら94歳である)手渡せることの重みを感じつつ本を運びたい。
本出版に背を押してくださった人たち。助言、応援をしてくださった人たち。協力して下さった人たち。そして黙って我侭を許してくれた家族たち、本をとても喜んでくれた友たち。
ありがとう。ありがとう。
「お父さん、お姉ちゃん、おばあちゃん、今日は母の日ですね」
本を贈ります。みんなみんなたくさん、私の母ですね。
私にも母の日のプレゼントとなりました。
母の日とは 祝はるゝこと 感謝の花
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