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村 祭り みのりの秋
認知症の方と家族を対象に「臨床美術(脳いきいき講座)」が開講されている。スタッフは当番で、いろんな話題を導入部分として入れる。私は「秋」をテーマに選んだ。
「秋! 」(本来の私は”食欲の秋”なのだが”みのり”をテーマにした)。参加者全員で一体感を持つために合唱もする。秋の歌として色々候補もあったが、「村祭り」を選んだ。
村祭り 文部省唱歌
(一)村の鎮守(ちんじゅ)の 神様の
今日はめでたい 御祭日(おまつりび)
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャラ
朝から聞こえる 笛太鼓
(二)年も豊年満作(ほうねんまんさく)で
村は総出(そうで)の 大祭(おおまつり)
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
夜まで賑(にぎ)わう 宮の森
(三)治(おさ)まる御代(みよ)に 神様の
めぐみ仰(あお)ぐや 村祭
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
聞いても心が 勇み立つ
この歌は、明治四五年小学校音楽教科書「尋常小学唱歌」に掲載されたもので、コーラスグループ「ダーク・ダックス」や「ダ・カーポ」にも歌われている。
若い参加者は「ダーク・ダックス」に首を傾け、高齢者は「ダ・カーポ」に首を傾けた。私はシンガーたちの説明もしなければならなかった。歌も世につれで、時代の流れを感じる。また、この歌を知っていても「夏祭り」「春祭り」しか体験していない人は「村祭り」の歌を、夏の祭りであり春の祭りだと思っていたと言う。歌一つにもいろんな思い込みがあるのだと考えさせられた。
私はこの歌の情景が良く分かる年代だ。
秋の収穫(みのり)が終わり、雪虫が舞いだし、農作業が眠りに入る前の澄んだ空気の中を渡っていく「ドンドンヒャララ ドンヒャララ」は、私の体の中にしっかりと入っている。大人になっていろんな祭りを観てもいるが、私の祭りは、この「村祭り」が原点になっているように思う。
皆んなで歌えるように歌詞を模造紙に大きく書いて行く。間違ってはいけない。歌詞を調べて、そして驚いた!
(三)番の歌詞が、戦後、相応しくないと言うことで
稔(みのり)の秋に 神様の
めぐみたたえる 村祭
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
聞いても心が 勇み立つ
に、書き変えられているのだ。私は歌そのものも学校で習った記憶がない。しかし、どこで覚えたのだろうか。「村祭り」の歌には懐かしさが沸いてくるし、しっかり歌える。日本の原風景を思い起こし、そして私の原風景を思い起こさせる歌なのだ。
日本人は農耕民族で瑞穂の国だった。祭りの発祥は、収穫を「祈る、喜ぶ、感謝」の心からだと思う。祭りの原点はここにあるのではないだろうか。二番の「年の豊年満作は、今年の間違いではないか、歌い難い」という声があがったが、これで正しいのだ。
稲は春の早苗から暑い草取り、秋には台風もくる。そんな厳しい一年をかけて作られ、米と言う字は八十八たびの人手が掛けられ、やっと一年の収穫となる。そして一年の終わりが来る。稲作は一年周期の恵みであり、稲そのものが一年を表しているのだ。「とし」とは「いね」のことだった。「年」は稲(禾)を収穫する人の姿を象形で現している。
「いね」も「とし」も「ひと」も労い、神さまに感謝し、治まる御代に感謝するのが、お祭りであったのだ。祭りは大切な日本の行事であり、「村祭り」の歌には、日本民族の心が詰まっていると私は思う。
そして、祭りは誰の心にも優しく懐かしく流れて行くものだ。
「ドンドン、カッカ。ドド〜ンドドン」神社で太鼓が打ちならされる。私の過ごした小学校は、私が住いとする神社の参道を挟んであった。太鼓の音が聞こえ出すと、みんなの足が机の下で脚ふみを始める。「どうして神社の祭りに、大事な授業を半日にしなければいけないのか」という話題が職員室でなされていたと聞く。しかし、子供たちはそんなことには耳を貸さない。もう誰の体も左右に揺れ始めている。勉強などうわの空だ。剛君(チヨッチャン)などは勝手に帰り支度をしている。それにつられてみんな教科書を閉じ始め、女児は先生の顔をチラチラ伺い出す。
授業の終る鐘の音が太鼓に混じって響いてきた。大歓声があがるなり、椅子と机を整頓するのももどかしく蜘蛛の子を散らすように、みんなは神社の石段をめがけて駆け出す。境内に備えられている太鼓を順番に打ち鳴らすのだ。順番を待つ間に家へ鞄を置きに帰る子もあるが、たいていは社務所の隣にある私の住いの縁側へ放り投げにくる。
その日は、社務所も私たちが住んでいたところもごったかえしていた。縁側には「ごくまき」(五円玉の入った小餅が撒かれるのだ)の餅が、桶に入れられ並んでいる。秋の陽射が餅を光らせていた。縁側に鞄を置いたついでに、それをこっそりポケットに入れる子もあった。見つかると「罰当たりめ」と叱られはしても、その日は何事も無礼講なのを子供たちはちゃんと知っていた。
「自分のほうへ餅を撒いてもらうように言え!」と、私に命令する子もあったが、そんなことを言っても父がそうしないのはよく知っている。祭りの日は、みんな好き勝手なことを言いあい心が浮き立っていた。
私は動作が鈍くごくまきの餅はほとんど拾えなかった。しかし、みんなに揉まれているのが嬉しかったし、チヨッチャンが一杯餅を受けて膨らんだポケットから、必ず一つは私の手に握らせてくれた。
普段は村で見かけない綺麗に着飾った人たちで境内が溢れていた。他所へお嫁に行った人や、村を遠く離れて仕事に出ている人が帰って来ているのだ。綺麗に着飾った人たちを子供は憧れで見ていた。青年団の若者たちがハッピハチマキ姿で忙しく動いている。そのきびきびした姿にもまた憧れた。自分たちも大きくなったら着飾って村に帰って来たい、青年団の人たちのように大きく成ったら男女力をあわせて立ち振舞えるのだと、祭りの華やかさの中に子供なりにも、艶っぽさも感じていた。
同級生が「うちへおいで」と誘ってくれる。どの家にもご馳走が並べられていた。みんなで連れ立って順番に訪問していく。その年に出来たお米で作られたお寿司やおにぎりが並んでいた。私たちは台風のとき、稲が全部横倒しになり水浸しになっているのを見ている。そしてこれといって役にも立たなかったが、農繁期には、順番に田圃へお手伝いに行くことになっていた。私などは農作業を知らないので、まったく役に立たずお八つに出された、もぎたての柿や蒸かし芋が目当てのようだったが、それでもどの田圃でも喜んでもらえた。そんな中で収穫された新米は、どの子にもピカピカに光って見えたし、とても有り難い物だと思った。秋祭りの意味をちゃんと肌で感じていたのかもしれない。
あのお手伝いの帰りに見た夕焼けが、いまでも一番綺麗だったように思う。
お祭りは、子供にも何時もと違う心が起る。私はご馳走をよばれ歩いた最後にチヨッチャンの家へ行く。チヨッチャンは自分で山羊を飼っていて山羊の乳を飲んでいた。私は一度それを飲ませて欲しかった。普段はそんなことを言えなかったが、お祭りの華やかさがそれを言わせる。チヨッチャンのお母さんが「今日は神社は大忙しやろ。うちで泊まっていき。お祖母ちゃんに言うたげる」と言ってくれた。 私は嬉しかった。神社には参道に店を出す人たちや、遠くから来たお神楽の人たち、手伝いに来る神主さんで寝る場所がなかった。その人たちは夜通し起きてお酒を飲んだりする。あまりにも賑やかで寝るわけにいかなかった。
山羊の乳はなんだか生暖かく臭かった。しかしあれも私のいままでの飲み物の中で、一番美味しいものだったように思う。
両脇の神木の杉の木を背にして、参道に沢山の店が並ぶ。杉の木に張られた注連縄が人混みに揺れていた。綿菓子の甘い匂いと天津甘栗の焼きこむ匂い。その匂いに埋もれてヒヨコも売られていた。金魚すくいもあった。何度挑戦しても紙が破れて金魚はすくえない。チヨッチャンは上手にすくっても、ごくまきの餅はくれたが金魚はくれなかった。お多福やヒヨットコの面がそれをみて笑っていた。知恵ちゃんがお面を買おうと財布を覗きながら、「チヨッチャン、木村さん(私の旧姓)が好きなんと違う」と言う。「好き?」そんな感情が分からない私はまだ子供だった。みんなそうだった。奉納される神楽に、男の子も女の子も一緒に手を繋いで見とれていた。
お祭りが終って、父がお神楽の話をしてくれる。それは大蛇が女の人と絡む話であったり、神さまの睦む話であったりして、なんだか不思議でもありちよっと恥かしくもあった。手を繋いで見ていたのが恥かしく思い起こされた。
祭りとは、艶っぽい日でもあったのかもしれない。
何年か前にその神社を訪れた。神社の隣にあった小学校は無くなっていたし、住んでいた住居は二階建になっていた。二階建ならたくさんの人が泊まれるし、私の寝る場所もあっただろうに。神輿が収められていた小屋はなくなり駐車場になっていた。沢山の年月が流れていたのだ。
参道の杉の木を背に燈籠が並んでいた。その燈籠のなかに「献燈」とチヨッチャンの本名があるのを見つけた。胸がキューンと鳴った。祭りの太鼓が鳴った。杉の木にかけられていた注連縄が揺れた。夫のくゆらす煙草の煙が、カーバイドの匂いのように流れていった。
祭りはやっぱり、艶っぽいものであったのかもしれない。
ドンドンヒャララ ドンヒャララ/ドンドンヒャララ ドンヒャララ
「村祭り」は大切な歌だ。昔の歌詞のままで歌い繋げよう。
懐かしさと甘味も乗せて祭りかな
♪ 母さん今夜は 木村徳太郎
母さん今夜は
いゝ月夜
ひよつとこ踊りを
見せませう。
あゝ祭の笛も
もうすぎて
背戸の高黍
鳴るばかり。
母さん今夜は
月今宵
お頭(つむ)の白髪が
目立ちます。
おゝ流れる星に
渡り鳥
群れてもつれて
鳴くばかり。
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