|
♪ 寄鳥見鳥
寄鳥見鳥(よりどりみどり)は漫画家岩本久則さんがビッグコミックオリジナルに連載しておられたコラムのタイトルである。
テーブルに「野鳥の招き方」「日本の野鳥100」「鳥のおもしろ私生活」「カラスの早起きスズメの寝坊」などの本がさりげなく置かれている。(私は天邪鬼だ。「この本、面白いから読んでみたら」と言われると読まない。夫が自分の読んだ本を、忘れ物をしたようにテーブルに置いて出かける。後で私がこっそり目に留めることを知ってか知らずでか・・・だ。
カラス、ハト、ウグイス、スズメぐらいは区別が尽くが、あとはどれも私は「鳥」で片付けていた。花の名前は徹夜で調べても、鳥は「鳥」だった。
ところがだ。車と高層マンションばかりのところに住む孫が、庭にやってくる鳥に興味を持った。夫が双眼鏡を買ってきた。
木々が繁っているとはいえ住宅蜜集地だ。家々の窓に取り囲まれている。双眼鏡などをぶら下げ、庭をウロウロしたのではどんな疑いをかけられるかわからない。私は大反対だった。でも孫には勝てない「ばぁちゃんも覗いて」と言われ、しぶしぶ覗くといきなり大きな鳥の目と合ってしまった。目に表情があった。(当たり前の話だが)。
それから、寄鳥見鳥(よりどりみどり)を始めてしまったのだ。
春浅い朝の寝床は離れ難い。「春眠暁を覚えず」と言う。ウトウトまどろんでいる中へ歌の練習を始めた鶯が重なってくる。春の足音が響く嬉しい瞬間だ。ところが今年の鶯はいきなり「ホーホケキョ」と鳴いた。驚いて飛び起きた。「早春譜」(春は名のみの風の寒さよ)と異なる抑揚のない風が吹いていた。今年、鶯は二月の末から上手に歌った。急に温かくなり練習の間がなかったのだろうか? 不思議な気持になる。また、鶯は私が思っていた緑色ではなかった。茶色だ。なぜ鶯色と言うのだろう。不思議だ。
ヤマバトが「グルッポ、グルルッグル」と鳴く。(これはドバトでなくキジバト)昼下がり、庭にテーブルを出しお茶を飲む。のんびりした鳴き声に幸せな気分になる。土に戻した蜜柑の皮を、二羽のキジバトが突いている。なんの警戒心もなくグルッポ、グルルッグルと歩いている。野良猫がそれを見ていた。「飛びかかった! 」空間を切り裂くようにハトが飛びあがる。その素早いこと。やっぱり羽のあることは素晴らしい。飛び移った枝にまた二羽並んで「グルッポ、グルルッグル」と鳴く。猫には「アホ〜アホ〜」と聞こえたかもしれない。
「アホ〜、アホ〜」はカラスだ。生ゴミ回収の日はカラスが電線に並ぶ。ゴミの上にシートを被せる事になっているが、それをしないで去る人がいる。カラスが見つけ「アホ〜アホ〜」とゴミに飛び降りてくる。掃除当番の人が「アホ〜アホ〜」とゴミ集めをする。カラスに言ったのか、去った人に言ったのか……。
カラスの落す糞は真っ白だ。黒いカラスの白い糞。木の実を食べても、ゴミを食べても白い糞。やっぱり不思議だ。
豌豆(エンドウマメ)を蒔くのが遅れた。他所はもう膝丈ぐらいに伸びているのに、我が家のは10センチばかり。ヒヨドリがその柔かい芽を丸裸にしてしまった。「やられた!」 猿や猪に荒らされ農家の人が、作る意欲が萎えると言う。他人事に思っていたがその気持がよく分かった。妨鳥網を買ってきて、カラスの「アホ〜アホ〜」を聞きながら、鶯色のメジロに会釈をしてネットを張る。菜種梅雨だろうか。雨がよく降る。丸裸になった豌豆からまた芽が出始めた。雨降りにはヒヨドリはこない、ウグイスだけが鳴いている。「雨音と鶯の二重奏を子守唄にどんどん大きくなってね」豌豆に話し掛ける。私は豌豆のお母さんになった気分だ。
お母さんと言えば、忘れられない童話がある。子供のころ広助童話が大好きだった。大好きなのだが読んではいつも泣いていた。泣く私を父が不憫がる。どうして不憫がったのか、大人になって少し分かる気もする。そしてそれが分かるとまた泣く。
広助童話は優しさの中に残酷さがある。その残酷さに父は私を重ね、案じていたのかもしれない。そして父も泣いていたのかも知れない。そう思う。
父が浜田広助を読んでくれる。
「浜田広助・よぶこどり」
「カッコウの卵を拾ったリスが、卵にカッコウと名前を付け、大事に育てる。それは愛しんで育てた。意地悪なモグラがやってきて、大きくなったカッコウに、リスはおまえの母親でないと教える。カッコウは嘘だと思いながらも悩む。悩んで元気のなくなったカッコウに、リスが「どうしたの?」と聞く。「おなかが痛いの、少しなの」リスはカッコウのお腹に手をあてる。父が大きな手で私の頭を撫でてくれた。私はこの辺りから泣きじゃくリ始めるのだ。母親の無い私は、リスのお母さんの優しさが羨ましくもあった。そんな優しいリスに「やっぱりこの人は、私のお母さんだ」とカッコウは思うのだが、自分とそっくりの鳥を見て、あれが本当のおかあさんだと、思わず羽ばたく。そして、その鳥の後を追って去ってしまうのだ。カッコウがいなくなり、リスは半狂乱になり毎日カッコウを探し続ける。カラスが「桜が咲いたら戻ってくるよ」と慰める。リスはじっと春を待った。でも桜が咲いても戻って来なかった。桜は散ってしまった。そしてリスは「私も鳥になりたい」と小さい鳥になり、「カッコウ、カッコウ」と名前を呼びながら(鳴きながら)カッコウをさがし続けるのだった」そんな話。
私は読み終えるといつも「バカ!バカ!カッコウのバカ」と泣きわめいた。そして自分を叱った。私は和子で「かっこ」と呼ばれていたからだ。「カッコウ、カッコウ」と本の中から聞こえる鳴き声が、私を呼んでいるように思えた。(カッコウは「托卵」の習性があり、自分の巣以外に卵を産み、他の鳥に育てさせる。これをヒントに「よぶこどり」は創作されたのだろうか)
いまでも、山あいから木霊して聞こえてくるカッコウの鳴き声に、私はこの「よぶこ鳥」を思い出し哀しくなる。
人も巣立つ時がある。しかし人は古巣を忘れはしない。
励ましだった鳥のさえずり(地方新聞2006.06.22)投稿掲載
「先日、家の中に小鳥が入ってきた。外に出られるように家中の窓を開けて用事をしていた。数時間後、外の庇の物干し竿に、いままで止まっていたことがない、メジロが二羽並んで盛んにさえずっているのに気付いた。「?」と思いそれを眺めていたが、その鳴き声に混じって家の中からも小さい鳥の鳴き声が聞こえてくる。飛び込んできた小鳥がまだ家の中にいるのかと探すがどこにも見えない。どうも鴨居の中から聞こえてくるようだ。脚立を立てかけ、のぞいてみると鴨居の溝に小鳥がはまっていた。急いで拾い上げた。その拾い上げた小鳥が私の手から飛び出すと同時に、棹に止まっていたメジロも一緒になって飛び立った。驚いた。「あれはメジロの両親だったのか。鴨居の溝から出られなくなった子メジロを励ましていたのだ」と気が付いた。
これまで、鳥の鳴き声はさえずりと思っていた。しかし、この出来事があって以後、当たり前かもしれないが、鳴き声が鳥たちの日常のお喋りで言葉だと思えた、鳥たちもコミュニケーションを持ち、ちゃんと親子の情があり、人間と同じなんだと思った。
ところが最近、鳥にも劣る情愛の欠落した事件のなんと多いことか。鳥たちは、きっとそんなこともさえずり合っているのだろうか…」。
少なくなったとは言え、我が家の近辺はまだ自然が残っている。私はさりげなく置き忘れた?本を読む。そして寄鳥見鳥に出会いたいと思い始めている。
琵琶湖から来たのだろうか、昨年まで気がつかなかった真鴨が、川を下ったり上ったりしている。その横で大きな青鷺が首を伸ばしている。白鷺が虫を啄ばんでいる。セキレイも美しい。長い尾を振りながら雪で濡れた道路を走る。雪山をバックに大きな牡丹雪が舞うようだ。トンビが「ピーヒョロロロ」と円を描き下界を見下ろす。湖に行けば葦焼きが終わった陰から、ヨシキリが顔を覗かせる。オシドリもカイツブリもいる。ユリカモメが紅い足で寄って来る。
裏山ではフクロウの鳴き声が聞こえる事もある。カラス、スズメ以外に、鳥は「鳥」であったが名前を覚え始めた。
よりどりみどり、孫が来るまでにこっそり勉強をしておこう。鳥のように大きな目をして、驚くかもしれない。
残り鴨気に入ったと琵琶湖褒め
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
雲雀 木村徳太郎
雲雀よ雲雀
揚雲雀
高くて遠くが
見えるだろう
戦争している
南海が。
___あゝ 軍艦旗
軍艦旗___
見えたら舞って
降りてこい
畠は菜種の
花ざかり。
雲雀よ雲雀
揚げ雲雀
|