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夏 の 思い出
「あ! ゆで卵!」孫の声に水遣りの手を休めた。
幼児の感性は素晴らしい。咲き残る明けがたのツキミソウとこれから咲き始める白いアサガオが、水撒きのホースから勢い良く描かれる孤の中で、ドッキングしている。
我が家の白いアサガオは毎年自家生えで芽をだし、小振りであるがその白さは光沢を持ち白磁を思わせる。それはゆで卵の白身のような輝きだ。そこに消える月の雫のような儚さを持った、薄黄色のツキミソウが重なったのだ。
「うぅ〜〜〜〜ん」私は唸ってしまった。正しく半切りゆで卵そっくりだ。この白さ、この薄黄色、毎日観ているが、ゆで卵とは思いもつかなかった。
暑い数日を孫と暮らして随分楽しませてもらった。水遣りを一緒にする。陽の輪の中で放水すると虹が出来る。小さい虹大きな虹、自由自在である、手元の角度で二重の虹も出来る。「ばあちゃん。すご〜〜い」と手放しで褒めてくれる「魔法使いみたいだね」と言う。背丈と水量の加減もあるのだろう。孫がやっても出来ない。失敗の鉾先は私を水浸しにする。私も負けずに孫に水を掛ける。二人とも水浸しだ。
二人して娘に叱られ、また二人で「キャッ、キャッ」と笑いあう。灼熱だ。すぐに服は乾く。幼子と過ごす暑い夏も良いものだ。そして、私の幼児期の一こまも重なってくる。
暑い日ざしの降り注ぐボタ山を背に私たちはママゴト遊びをする。広い汽車の車庫で軌道に敷かれる石なのか、幾つも小石の山があった。夏の光りが頂きを照り返し、石は熱く水を掛けると湯気が出る。車庫から続くレールも暑さで光っていた。周りは草叢に埋もれ、虫が気だるそうに鳴いていた。焼けるレールに耳をつけると「熱気」の音が伝ってくるようだった。それ以外なにも聞こえないのにそうする事で、知らない世界へなにかが繋がって行くような気がした。
ママゴト遊びの円陣に汽笛が響く。機関士さんが汽笛を鳴らしてくれているのだ。
あれは本当だったのだろうか。いや後で積み重ねた幻影だろうか。そんな風に思うことがある。私は本当にそんな危険なところで遊んだのだろうかと、そのあやふやな記憶に苛立ったりする。
しかし二年前に、父の詩集を整理していて「これは汽車の沿線の近くの家だと思ってください」と(注)のついた作品を見つけた。(下段の木村徳太郎<硝子窓>)それを見つけたとき、あの幼児期の幻影は本当だったことに確信が持てた。
あのママゴト遊びは本当だったのだ。ギラギラ照りつける陽射のボタ山から陽炎が昇っていたのは本当だったのだ。車庫に入ってくる、知らない所を旅してきた列車を、父の肩車でよく見た。あのとき石炭の煤が目に入り目医者へ急いで行った。顔に水しぶきがかかるのが気持良かった。しかし姉は、それは水ではなく尿だと言う。不思議だった。夜、線路を下駄履きで歩く音がすると聞かされ、お便所へ行けなくなった。二階の物干しから、夜汽車を父と眺める。父が「虫篭みたいだ」と言った。そんなことが鮮やかに浮かび上がってくる。汽車の車庫の近くに住んでいて、車庫が遊び場だったのに疑いは無かった。
草叢からボタ山に伸びている花でママゴトをする。
私が始めて覚えた花の名前はアサガオとツキミソウの「ゆで卵」ではなく、それは「辛し」だった。
ボタ山にはそれしか生えていなかった。ボタ山を這い登るように小さい粒粒のオレンジ色の花をつけていた。名前を教えてもらうと<ヤブガラシ>だった。オレンジ色は祖母が練る辛子とよく似ていた。「辛ろおますけど、どうぞ召し上がっておくれやす」などと言い、葉に粒粒を乗せて遊んだ。子供のママゴトは擬似だ。まるっきり大人の口調を真似ては笑い転げて遊ぶのだった。私は<藪辛子>だと思っていたのだ。
あれが、花に名前があることを知った始まりである。そして線路の怪談話を聞いたことが後に、小泉八雲の怪談に始まり、上田秋成、日本霊異記、今昔物語、そして水木しげるが好きになっていくDNAだったのかもしれない。そして、なによりもヤブガラシを藪辛子と勘違いするオチョコチョイも今に続いている。三歳までに人となりは形成されると言う。本当ではないかとも思える。
大人になってヤブガラシは(藪をも枯らす)植物と言う事から、ヤブガラシだと知った。悪役の植物になっている。しかし私は、初めて出会った花のせいか、悪役には思えない。藪を枯らすということでは葛の方が優勢だろう。葛の蔓延りようはすざましい。人の入らない荒地や山林、空き地、電信柱のてっぺんまで這い登る。何もかもその濃い緑で覆い尽くす。しかし、葛の花は「秋の七草」とかに入れられ、優雅に万葉の女人の扇の揺れのように澄ましている。ヤブガラシは振り向いてくれる人も少なく、悪評の名前だけが汗粒のように零れているのだ。
野の花の少ない都会のボタ山にも咲いていたヤブガラシは、田舎に引っ越し色んな花があることに巡り会い、少し色あせていった。
しかし、ギラギラ照る陽射にヤブガラシを見つけると、なんだか切なくなる。どうしてだろう。
最初に出会った花が、もっと花らしいものでなかったことへの残念さだろうか。
幼児の私を思い出す愛しさだろうか。
孫は大きくなったとき、何を思い出すだろう。ゆで卵? ばあちゃんの水浸し? 何でも良い。たくさん思い出して欲しい。そしていろんなことを積み重ね大きくなって行って欲しい。
灼熱の中、ヤブガラシが汗粒を編みこんだようにして咲いている。思い出も編みこんで行く。最初に出会った贔屓目からか、ヤブガラシはまるでレース編みのように灼熱に踊る花だと私は思っている。
そして、粟粒のような小さな花は、花が終ると花より数倍も大きな実になる。その実は秋愁の趣を心地よく誘う。一粒一粒の実に夏の思い出を包み込んで、汗粒がぼちぼち引いて行くだろう。
硝子窓 木村徳太郎
硝子窓が唄をうたふ
特急列車 普通列車 貨物列車の唄
硝子窓は年がら年中
うたってゐるから
行儀がよゐ
雨の日でも 風の日でも
時間をきめて きっちりうたふ
硝子窓は
よく時間を守るから
えらい えらい
ママゴト 木村徳太郎
ゴヨウイガ デキタ
ヒナタノ ニハノ
ハナムシロ。
マネク オキャクは
ミンナナカヨシ トナリグミ
オハヤク ハヤク
カイランバンヲ
マハシマセウ
ケフハ セックヨ
ソロッテ ゴチソウ
アガリマセウ
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