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雪原の蝋梅(ロウバイ)
アノ・ソレ・アレことば
最近、夫との会話に「アノ」「ソレ」「アレ」が多くなってきた。
正月に帰郷していた娘と孫を前にして、「お父さん! アノ人、お正月どうしてるやろか」「喪中だから年賀状は無いよね」「アレ買って訪ねてみようか」「いや、アッチのほうがエエ」「そうやなぁ、アレにしよう」「家にいてるかどうか、アレしてからにせぇよ」「アソコヘいってるかもしれんしなぁ」
夫が仲良くしていたゴルフ仲間の一人が昨年、急死した。奥さんとは私も親しい間柄だ。年初めには毎年、高いゴルフ料金を避けて「お〜〜いアソコで待ってる」と電話が入ると、私たち夫婦は待ち合わせの喫茶店へ自転車の初漕ぎで飛ばして行く。そして、新年の挨拶と他愛も無い話で大笑いし、お互いの健康を喜ぶのだった。
ところが、「風邪を引いたのでゴルフは休む」と連絡があった後、肺炎で入院し、そしてあっけなく亡くなってしまった。私たちはいまだに亡くなったことが信じられない。
(先の会話を翻訳すると「○さんの奥さん、お正月どうしてるやろか」「喫茶店で一緒に食べてた、好物の焼きりんご買って訪ねてみようか」「いやオセチのほうがエエ」「そうやなぁ、二人が好きやった湖魚のタヅクリにしょう」「デンワしてからにせぇよ」「ジッカへ行ってるかもしれんしなぁ」)
この会話を、娘が「○太、爺ちゃんと婆ちゃんの話、分かる?」と、少し怒ったように孫に聞いている。孫は複雑な顔をして首を横にする。分からないけれど「分からない」と言うと、爺ちゃんと婆ちゃんが可哀相だと言うような顔をしている。
最近、「アノ」「ソノ」が増えて、固有名詞が出てこない。これを「物忘れが始まった」「認知症の始まりだ」と高齢者は言われる。
私は首を傾げている孫に、「この言語が分かるには、四十年近くは掛かるもんや。ものすごく高尚な言葉なんやで」と大威張りで言ってみる。
平成二十三年「現代学生百人一首」
http://www.toyo.ac.jp/issyu/nyusen24_2011_j.html
「アレ取って」以心伝心「はい、どうぞ」二十五年の夫婦の絆
埼玉県 県立狭山経済高等学校 3年澤田 知里
アレ、ソレで以心伝心の出来ることは誇って良いのではないだろうか。これほど優しい言語は、ないのではないだろうか
私は職場や世間では「アレ、ソレ」は使わない。物忘れして口に出てこない固有名詞や、それらしい出来事には口を挟まないようにしている。アレには乗り出さず黙ってやり過ごし、すまし顔で話題に付いて行かないようにする。何の気兼ねもなしの鎧を脱いで「アレ、ソレ」で、会話の出来ることは、私の幸せなひと時なのだ。
しかし、大昔から「アレ、ソレ」で会話をしていた訳ではない。私たちにもいろいろなことがあった。渦中のときに「アレ、ソレ」では離婚訴訟も成り立たないだろう。いま、こうしてアレ、ソレ語を使える以心伝心は、究極の安泰ではないのだろうか。
「アレ、ソレ」語を、老人語と心配しないで欲しい。長年掛けて培われた二語で語る素晴らしい言語なのだ。そう思う。
高齢者の仲間たち。咄嗟に言葉が出てこないから老化の始まりだと卑下することも無かろう。
どうしても出てこない言葉や名前にあきらめかけていたら、突然ひょいと飛びでたりする。まるで、昔使っていた古財布を何気なく開けたら、五千円札が入っていた、そんな喜びではなかろうか。嬉しくって顔がほころび楽しくなる。そんな楽しさを、「アノ・ソレ・アレ」は運んでくれるではないか。
夫が二回、薬缶を火に掛けたまま「三度の飯より好き」と言うゴルフに出かけたことがある。シニァ割引があり、予約なしの当日でも電話をしてみたら入れたので、もう他のことは眼中にない。大急ぎで出かけてしまったのだ。たまたま私が早く帰宅したので事なきに終わったが、薬缶は真っ黒になっていた。
「アンタ!アレなぁ〜。マックロやったよ」「なんやアレって」「アレやアレ」
「!!!!!ヤカンか?」「ソウヤ、ソレや」あのときの以心伝心は煮えたぎっていた。
最近、着物の帯を結ぶのに手が後ろに回り難くなってきた。白髪を染める時、後ろは染めてもらわないと見えない。夫が医院で貰ってきた乾燥性皮膚疾患治療剤を私も塗って「アレ、よう効くなぁ〜」と言いあっている。
「アレ・ソレ・アノ」に加え、いろんなことが歳を重ね、自然に補い助け合うようになってきた。朝の「おはよう」夜の「お休み」で一日が暮れ、季節の移ろいに沿って「寒いなぁ〜」「暑いなぁ〜」と言う。そしてその間に「アノ、ソノ」が行き来する。
三十数年夫に添い(いや、夫が私に添っていてくれたのかもしれない)。そして今、アノ、ソノが、添っている。オオキニ。これは負け惜しみでないと思う。でもあまり、じらさんと「アノ、ソノ」の正体が速く出てきてくれたときは、もっと嬉しいとも思う。
石炭 木村徳太郎
石炭 火になる
手を染める
真っ赤な火になる。
石炭 風になる
ごうごうと
駆ける風になる。
石炭 羽虫になる
ちっぽけな
白い羽虫になる。
石炭 とんでった
雪夜の
空へ とんでった。
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