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「梅の花」「寒咲き菜の花」「おばあちゃんと私」
トイレの神さま(おばあちゃんありがとう!)
「植村花菜」の 小学校三年生から二十三歳頃までの実体験がベースになっている、『 トイレの神様』の歌が流れてくる。
「おばあちゃん おばあちゃん ありがとう おばあちゃん ホンマに ありがとう」
春の雪が降っている。大きなボタン雪。一片一片が「おばあちゃん おばあちゃん ありがとう」と舞ってくる。なんと良く似た体験だろう。
私も物心付いたとき、おばあちゃんに育てられていた。いや、オムツを替え、戦後の食糧難を母乳もなく(母も無く)水のような重湯で生後八ヶ月から優しく私を見守っていてくれた。
明治二十七年九月生まれ、生存なら百十七歳だ。私が中学生のときに亡くなった。六十五歳で亡くなった。私はおばあちゃんの歳を越えて生きている。私が十八歳のとき、五つ違いの姉が亡くなった。姉はおばあちゃん子、私はお父ちゃん子だった。おばあちゃんも姉も病死だが、おばあちゃんがもう少し長生きしていてくれたら、姉はもっと長生きしていたのではないかと思う。
おばあちゃんからみると、子供の父は売れない詩や童話を書いているしがない息子。おばあちゃんが、「かわいそうに、お正月だというのにタタキゴボウと黒豆しかない。お父さんが、甲斐性なしだから」と言った。私は大好きな父をそんなふうに言う、おばあちゃんが許せなかった。私は貧乏でも良かった。正月にご馳走を食べたいとも、晴れ着を着たいとも思わなかった。ただ、お父ちゃんがそんなふうに言われるのが嫌だった。
おばあちゃんは父をなじっているのではなく、村人と思想的に(信念で)諍いばかりして、神主としての生活も豊かでない父を歯がゆく思うのと、孫たちを不憫に思う気持ちがそう言わせたのだ。(しかし、そういうふうに理解できるようになったのは、私も子の親になってからである。)父と喧嘩しておばあちゃんは大阪の叔父(父の弟)のところへ行ってしまった。それっきり一緒に暮らしていない。
おばちゃんは大阪から美味しい食べ物をたくさん送ってくれた。綺麗な服を送ってくれた。そしておばあちゃんは亡くなった。
私はおばあちゃんに「ありがとう」を言っていない。
姉が亡くなったとき、今度は父を責めた。「おばあちゃんも母も追い出し、看病する女手もなく死んでいった姉は、きっとお父さんを恨んでいるだろう」と。
親より子供を先に亡くす親の辛さ、悲しみを理解出来るようになったのは、やはり私が子の親になってからである。
私は二人とも大好きだったのに反発ばかりしていたのだ。
おばあちゃんにも父にも「ありがとう」を言っていない。「ごめん」「かんにんして」
私は切なくなる。「ちゃんと育ててくれたのに 恩返しもしていないのに 」
歌が流れて行く。胸の中へボタン雪が舞い込み溶けて行く。
ボタン雪を一片受けてみる。そして思うのだ。「でも、でも・・・・」
もし私の子供たちが、私が生きている間に「ありがとう」なんて言ったら、私はどうする?。それは困る。そんなことを言われたら恥ずかしいし、なんだか惨めに成るかもしれない。言わないで欲しい。「ありがとう」より、反発しているほうが嬉しいような気もするのだ。親を乗り越え、親は踏み台、踏み潰して進んでくれているのが嬉しいのかもしれない。
ひよっとすると、おばあちゃんも父も「ありがとう」と言われることを幸せと思っていたわけでもないような気もしてくる。(自分勝手な言い訳かもしれないが)
おばあちゃんや父が、私の髄になり今の私が生きている。あの時には言えなかったけれど、今、「ありがとう」と言っている姿を、ニコニコ笑って嬉しそうに聞いていてくれてるような気もする。
それにしても昔の人は偉かった。おばあちゃんは偉かった!
ボタン雪を一片、口に入れ思う。
「トイレの神様(便所掃除をすると美人になる)」などは普通に言っていた。
生活の知恵だけではなく「大きな日めくり」を私にめくらせた。(「日めくり」には、格言やことわざが書いてあって、知らずのうちにいろんなことが学べた。)
そして「お天道さんが見ている」がおばあちゃんの口癖だった。
いっぱいありがとう。 「ありがとう」の心を、私も私の子供たちに伝えたい。孫にも伝えたい、そう思う。それが一番の「ありがとう」で恩返しになる。
ボタン雪はもうすぐ春を持ってくる。
★★★★★★★★★★★★★★★
早春 木村徳太郎
ちらちら 薄陽
ビルの壁
街路樹(なみき)の枝の
小さい芽。
北向き窓の
残り雪
しずくの露も
目に和む
ちらちら 薄陽
僕の手に
うっすら早春(はる)を
持ってくる。
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