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桜 咲く
20011年4月9日の吉野山の桜は例年に比べ少し開花が遅かった。下千本が九分咲き、 中千本は四分咲き、上千本は二分咲き、奥千本は蕾といった所だろうか。
山が花に埋め尽くされるには少し早いものの吉野駅に着くと人々が溢れ、バスとケーブル乗車への案内が賑やかだった。そんなざわめきをぬって私は山道を行く。しとしとと降る糠雨(こぬかあめ)が、桜や人を落ち着かせるように周辺の緑を色鮮やかにしていた。吉野山は緑の綺麗なところだ。まるで、ふるさとを奏で響かせる色のようだ。緑と薄紅色に覆われる吉野山へ、人々は心のふるさとを求めて来るのだろう。
私もそんな一人だ。
吉野山を訪問するのはこれで5回目になろうか。存命なら参拝したかったであろう吉水神社へ父の本を携えて訪ねたのが始まりだ。その年の桜は霧雨に濡れていた。人々の目が桜に奪われる中、ひそか雨と呼ばれる霧雨が、青もみじを青色の滴にして、ひそかに落ちていた。そのあまりの瑞々さに震えた。そしてもみじのころに再訪問した。西行庵へ足を伸ばした。
吉野山は日本の歴史をとうとうと流す大河であろう。ふるさとを脈々と流れ伝える大河だ。太古から日本人の心のふるさとを流し続けている。後醍醐天皇、義経、秀吉、西行・・・・そして現在も大きく流れている。
そんな大河に昨年は桜吹雪を見た。舞う吹雪のなかに理不尽に北朝鮮に拉致された横田めぐみさんが佇んでいた。http://blogs.yahoo.co.jp/hanahitohira06/50125923.html
そして今年は東日本大震災が起こった。大河に一枚一枚と花びらが渦を巻いていく。歴史に人災と天災が流れていく。美しい国軸の大河に、悲しみも流れる。
「東日本大震災鎮魂慰霊祭」と「拉致被害者全員帰国悲願祭」が吉野山、吉水神社で執り行われた。この大河の慟哭が、天に届くように私も祈ってきた。
日本一の桜の名所、吉野山(吉水神社)の「一目千本」は雨にもかかわらずたくさんの人出だった。一目で千本の桜を観ることができる。そしてこの桜を一目見ると十年は若返ると言われる。
十年で日本は若返って欲しい。雨に煙る一目千本の谷あいに「大祓詞」が響いていく。山あいを縫って大きなうねりが流れて行く。この祈りよ届け!。
私には祈るすべしかない。ひたすら祈る。
見上げる山桜が大きな雨粒で重たげだ。その大きな雨粒が時折吹く風にパラパラとかかる。小ぬか雨が大きな雨粒もつれてくる。しかし、傘を差す気がしない。みな身じろぎもせず濡れながらも一心に祈っている。白い犬にも出会あった。濡れながらおとなしく座っている。この犬は「さくらちゃん」だ。いつも拉致被害者全員帰国悲願を願う人たちに癒しと希望を与えている犬だ。一度頭を撫でたいと思っていた。賢こい顔をしている。雨で濡れた毛をぬぐってやる。犬の温かみが伝わってくる。桜の花びらのぬくもりを感じる。
雨が上がった。雨上がりの陽が桜の幹を照らし黄金色に光ってくる。谷あいから霧が上がっていく。幽玄の世界が広がり、雨粒の涙が乾いていく。
私は確信した。陽は必ず上る。涙が乾くときは必ずくる。
生の声は魂を震わす。横田滋さん、早紀江さんの話には胸を締め付けられる。いままでに何度同じことを様々な場所で話されていることだろう。内容は同じあっても魂を振り絞ってみんなが心を一つにすること、日本人であることを話される。これを無駄にしてはいけない。風化させてはいけない。絶対風化させはしないと思う。
私はすぐにも介護ヘルパーで東日本に駆けつけたかった。しかし「若い人が必要であり高齢者はかえって足手まとい。安全は保障できない」と言う。東北へ派遣される若い人が抜ける施設の穴埋めに、協力した。施設では同じ日本で、大惨事が起こっていることとは無縁に、今までとおりの生活が続いている。入居者にショックが大きすぎると映像は見せない。くったくない高齢者の笑い声が救いかもしれない。この笑いをどこにも取り返したいものだ。東北の現場から帰ってきた若い人が言う。「なにがあっても絶対泣くな。泣く暇があったら、一人でも多くの人に声賭けをせよ」と約束させられたと言う。帰ってきて彼女たちは、こらえていたように大声で泣いた。みんなが泣いた。そして祈った。現場は報道規制もなされていて、映像からの想像より、何倍も酷かったと話す。
私は祈る。吉野山で祈り、天を仰ぎ、桜をみて祈る。
吉野山から下山のとき、お土産やさんがお茶を出してくれた。店番のお婆さんが「この前の道は1本道、だからここを秀吉さんも通ったことやろ」と言う。花見の雑踏で溢れる人の中に、秀吉の行列を想像する。義経が走り、静が走る。後醍醐天皇さまを想う。
お婆さんが「私は103歳だ」と言う。いっぺんに現実に戻った。その若さに驚いた。今は人生80年時代と言われ、どの施設でも元気な高齢者が多い。私などまだ子供だ。
そう思うと元気が出てくる。
どうか横田さんご夫婦も長生きをして欲しい。東北に桜が咲いて欲しい。私はひたすら祈る。
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童話 「廃跡のさくら」 木村徳太郎 作毎日小学生新聞・昭和二十四年五月六日掲載
むらさき色にかすんでいる夜でした。 焼け跡に、いっぽんのさくらの木が匂っていました。そのさくらの木のてっぺんに、まるいつきがかかっているのを、ひとりの男が、ぽつねんと見上げるようにして立っていましたが、
「ああ、美しい花をつけているなあ。」
とつぶやくように言うと、さくらの木の根っこに、腰をおろしました。
その男の人は、遠い外地に戦争に行って、何年ぶりかで内地に帰って来た人でありました。 腰をおろすと、何年か暮らしてきた外地の苦しかったことや、楽しかったことや、さまざまなことが、 赤い色や青い色の糸で作った、まりの糸をころころとほどいていくように、つぎからつぎへと思い出が、心の中にうかんできました。が、いつとはなく、七色の「にじ」のようにあざやかな一つの思い出が、その男の人の心をすっぽりとつつんでしまいました。
それは、遠い外地で苦しい戦争をしているときでありました。雪子さんと言う少女から、慰問の便りをいただいて、それがきっかけとなって、いつとはなく、自分の妹のように、 懐かしくおもうようになったのでありました。
そのようにして、何年か過ぎ去ったある時、男の人は、もう少しでお役がすんで、内地に帰れるかも知れないという便りを出しました。
その返事に、雪子さんから小包がとどきました。中をあけてみると、いろいろな品物にまじって、ほんとうのはとかとおもわれるような、かわいいおもちゃのはと笛が出てきました。それに、そえられた便りには「今度雪子も女学校に通うようになりましたので、幸せに勉強がつづけられますように、平和のしるしのはとをかたどった笛をおくります。兵隊さんもおげんきで、一日も早く不幸な、戦争が終って、世界の人々が平和になれますように祈ってください」と、かかれてありました。
服のポケットに、たいせつにはと笛をしまって男の人は、それからは、いそがしいさいちゅうでも、少しひまができると、雪子さんの願いを忘れないために、はと笛を吹いたり、一日も早く内地に帰へって、やさしい雪子さんに一度あって、おせわになったおれいをもうしたいものだと考えつづけておりました。
そのうちに、あれほど勝つといわれていた戦争も負けて、男の人は、内地にかえれなくなったのであります。
それから、何年かすぎて、無事に外地から帰って来ると、やさしい雪子さんにあって、ぜひお礼をもうしたいものと、手紙でしっていた雪子さんのところをたずねてみたのでありましたが、はげしい空襲(くうしゅう)で、雪子さんはどこに行ったのか、少しもわかりませんでした。
男の人は、いろんな苦しい目に幾度もあいましたが、こうして不思議に内地に帰ってこられたのも、雪子さんが、一日も早く平和がきますようにといって、送ってくれたこのはと笛が、自分を守っていてくれたように思われました。そう思うと、なおさら雪子さんにあってお礼を申したいものだと思いましたが、すっかり焼けてしまったこの付近には、たずねる人もなく、雪子さんにもあえそうにも思われませんでした。それで、男の人は、この付近に住んでいたころには、きっと雪子さんも、このさくらの木をながめたことであろうと、雪子さんの姿を心のなかにえがいて
「どうか、雪子さんも、無事でありますように。」
と、ポケットから、はと笛を取り出すと、桜の木の下で、「ホウ、ホウ、ホウ・・・。」と吹きはじめました。
静かなはと笛の音は、焼け跡の夜に、いつまでもしずかにひびいていました。男の人の思いをこめた、はと笛の音に、さくらの花びらも、ひらひらとしずかにまい落ちました。月夜のさくらの木の根っこに腰をおろして、はと笛を吹いている男の人の目からも、涙がほろほろとおちたようでありました。(おわり)
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