来た道行く道通りゃんせ/風にのって花ひとひら

のんびりしたブログですがよろしくお願いいたします。

弘ちゃんは生きている(1)

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

弘ちゃんは生きている(47)木村徳太郎作(未完)
                ☆
桐久保さん宅を出て、県道に来ると、弘が梶野先生を待っていた。コップ二杯のビールで、目のふちを赤らめた梶野先生は弘を見て少しばつが悪そうだ。
並んで自転車を走らせて、五分もかからずに弘の家につく。
家の表で、弘の父が自転車の荷物台にくくり付けた籠に、空き瓶を放り込んでいた。
「待ってましたんやが見えんので、先に米の配給所まで行って来ようと思ってたところでした」
と、父は籠に空き瓶を放り込むのをやめて言った。
「出かけられるところを悪いですね。また後で来ましょうか」
米の配給所で酒を売っている。相変らず酒を飲んでいて酒を買いに行くのかと、とっさにそのように思った梶野先生に
「空き瓶を売りにいきますのんや」
と、父親は思いがけない事を言う。
「へえっ」
梶野先生は意味が分からない。その納得の行かなさそうな梶野先生に
「明日、学校に持たせてやる金がないので、空き瓶を売って百円の金を作くりますんや」
卑屈めいたところもなく、しゃしゃと言う弘の父。
「学校へ持って行くお金と言いますと」
「算数のけいこ帳の代金六十五円を、まだ持ってこないのはおまえだけやと、弘が言いよります」
算数の練習帳とは、先日、学級の児童に購入させたワークブックのことだろう。代金は係りの学童が集めて先生に渡すことに成っている。
他にもまだ払っていない学童もあるだろうに、気の弱い弘に清算の出来ない不満を、会計係の安達君がぶちまけたと見える。
父親が空き瓶を売って、金をこしらえようとするのを見て、六五円のワークブック代でも、家庭の大きい負担になることを知って梶野先生はすまない思いをした。
「月末までで良いのですよ」
同じ事を学童全部にも言ってあったはずだ。
「明日、どうしても持って行かねばいけないと言いよります」
「良いですよ。係りの子に行っておきましょう」
それを聞いて弘の父は、ほっと安心した様子で、
「月末なら、稼ぎ賃の勘定が貰えて、払いも出来ますが、月の半ばは金なしでとんだ恥じをかくというものです」
と言うがあまり恥かしげもない。言ったあとで大声で笑って、荷物台から籠ごと空き瓶を降ろして、売りに行くことをやめた。
飯米だけつくる半農家の長男の梶野先生は、一万六千円ほどのサラリーだ。それで、両親と弟妹の五人暮らしなので家計は豊かでない。暮らしの苦しさを梶野先生も良く知っているが、父親の遣り繰りを見ると梶野先生のほうが結構な身分だといえる。おまけに、それを苦にもしていないようすで、あけすけに素直に話す明るい顔を見ていると、梶野先生は逆に励まされているような気持になって家の中に入った。
弘をいじめる後妻の、おっ母が真珠玉の糸通しの内職をやっていた。
「とりちらかして、上がってもいただけません。ここで我慢を願います」
長火鉢の横に、弘が持ってきた綿のはみだした座布団を置くと、父親はゴム長靴をぬぎ、長火鉢の向こう側に座って、
「お菓子を買ってこい」と、弘に言いつけた。
「どんなんや」
「上等のうまいのを買ってこい」
「お金は?」
「あほ。つけておいてもろたらええ」
いまだに、購入物は盆と正月に勘定をして払う二回払いの風習が続いていて、いつもは現金を払わないでつけでの買い物だ。
目の前でやりとりしている弘と父親の様子で、梶野先生は自分をもてなす菓子だろうと思い、断わりを言いかけた。が、それよりも早く
「よっしゃ」
元気の良い返事をして、土間に掛けてある大福帳を持つと弘が表に飛びだした。
梶野先生は父親のあけすけな言葉に
「菓子よりうまい物がありますよ」と、表に出て荷物台から、粉川君の家でもらった新聞包みを、気安く取って来た。
「粉川君ところでいただいたものです。一緒に食べませんか」
と、新聞紙を開きかけた。
「それはあきません。持ってお帰り下さい。」
一度はそう言って辞退した父親だが、
「おっ母。皿を持っといで」
と、寿司を入れるために気を配って、おっ母に言葉をかけた。
おっ母は返事をしない。黙ったまま真珠玉の糸通しをやめ、立ち上がって土間におりかけて、
「弘がお世話になりまして、有難う御座います」と、
お義理みたいにぶっきらぼうに言い、盆に茶と皿をのせて持って来た。
父親は、鉄瓶の湯を急須に注ぎ、茶の葉を入れる。
「弘君。近頃、少し元気になったように思いますね」
「そうですか。桐久保さんに自転車を買ってもらってからでしょうか」
自転車で心の紛れるものが出来たことを、弘のために父親は喜んでいる。が、二人の話を耳にしたおっ母が、
「自転車ばっかり乗って、用事が有る時に少しも、いないので困ります。先生、自転車ばかり乗っておらないで、家の用事も手伝うように言ってください。」
とがった高い声で、梶野先生に不服をうったえた。
「何を言う。珍しいものは大人でも嬉しい。子供のことや、がみがみ言うな」
梶野先生が、返事をしないさきに、弘の父がおっ母の口出しをおさえるように言った。
先生の前で、口答えはならないと見えて、おっ母も黙ってしまう。
入った茶をすすりながら、梶野先生は自転車の話をそのままに置き、
「弘君の事ではなく、近頃、桧牧区と自明区の子供たちの仲が悪くって困ります。
これについて、なにか心当りはありませんか」
と、桐久保さんに気安く聞けなかったことを、弘の父に話し掛けた。
「そうでしょう。弘も言っていましたがやっぱりね。これは子供の罪じゃなくて、大人が悪いのです」
弘の父は、問われたことは、なんでも話すのが良いと思っている。言葉を続けて
「もとは、前田から起こったことです。桐久保さんは人ごとのように知らぬ顔ですが、私は区のことを思って、前田が立木を売り、手にした金を一度に返すことは出来ないでしょうから、金に余裕のある桐久保さんが、一時立て替えて自明区の峰垣さんに払っておけば区の争いもおこらなく、こっちの方は前田からぼちぼち返却させればよいでしょうにと思うのですが」
「なるほど」
梶野先生は感心したように弘の父の言ったことにうなづく。
「始めに桧牧区が下刈りをしていたところだから、桧牧区のものやと言ったのが、峰垣さんを意地にさせたのでしょうし、争いとなったいまは、区が違うので、金で解決をつけようと言い出したのです」
弘の父は、争いが起きた事情を再び話つづけた。
「桧牧区のものか、峰垣さんのものか、よく確めておけばよかったのを、境目がはっきりしないから、桐久保さんが伐っても良いと言ったと、前田が理屈を言うばかりで弁償しようとしない。桐久保さんに責任がかかってきます。金の無い前田を相手にするより、山林家で、金持ちで、区の責任者である桐久保さんにあたった方が、峰垣さんも金がとれると思っているのでしょう」
一息にここまで話をして、茶をすすり、区民の間の争いが起こるのは、筋書きどおりだと言わんばかりに
「金がとれないので、峰垣さんが腹をたていらつく。そのあせりが、桧牧区のものに八あたりする。桧牧区のものは、境目のはっきり分からない桧だ。なにを文句をつけると、桐久保さんの尻馬に乗って自明区のものに反発をする」
学童達の感情対立の根の深さを、問題をはぐらかさず父親ははっきりと言った。
「大人の争いが、子供たちに影響しているのですね」
梶野先生もよくのみこめたふうだ。
「その通りです。大人の間がうまくいかなければ、子供に影響するのはあたりまえのことです」
学童間の争いはどうにもならぬと、弘の父は結論付けた。
「学童たちがこんなありさまだと困るのです。解決にもっていく方法はないのでしょうか」
話掛けやすさから、梶野先生は父親に再び問い掛けた。
「桧の争いが治まらない限り、子供の間でも喧嘩が続くでしょう」
「学童のことを桐久保さんに考えてもらって、桧の代金を出していただくことはできぬものでしょうか」
区のことを教師が、解決出来ないし関わりあうのも行き過ぎだ。が、梶野先生は学童の感情の対立を和らげたいと思う心がいっぱいで、つい口出しをしてしまった。
「相手が桐久保さんですから、口出しをしてつむじをまげられると仕事がもらえません。山持ちに逆らえば、百姓でない山稼ぎ人が、この村でどうして暮らしていけますか。困ったことだと思っても、黙っている方が安全です」
山持ちにさからえば、村に住みながら、居辛いことが起こると言う不安が、村人を消極的にさせている。父親もそれを案じているのだ。梶野先生は、桐久保さんは育友会の役員だから、学童のことを理解して欲しいと思う。
「桐久保さんはどうして意固地になって、放っておかれるのですか」
得心がいかないので重ねて訊ねてみた。
「先生は、何もわかっておられまへん。人の批判が悪かろうが、良かろうが、損だとなると一銭の金もだそうとしないのが、金持ち根性です。勘定に合わないことは、耳に入らない。私も永年働かせもらっていますが考えてみると、みなとられています。借りた金の利子を稼いでいるようなもんです。それが分かるのです。分かっていて、村の旦那にたてつけないのです」
弘の父は顔をゆがめて、なにかをこらえているふうだった。

弘ちゃんは生きている(46)木村徳太郎作(未完)
梶野先生が、隆の家を訪問してきた。
宿直の夜貰い風呂や、碁を打ちに行く梶野先生は、桐久保さんの家の様子を良く知っている。桐久保さんが、板の間の長火鉢を間にし来客と話をいているのを見て、黙礼だけをかわして座敷の上がり口に腰を下ろそうとした。
「先生、こちらに上がってくださいな」
梶野先生を見て、桐久保さんの奥さんが台所から出てきて案内した。
梶野先生は靴を脱ぎ座敷にあがる。
山村の農家は、常日頃寝床を敷いたままの所や乱雑の所が多いが、桐久保さん宅は掃除が行き届き、座敷には蒔絵の丸卓が置かれてあった。
奥さんは、部屋の隅の座布団を取り上げて
「ちよっと待って下さい。主人はすぐに用談が終わりますから」と、梶野先生に座布団を渡して、奥さんは茶の用意にでも行くのか台所へ消えた。
一人になった梶野先生の耳に、桐久保さんに金を借りに来ているらしい、来客との話が聞こえてくる。
しばらくして、金の受け渡しが終わったようである。来客が帰って行ったのか
「やあ、待たせました」と、桐久保さんが座敷に入ってきた。
「家庭訪問に廻っているのですが、桐久保さんに村の子供達の事を伺がいたいと思いまして、先にお訪ねしました」
桐久保さんは、村の子供の事と言われて合点がゆかないのか、不審そうな顔で丸卓に出されている菓子をつまんで口にしかけたのをやめ、
「村の子供のことって、どんなことですか?」
と、興味ありげに聞いて今度は茶をとりあげた。
「その前に、隆君のことで担任の私へ仰る要望はありませんか」
梶野先生は、そのほうの話をすませてから村の子供の対抗意識のことを触れたい様子だ。
「べつに有りませんが」
「私もよくお邪魔するのでお家の事もよく分かっており、伺うこともないのですが、隆君は将来大学に行かれますか」
「そこまでは考えていませんが、隆の頭次第です」
桐久保さんは他人事のようにぼかして答え声を出して笑った。が、
「一人息子ですし、親の欲目で出来れば大学へは行かせたと思っています」
桐久保さんはつけ加えて話し出した。
「桐久保さんは経済の心配が無く、それは大丈夫でしょう。それなら、隆君にその心構えを少しでも早く話しをしておかれた方が良いのではありませんか」
村で一、二を争う財産家だ。隆はその家の一人息子なので、とかく甘やかされていると思え、粘り強さに欠けているように梶野先生には思える。隆の悪い面をはっきりとは言えず遠まわしに言ってみた。
「六年生になったところで、まだ中学校も高校もあることですし・・・」
梶野先生の言葉に桐久保さんが反発の様子をみせた。
「実は他の子と同じ事をしていても、隆君は気が向かなければすぐ止めてしまうのです」加えて、経済的に心配のない、お坊ちゃんだから他の児童を見下し、協調性が無く利己的なところがあることを梶野先生は言いたかったのだが、遠慮して話さなかった。
が、桐久保さんは梶野先生の言おうとする思いを受け取り分かったとみえる。
「家ではなるべく、自分ことは自分でやらせ、躾けをやかましく言っているのですが・・・」
と、桐久保さんは思い当たる所があるのか梶野先生に同調しかけてきた。
「一つの物事に意欲を持って根気をつけるために、将来を自覚させるのも良いのじゃありませんか」
話したかったけじめを付けるように梶野先生が言った。
率直に話したのが良かったとみえ、桐久保さんの心がほぐれてきたのか
「私らの子供の頃は親の言いつけは、黙ってやり通すのが良いと躾けられました。戦後は違いますね。親にでも批判して文句を言いますよ」
戦前も戦後も無い。一方に偏るよりも、どちらも考えるべきだと思うが、桐久保さんの戦後のしつけを嘆く思いが、言外に少し匂ってくる。だから、親も強く言えないのだと、自分に都合のよい解釈で理屈と思える持論に触れてきた。梶野先生は、そんな空気を感じた。こんな話をしていると時間がすぐに経つ。
「学校や教師に対して、具体的にお話をお聞かせ願えるようなことはありませんか」
桐久保さんの説をはぐらかせるように、梶野先生は話を変えた。
が、桐久保さんは得心が行かないらしい。
「学校といえば今度の、校長先生、隆も言っていましたが、怖いようですね。近頃の子供は大人を馬鹿にしよりますから、怖い先生のほうが良いですな」
躾けに拘っていると見え、桐久保さんは校長にかこつけて、やっぱり自分の説を続けようとする。
「怖いってどんなことでしょうか」
「よくおまえらときつく言われるそうですね。子供は、頭からおさえて躾けをやってもらわないとあきません。優しいばかりでは、しっかりした人間になれっこありません」
梶野先生は、桐久保さんらしい説だと思った。あわせて、校長の言葉使いを心の中で笑った。
「言葉がきつくっても、子供が心からそう思わない事には、食い違いが出来ておかしいのじゃありませんか」
「いや、子供を躾けて下さる先生の言葉と思いますよ。子供を鍛えようと言う心がしっかりしているから、きつい言葉もで出のです。思いのあらわれと言うものでしょう」
桐久保さんは隆を甘やかせておいて、他人がきつい言葉で子供を躾けることには賛成なのか。梶野先生の思惑を意に解さないとみえて、「おまえら」と話す校長の言葉に感心しているようだ。
「今も平野が来て、金を借りたいと言うことなので、言ってやりましたよ。昔は質素勤勉にして家を治めたものだ。 私の収入は、日に三百円そこそこ。平野は山の木出しをして、日に千円も稼ぐ。そんな者がどうして借金をしなければならなくなるのか、よく考えよといってやりましたよ」
これは、桐久保さんの言い分が筋が立っている。が、躾けに関しての自説を人に得心させるために言っているようにも受け取れる。
日に三百円の収入と言うがそれは、畑作で上がる金で春と秋の二回、山林の間伐の売却金の何十万は、勘定には入っていない。
平野さんに借金を申し込まれるのも財産家で金を持っていると見られているからだ。桐久保さんはそれに気づいていない。
「お貸しになったのですか」
「どうせ返せないと分かっています。それで、田を二反抵当に取って貸しましたよ。五万円貸したのですが、期限が来れば、二反の田が自分の物になります。損はしません。あっはっはは・・・」
桐久保さんは、大声をあげて笑いをやめない。
清廉潔白だと思っていた桐久保さん。貸さないと思っていたのに、先きほど金を貸したのは抵当で、むしろ金が儲かると思う惨いがめつさがそうさせたのだ。
笑って話した桐久保さんに、梶野先生はあきれてしまった。
平野さんの借金は、息子に嫁を取る結納金だと言う。年が来れば嫁をもらう事は分かっていて蓄えておいた金を博打に取られたと言う。その借金を、意見しないで損得の算盤で貸した桐久保さんの、非人情が山持ちの旦那で大らかな道義的な人とみていたのは、どうやら間違っていたと梶野先生は思った。
奥さんが、小皿に盛った、ソーセージとビールを持って来た。桐久保さんは
「お茶代わりです。一つどうぞ」
と、コップをとりあげ、梶野先生に渡してビールをすすめた。
家庭訪問も勤務中だ。薦められて梶野先生はとまどったようすだ。
「先生よろしいでしょう。召し上がりください」
奥さんが横からお愛想を言った。
「先生。仕事中でいけないと言われれば、私が薦めたんだと言いますよ」。
桐久保さんは、先生の行動まで意のままになると思っているのか。それともお世辞なのか、梶野先生が断わるのを押し切って、コップにビールを注いだ。
「ごゆっくりして下さいませ」
梶野先生に、奥さんが再びお愛想を言い、
「無くなれば知らせてください」
桐久保さんに言って台所に下がって行った。
「お茶がわりです」
梶野先生に再び薦め、桐久保さんはコップを持つとビールを一息にのみほし、ソーセージを一切れつまんだ。
「先生。村の子供のことと仰ったが、子供がどうかしたんですか」
ビールを飲むと気持に余裕が出来たとみえて、桐久保さんは心安げに尋ねた。
「隆君のことは、またお話するとしまして、別なことなのですが、最近、桧牧区と自明区の子供たちが、仲たがいをしているふうに思えるのです。それについて何か心あたりが有りませんか」
梶野先生は学童たちのことを聞くといっしょに、自明区の粉川君の母親から聞いた、学級委員の選挙の事を話した。
ビールを飲んでいた和らげな表情が変わって、桐久保さんは緊張した顔つきになって、学級委員選挙の話を聞き終えると
「桧牧区と、自明区のもめごとの始まりは、桧の伐採です。それに嶽登りに神酒のごまかしで喧嘩。前田にも困ったものです。おまけに人を誘って賭博までする」
桐久保さんは、桧牧区と自明区の学童間の感情の対立の全てを良く知っている風だ。
それを聞いて梶野先生は、いつか桐久保さんに言ったことを再び、「前田さんもいけないが、自明区の峰垣さんの立木を伐った、その手違いが原因だから、村の指導的立場の桐久保さんとして、解決への策をどうしてたてないのですか」と、言いたかった。が、言って桐久保さんの心をたかぶらせて、ことが面倒になると困るので言わなかった。
梶野先生が黙ったので、桐久保さんは自説が受け入れられたと思う満足感からなのか、それともビールの酔いの心地良さなのか、腕時計を見て
「次に廻ろうと思いますから、今日はこれで失礼します」
と、立ち上がった梶野先生に
「まあいいじゃありませんか。私ばかり飲んで。先生も少し位ならいいでしょう」
と、しっこくビールをすすめ、のころ少なくなったビールに気づき、台所にいる奥さんの方へ追加を言った。
桐久保さんを意固地にならせないため、梶野先生は少しはよかろうと、差し出されたコップに初めて手をつけて、桐久保さんの意に従ったのである。

弘ちゃんは生きている(45)
                 ☆
祝賀の旗行進の二日後、学級委員の選挙が行われた。六年学級は、桧牧区の炭谷君の票が一番多かった。炭谷君の成績は下のほうでいままでの選挙に名前が出ことはない。その炭谷くんと票を争そった、自明区の奥田君にしても同じことである。
票数がいつも多いのは、松田君、あや子、隆で、票は出たが問題にならないほど少なかった。
五年生のときの松田君に代わって、票数の一番多い炭谷君が、学級委員になった。
学童は、自分の区の喧嘩大将に票を入れている。桧牧区、自明区の学童の対抗意識がこの選挙でよくうかがえた。
その疑惑をいだかされる学級委員に、今日は委嘱状を渡す日だ。運動場に学年別に全学童が並んだ。
「おまえらの学級委員が選ばれた。委員の名を呼ぶから前にで出なさい。それと、今日はお昼から担任の先生らが、勉強の事でおまえらの家へ行かれる」校長が話を始めると、
「おまえら」と言うのがおかしいのか学童は笑いたくなる。高学年生が、目と目で笑いあっている。その中に、「するめ」と、号令をかけた松田君だけが、自分が笑われていると思うのか顔をしかめて聞いている。梶野先生も不愉快なのか、やはりにが虫を噛みつぶしたような顔だ。
話が終って委員に選ばれた学童の名を一年、二年と順次読み上げる。
名を呼ばれて学童が前に出る。
梶野先生はその学童を注意して見ていた。
六年生は喧嘩大将の炭谷君が委員に選ばれたように、四年も五年もあきらかに委員として適当と思われない腕白者で、学級に信望のないものが選ばれている。前に出て横一列に並んだ学童に委員の委嘱状を校長が手渡しした。
「この前にいるみなさんは、おまえらに選ばれて今日から学級の面倒をみられる。選ばれた皆さんは学級をよくまとめて、みんながいっそう勉強に励めるよう心がけて下さい」
桧牧区と自明区の学童の対抗感情を校長は気付いていない。それにつながって話はなにも出ずに、家庭訪問のことを少しつけ加えて言っただけで、委嘱状を渡す行事が終った。
拡声器から行進曲が流れ、いま委嘱状を渡された学級委員の先導で各学年の教室へ、全児童が分かれて入って行った。
六年の学級は、算数、音楽、体操の三時限で今日は終りだ。
三時限が終って梶野先生が教員室にもどると、他の先生は家庭訪問に行くために少し早い昼食をとっている。梶野先生も昼食を食べ、校長に家庭訪問予定を伝えて自転車で自明区の学童の家に向った。
県道を東に三キロ走り自転車を農家に預けて、幅が二mほどの山道を一キロ登って、粉川君の家に着いた。
「今日は」
梶野先生が土間に入ると粉川君の母親が、梶野先生の訪問を待っていていつもの仕事着ではなく、上等の普段着を着ていた。
「ご苦労様です。どうぞ、おあがり下さい。」
奥座敷へ招きいれようとするのを、
「他の家にも廻りますので、失礼してここで伺いましょう。」
と、断わって梶野先生は、板の間の上がり口に腰を下ろした。
「粉川君の希望や将来について、お考えが有りませんか」
母親はすぐには答えない。
どこの母親も我が子の将来については、あまり考えていないと見えて、目先の事ばかりを尋ねたがる。よい成績をとることばかりを考えているらしい。
「粉川君の成績は悪くはありません。将来をどのように望まれますか」
「そりゃ・・・」
と、言って後を言わないで母親は愛想笑いをしているだけ。答えない。
教育が義務で世間の皆が学校に行くから、我が子もそれに倣っているだけとしか思っていない様子だ。
教育が義務でなければ、ひよっとすると生活の糧をうるために学童も労働力に借り出されて、教育を受けないで成人になるかもしれない。
一ヘクタール近くの水田を所有していて、裕福と思える粉川君の家庭でさえこのありさまだ。しかし、六年生になったばかりの粉川君の将来を、訊ねる梶野先生のほうがお節介なのかもしれない。
「何も御座いませんが、お昼と思って有り合わせで作っておきました。一寸、お待ち下さい」思いついた風に母親が言い、立ち上がって台所に行ってわざわざ作っておいたのだろう、皿に盛った巻き寿司を持って来た。
「学校ですませてきましたから、結構ですよ」
断わった梶野先生に
「どうか、召し上がって下さい」
母親は執拗にすすめ梶野先生の断わりの言葉を受け付けない。梶野先生はお愛想に一つ、巻き寿司を口に入れた。
粉川君の将来について何も話されなかった母親は、梶野先生が寿司を食べたのを見て、気安くなったのか、
「近頃、自明区と桧牧区の子がよく喧嘩をすると聞いていますが、学校のなかでもそうなのでしょうか」
山村で話題に乏しく、自分の家につながることは言いたがらないが、他人の事になると、心のうさばらしのようになかなか熱心に話しはじめる。
梶野先生は、粉川君のことだけを話したい。だから、横に逸れた話は家庭訪問にならないと、「さあ・・・・」と、考えこむ風で答えない。と、粉川君の母親は、
「子供から聞きましたが、学級委員の選挙は悪戯ものの喧嘩の強い子に、票を入れるよう、友達にそそのかされたと言いますが」と、
梶野先生の感情の動きを見つけて逃がさないと言った様子である。
梶野先生は、すでに学童間の感情の対立を感じていた。が、知らぬ風を装って、
「そうだとしたら、うかつな事です本当なのでしょうか」
と訊ねた。
「強い子に票を入れておかないと、桧牧区の子に苛められた時かばってもらえないからと言っています」
「そうですか」
母親は子供たちの対立を梶野先生に話した事で満足そうだが、これは問題が大きすぎる。立ち入った話を続けると、泥沼に足をふみいれるようなものだ。梶野先生はあいまいに返事をして腕時計に目をやり、
「そのことは、今後注意します。次に行かねばなりませんから・・・」
と、立ちあがった。
「どうかもっと召し上がって下さい。よければ包みましょう」
巻き寿司を食べない梶野先生の皿を母親は台所に持っていった。
梶野先生は母親が包みにするのを持たずに表に出ると、粉川君がいた。梶野先生と顔を合わせてにやりと笑う。外で家の中の会話を伺っていたのだろう。梶野先生は粉川君を見て幸いとばかり、
「お母さんに聞いたが、学級委員の選挙は力の強い物が力ずくで誰かに票を入れるように決めたの?」と、訊ねてみた。
「はいっ。桧牧区のものは炭谷君にいれるから、自明区は奥田君に入れました。そうしないと喧嘩した時負けて泣かされます」ふくむところがなく、子供らしい単純さではっきりと答える。
「そのようなこと、なぜ先生に言ってくれないの」梶野先生は愚痴をこぼして、それから
「粉川君、ここから学校に通うのは大変だな」と、話をかえて、粉川君を愛とおしむように言った。
「夏はいいけど、冬は厭です。雨や雪の日は学校に行くのがおとましい(つらい)です」
はきはきと笑顔で粉川君は答えた。
粉川君の素直な返事と笑らった顔を見て、梶野先生は心に踏ん切りが着いたのか帰りかけた。と、巻き寿司の残りを新聞包みにして、母親が持って来た。
梶野先生はお礼を言って、包みを受け取って小脇にかかえると、粉川君と母親に見送られて山道を降りていった。
下りは足の力を入れなくっとも、足は一人でに動き軽るい。
例年、新学期になると受け持ち児童の家を訪ねるが、何処に行っても粉川君の家と同じようなもの。父兄はその場をつくろうだけで心に触れるものがなく、なにか満たされない。が、今日は委員の選挙のことを聞かされて梶野先生は心になんとなく引っ掛った。
県道に出て、預けた自転車の荷台に、新聞包みを括りつけながら粉川君に聞いた学級委員選挙のことを、梶野先生は確めてみたいと、自明区の次ぎの家を廻る予定をかえて、隆か弘の家に行ってみようと自転車を桧牧区に向けた。
委員選挙のことに、思いをめぐらせ県道を走っていると、
「先生っ!」
大声をかけて、隆と弘が自転車で追ってきた。
梶野先生は、「隆君、お父さんはお家かね」と、自転車をとめて隆に尋ねてみた。
「はい、先生が家庭訪問で家にくるかもしれないと言って待っていました。」
隆の言葉に、「じゃあ一緒に行こう」
と、すぐ隆の家に行くことを決めてペダルをふむ足に力をこめた。
自転車が完全に乗れるようになって、用事ではなくどちらも遊び乗りをしていたので、梶野先生をみつけて追ってきたのだろう。
「トラックや乗用車が来ると危ないから、よく気をつけてなさい」と、注意する梶野先生に「大丈夫。もう手を離しても乗れます。」
弘が、梶野先生の横を自慢気にハンドルの手離しで通り過ごし、
「僕の家へも来てくれますか」と、大声で訊ねた。
「隆君とこが終ったら、君の家に行こう」
「嬉しい。先に帰ってお父っあんに知らせてくる」
梶野先生の予定を聞き、弘はハンドルを握りしめ嬉しげにスピードを出して走って行った。
桐久保さんに自転車を買ってもらってから明るく元気になった弘。それに引き換え父親はやっぱり深酒をやっているか、母親は相変らず弘に辛く当っているのだろうかと、走って行く弘の後ろ姿を見て様々なことを思いながら、梶野先生は隆の家に向った

弘ちゃんは生きている(44)
 各学級委員が、日の丸の小旗を持って運動場に出てきた。
各学年を整列させ、その前に各担任の先生が立った。
「今日はよその学校もきていますから、行儀良くして笑われないようにしましょう」
平岡先生の注意があって、町村合併の祝賀の旗行列に行くため、六年生の学級委員の松田君が
「するめ」と、発進の号令を全児童に聞えるように大声で掛けた。
松田君は、どもるくせがある。いつの朝例会の時もそうだったが、旗行列で心がたかぶったと見えて、「進め」が「するめ」といっそうはっきりと訛まった。
高学年生たちが、げらげらと笑った。
その笑い声で一年生がとまどって歩き出さない。
その様子に松田君があせって頬を赤くさせ、二度も号令をかけた。やっぱり「するめ」と聞える。
校長の「おまえら」が、学童に深く印象つけられていたのにつながって、普段は気にならなかった松田君の「するめ」を、きづかせたのだろう。
松田君にかわって平岡先生の掛け声で、やっと一年生から歩きはじめた。
宇陀川にそって県道を町にむかってあるきながら、学童たちは「おまえら」と「するめ」のおかしさを話しあって騒がしい。
先生たちも同じように可笑しいのか、笑って叱言がなかった。
祝賀の花火が、町の空をふるわせている。学童は、村が町になった事と、どのような行事が催されるのかと興味心で式場に一刻も早く着きたいと、紙の小旗を振りながら元気に足を運んでいる。
駅前の広場に着く。紅白の幕で飾った急設の舞台がもうけられ、拡声器から音楽が騒がしい。
舞台では昼から演芸があるが、学童は広場を一周して学校に帰るので演芸は見られない。
旗行列で来た学童に、町村合併記念の文字が入っている鉛筆を役場の史員が一本づつ配っている。
鉛筆をもらって、その場から遠く離れないように先生から注意があって、広場の一隅で学童たちは行進の疲れをやすめた。
その間に疲れを知らぬ学童の何人かが、めいめい勝手な遊びを始めた。
桧牧区のあや子、由子、前田朝子が石蹴りを始めた。
そこへ、委員の松田君が、追っかけごっこで奥田君に追われて来た。その時偶然、前田朝子の蹴った石が運悪く松田君の足に当った。
「痛い、気をつけんか」
男の子は女の子にあらっぽい口調でものを言う。松田君もその例にもれない。
「なに言ってるの。あんたから当りに来たんじゃないの」
女の子は男の子にへりくだった口調で言う。が、朝子はこの例に入らない。口調荒くやりかえした。
「なにいっ。もう一度いってみろっ」
松田君が手を振り上げ、朝子に言葉の返しをしょうとする。と、横から
「するめ委員さん。怒らないで、向こうへするめてくださいな」
あや子が松田君へ茶化かして言った。
あや子の言葉に瞬間、松田君は照れて手を引っ込めたが、
「女のくせに生意気な。男をからかうのか」
今度は朝子だけでなく、あや子にもくってかかって、
「石をあてておいてあやまらんのか。こいつ」
と、石蹴りの石を拾うと、朝子の腰に投げた。
「なにするのっ」
朝子はすばやく小石をひらって松田君へ投げ返した。その剣幕に松田君がひるんで、二歩ばかり後ろにさがって、始めに自分が石をなげたことを忘れて
「や〜い。自明区の木を盗んだ、盗人の子」心の片隅にあった、酷い言葉を口にして喚いた。
盗人と言われて、気の強い朝子が泣き出す。泣きながら再び小石を拾って松田君になげた。小石を手で受け払った松田君が、手の甲に傷をした。
「女のくせになにをする」
傍に居た奥田君が朝子を止める。が、「盗人の子」と言われて、いきりたった朝子は止める奥田君の手を振り払らって、松田君に向かって行った。
その激しさに、奥田君はおもわず、力いっぱい朝子をつきとばしてしまった。
朝子は倒れたがすぐに立ちあがり、ヒステリックに泣きじゃくりながら土くれを手に持ち、めくらめっぽうに松田君と奥田君のどちらにも投げ始める。目に土くれが入って奥田君が怒り出した。
嶽登りからこちら、桧牧区の子供を敵視している所へ、区の争いのもとになった前田さんの娘である。心のどこかに軽蔑の念があったのだろう。朝子の頭髪を掴んで、力まかせにひっぱりまわす。
泣きわめき、もがきながら、奥田君に手をかけて逆らう朝子。
負けぬ気でも女は弱い。自明区の子供大将の奥田くんにはかなわない。
たまりかねて、あや子が
「やめてっ。奥田さん」二人の中に止めに入る。
その間に由子が、桧牧区の六年生に喧嘩を知らせたと見えて、炭谷君が駆けつけて、朝子の頭髪をひっぱっている奥田君の後ろにまわり、がんと、力いっぱいなぐった。殴られた奥田君は、朝子の頭髪を離し振り返る。
桧牧区と自明区の大将株と自他共に認められている二人だが、まだ争ったことはない。
他の子供たちが、まわりに集ってきたが、誰も口出しをしない。
桧牧区と自明区の区民の対抗意識が子供にもくすぶっている。
桧牧区の子供は炭谷君の後ろ。自明区の子供は奥田君の後ろに、助っ人のように寄りかたまった。
二つの集団がお互い相手の、憎まれ口をかわしはじめた。
喧嘩が大きくなりそうだ。が、誰かが知らせたのだろう。梶野先生が急いでやって来た。
先生を見て、みんなの気勢いが少し薄れ朝子の泣き声だけがいっそう激しくなる。
「どうした。泣くなっ」
朝子に言い続けて
「まあいい。事情は学校に帰って聞こう。みんな集っている所へもどりなさい」
さすがに先生の言いつけだ。一時はどうなるかと思ったが、そのまま学童たちは平岡先生と、生徒たちが休んでいるところに、じりじりともどり始めた。梶野先生の話を聞き、すぐ全学童を集合させて学校へ戻ることを平岡先生が、皆に伝えた。
学童達は二列に並んで帰り始める。
道中、炭谷くんと奥田君の感情の高ぶりが、自然と桧牧区、自明区の学童の敵対心を煽るとみえて、相手方の陰口がやまない。
平岡先生は気づかないが、梶野先生には心につきささるようによくそれが分かる。
学校に帰り着いた。
道中、耐えていたのか、平岡先生は怒りをあらわにした口調で、運動場に整列した全学童に、
「多くの人がいるところで、喧嘩をして多くの人に迷惑をかけたことになり、本校の恥をさらけだしたようなものです。大変困ったことだと思います」と、旗行進の反省を強く求め、「一年生は、遠い道をよく歩いてくれました。立派だったと嬉しく思います」と、
一年生に向って言葉を和らげて笑ってほめ、全学童を解散下校させて、一日の行事が終わった。

弘ちゃんは生きている(43)未完 木村徳太郎
                 ☆
四月十二日、午前は入学式。終了後に合併の旗行列。旗行列に学童が出発した後、校舎増築に関係した大人たちの祝賀会が催される。
新校舎落成の祝いと、新入学の一年生も町村合併の祝賀旗行列に参加のため、例年よりおくれて入学式が行われたのである。
村立の学校も今日から町立になる。弘も隆も六年生。最上級生の誇りをもって校門をくぐった。
新しく赴任して来られた校長先生に、学童達は新しいものに眼を向ける好奇心が、胸いっぱいに広がっている。と言うのは、嶽のぼりの翌日の卒業式に、池田校長が増築校舎が出来た喜びと、退職の挨拶を全児童に話し終わっていた。
「弘君が木から落ちて怪我をした時、宿直室で寝ていたやろ。あの時、校長と教室を見回ってきた人が来ている。おまえ、あの時、今度来る校長やと言ったがやっぱりそうらしい。おれ、教員室の窓から覗いていま見てきた」と、新しい校長の事を、興味深かそうに炭谷君が言う。
隆は新しく赴任して来る校長のことを、父の桐久保さんに聞いて、そんな心持がしたのであのとき言ったまでだが、隆は自慢気に「やっぱりそうやったやろ」と、炭谷君に答えた。
「おまえとこのお父さんは、役員さんやからよう知っとるんのんやな」
隆の自慢気な言葉に炭谷君は卑屈な口を聞く。
隆や炭谷君が校長の噂をしていると、
「自明区の遠藤のおっちゃんを呼んで来て頂戴な」と、用務員さんがやってきて、炭谷君に言った。
「どうして、俺が探してこんならんとあかんのや」言いつけられたのが不服なのだろう、炭谷くんが口答えをする。
「今度来た校長さんが呼んでられるんや」
炭谷君の生意気な口答えが腹立たしそうに用務員さんが言う。
「新しい校長さんが、なんの用や」
再び炭谷君が人をおちょくったように聞くと
「おれが探してきたろ」と、
弘が親切に横から口をはさんだ。
用務員さんは、「ほんまに、この子はなまいきな子やな」と炭谷くんに不平をこぼし、
「弘ちゃんは優しくって親切やわ」
と、駆け出して行った弘のことを、その場のみんなに聞えよがしに言って褒めている。
弘は運動場を横切って、新校舎の近くに新入生とつきそいの父兄が集っている所へ行った。
一年生の遠藤文子のそばに、自明区の奥田君や山根君たちがいた。
「遠藤のおっちゃんを知らんか」と奥田君に尋ねると、
「隆の子分、なにしにきたんや」と、弘が訊ねていることに答えず意地悪い言葉を奥田君が返す。
瞬間、弘は嶽のぼりからこちら、桧牧区と自明区の間の気詰まりを感じたが、すぐ
「今度来られた校長先生が、呼んでおられるんや」と、
奥田君の機嫌をそこねまいと弱い声で用務員さんの用件を伝えた。
友達間の事でなく校長の用件と知って
「よっしゃ、呼んで来たろ」
と、真面目になって弘の言葉を聞き、今度は奥田君がその場を離れて遠藤さんを呼びに行った。
その様子に弘は安心して、もとへ帰りかけると、山根君が
「今度来られた校長さんは、遠藤さんの親戚やで、おまえら知らんやろ」と、
赴任してきた校長が、自明区の遠藤さんの親だと自慢気に、敵視している桧牧区の弘に言う。
それを聞くと、新しい校長は自明区の生徒の先生で、桧牧区の子供にはつながりのない先生のような気分に弘はなった。が、
「それがどうした。俺たちになんの関係が有るんや」
とやりかえし、山根君がさらにからかうのを聞き流して、引き返していった。そして、
「山根君が校長先生は遠藤さんの親戚やと言うとるで」といま聞いてきたことを、口惜しそうに隆の所に集まっている桧牧区の子供たちに言う。
「なんじゃ、今度来た校長は自明区の奴の親類か」
それを聞いて炭谷君が、反発的な口調ではきだすように言う。
自明区の子供たちへの対抗意識が、炭谷君の言葉で新しい校長になんとなく、なじめない思いが、隆や桧牧区の子供たちに少し芽生えるようだった。
そのとき、式の始まる時限の鐘が鳴った。
着飾った父兄が新入生をつれて新しい校舎の式場に向っていく。
梶野先生、伊藤先生、田中先生たちが、主任の平岡先生の指図で来賓を式場に案内していく。
先生の新しい洋服、常には見られない来賓に学童は、心を引き締められるのかいつもよく騒ぐのに、今日はおとなしく整然と式場に入って行く。
正面に国旗がつりさげられ、真っ赤な日の丸が目にしみるように美しく、右手より桜の下枝が活けられてふくいくと香っている。
一番前に新入生、次に二年生、三年、四年の順に座りつく。六年生の後ろに新入生の父兄が座った。
先生たちは正面の右。左は来賓の席で、教育長、育友会長、役員が座っている。そこに桐久保さんも座っていた。
平岡先生の知らせで式がはじまって校長が演壇に立った。
「おまえらの校長としてこの学校に来ました。新しい校舎も出来て、おまえらも幸福だと思います。この喜びを生かしておまえらは、さらに勉強に励みなさい」
歯切れが良くて声がはねかえるようだ。
新しい校長の癖なのか話の中に、「おまえら」が、たびたびと出てきて学童も父兄も一寸おかしげな顔付きだ。
「終わりに一言。退職された池田校長からも聞いておられることで、私も本日学校に来まして最もだと思いましたが、立派な校舎が出来、生徒も百五十名近くになりました今日、水を一つの井戸に頼っていて、飲み水として良くないし、用水にも不足です。ついてはおまえら学童のため、この壇上から、父兄に一言お願いさせていただきます。校区内の遠藤さんが、水道工事をおこなっておられますので先ほど工事見積もりをお願いしておいたのであります」
学童の桧牧区の隆や弘や自明区の奥田君は、校長が遠藤さんを呼んだ意味が分かった。
「いずれ、育友会や、区のみなさんに、充実した学校にするため就任の挨拶をかねて、本日ここにお見えになっているみなさんに、まずお願いしておきます」
式の始まる前に教育委員、育友会役員が集って水道を引く話の打ち合わせがあったとみえて、校長の話が終ると、来賓席からさかんに拍手がなった。
校長の話が終って、平岡先生が各学年の担任の先生を紹介した。六年生は持ち上がりで同じ梶野先生である。
最後の来賓のお祝いの言葉があって入学式の行事が終わり、
「今度、村が町に合併しました。そのお祝いにこれから町の式場へ旗行列をします。運動場に出て各学年の委員は旗を配ってください。その前に、この式場の椅子を各学年の教室へ元通り運んで下さい」
式場の四年生以上の学童に平岡先生が大声で言った。
式場は、校長、教育委員、育友会役員、町議の文教委員たちが、増築校舎落成の祝宴を開くのにこれから使われる。
学童はそれには関係が無い。校舎の出来た喜びは、学童よりも祝宴の酒盛を始めるその人たちのはずみのほうが目立った。
新入生の父兄は、担任になった先生に必要以上の挨拶をくりかえし、新入生を心配げに残して帰って行った。
形にはめてしめつけられていた個々の物が、形が壊れてもとの自由の個々に生き返ったように学童は騒ぎながら廊下に出ていく。
「あの校長さん。おまえら、おまえらと恐いこっちゃな」
自明区の山根君が大声で言った。
「ほんまや、おまえら先生や」
奥田君が答えて、渾名をきめたように言った。
式場の行事は学童の頭の中には何も印象づけられていない。校長の「おまえら」の言葉だけが、残ったと見えて廊下を歩きながら、「おまえら」「おまえら」を連発してお互いに騒ぎ笑っている。


.
花ひとひら
花ひとひら
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
友だち(7)
  • plo*er_*un*yama
  • ハマギク
  • こうげつ
  • 吉野の宮司
  • まんまるネコ
  • ++アイサイ
友だち一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事