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木村徳太郎

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木村徳太郎

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新イソップ物語
奈良日日新聞昭和25年10月30日    木村徳太郎
 原書の原意を変えずに読みやすく、子供にも大人にも楽しめるもので、本社ではきょうから、連載致します
蛇と蛙 
 一匹の蛇が水を呑もうと思って、池に来ますと、ふと一匹の蛙を見つけました。
 蛇は蛙を食べようと、理屈をつけて、食われても仕方がないようにと、怒り声をあげると、「こら、お前はなぜ俺が呑もうとする水をにごすのだ」と、言いました。
蛙は大変びっくりして、「私はもともと池に住んでいるもので、あなたこそ、他所からお越しになったのではありませんか」と、優しく言いましたが、「うむ・・・・・・。そりゃそうでも、お前は悪い奴じゃ。去年もゲロゲロ、今日もゲロゲロと、僕の悪口ばかり言っとるではないか」「いいえ、悪口ではありません。歌をうたっているのです。それに去年と言われますが、僕は去年は生まれておりません」
 それを聞くと、蛇はもう争うのも、駄目だと思って「えい、面倒くさい。きさまでなければ、きさまの仲間か、きさまの親爺にちがいない。どちらにしても同じ事だ」と、
いきなりとびつくと、蛙をぱくりと呑みこんでしまいました。

☆人は悪いことをしようとする時は、勝手な理屈をつけるものです。
木村徳太郎著

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新イソップ物語
奈良日日新聞昭和25年10月27日     木村徳太郎
 原書の原意を変えずに読みやすく、子供にも大人にも楽しめるもので、本社ではきょうから、連載致します。
「犬の影」 
 一匹の犬が肉をくわえて、橋のところにやって来ました。そして、澄み切った川の面に、自分よりも大きな肉をくわえている、影の犬を見つけると、「あんなおおきなのが欲しいなぁ」と、一人言をいつて、おもはずくわえている肉を、川のなかえ落としてしまいました。肉はみるみるうちに川底へ沈んでいきました。

☆あまり欲ばることより、足ることを知れ。
木村徳太郎著

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更生した少年たち
毎日新聞昭和二十六年三月     木村徳太郎
  近ころ新聞などに「更生せる犯罪少年」として教護院の児童たちが社会奉仕をしている写真や記事などがよく出ていて、世間では簡単に朗らかなニュースとして受け取っている。
 しかし、その児童たちが罪を犯した基因の多くは、彼らには何かが欠けていてその欠けているのもを社会が満してやらなかったためだということを考えてみると、そう簡単に社会が喜ぶのは理屈が成り立たない。「君の欠けていたものを満たす事が出来なくて申し訳ない」と社会はむしろ罪を犯した子供たちにわび、心の持ち方の足りなかったことを反省してみる筋合いのものであろう。
 児童福祉法 第二条にも国および地方公共団体は児童の保護者とともに児童を心身ともに健やかに育成する責任を負うとあるが、心身ともに健やかに育成されなかった児童は「更生せる犯罪少年」でなく、責任を忘れた社会の犠牲者である。罪を犯したのはむしろ社会そのものだとさえいえるであろう。
 もっとも児童施設も、児童福祉司も児童委員もあって、そういう施設や組織で社会は責任を果たしているというかも知れないが、実際はすでに罪を犯した児童や犯しそうな児童ばかりが対照で「更生せる犯罪少年」の見解から一歩もすすんでいない。
 その意味で収容所などの消極的な施設や組織よりも、むしろそういう欠けた児童たちをなくすような、積極面にもっと金を使うべきであろう。罪を犯した児童を待つのでなく、起す基因を見つけてなくするよう心がけるべきだと思う(児童文学者)


(木村徳太郎著 ・少年小説「よみがえる少年たち」近畿図書)
があります。きっと上の記事の昭和26年ごろの作品だと思います。私の手元にはありません。もしお心当たりの有る方はお知らせいただけないでしょうか。よろしくお願い致します。

木村徳太郎

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ぐらつく童話作家
「お話の木」昭和三十六年七月     木村徳太郎
<童話作家は、児童の生活を知らなさ過ぎるか>  
  小さい子供に__となりの部屋にお茶碗があって、障子をあけて、あやまってお茶碗を五つ割った時と、お父さんお母さんの留守の時、戸棚からお菓子を内緒で取ろうと思って、不用意にお茶碗を落として二つ割る。このお茶碗を割った二つの行為のうち、どちらの行為のほうがいけないでしょう__とたずねてごらんなさい。となりの部屋のお茶碗をあやまちであったにしろ、五つ割ったほうが、悪いことだと、きっと答えるでしょう。
 私たちは、戸棚の中のお茶碗を落として割ったのが、数が少なく二つであったにしろ、このほうが人間として生きて行く場合、となりの部屋のお茶碗をあやまって五つ割ったよりもずっと悪い行為としてうけとるでしょう。それが、ちいさい子供にはわかりません。過ちであったにしろ、五つ割ったほうが、ずっと罪が重いように感じ思っているのです。
 幼稚な頭では、割れるまでの行為の善悪を判断することは出来ません。五つ割ったことは、二つ割ったことよりも、大きな罪悪感となり、数のうえで、善悪の判断をしてしまうのです。
 私たちの書く童話は、この盲点をつく童話であってほしいと思います。五つ割ったことは、二つ割ったことよりも、悪いことであってはたまりません。数が少ないにしろ、二つ割ったほうがずと悪い行いであるということを知らせるべき童話をかゝねばならないのです。 
 こんな事をしゃべったら、「あほな事をいうな、小さい子供じゃあるまいし、そんな事わかりきった事じゃ」と、おっしゃるかも知れません。が、よくよく考えてみて下さい。
 今日の世の中は、大人でさえ、あやまって五つ割ったことよりも、例え悪意にしろ、二つ割ったほうが、結果的には数が少なくて、このほうが罪が軽いと判断している輩が、いるのではありませんか。そうとしか、うけとれない行為に、日常なれっこになっているのではありませんか。心より物、心の美しさよりも、物の豊富を願う、馬鹿げた思想なり、唯物的にものを判断する合理主義かどうか知りませんが、これは人間社会をより醜くするためとしか、うけとれない風潮です。
 児童文学に苦悩することに衿を感ずる我々は、時代遅れかもしれませんが、幼い子どもに、心の美しさに目覚める事を叫びつづけ、それが当世風にみてあやまっているかどうか私にはわからなくっても、私は、二つ割っただけにしろ、五つ割った行為よりも、それが悪いことだという考えを知らせる、童話を書いていきたいと思っています。
 この一つの事例で、世の中のことを思ってもみて下さい。子供の世界だけではありません。子供や児童文学に一番関連のある学校の先生でさえ、教職組合をつくって、月給賃上げの闘争をやる。こんな馬鹿げた阿呆なことがあるものですか。先生とはそんなものじゃないと思います。=生活の保証をされないで、何が出来るか=という、あまのじゃく的な考え方の教師、こんな教師に、児童の魂を純化させる児童文学の仕事をまかせておけるものじゃない。新しい生き方かどうかは知りませんが、そんなものではない。それにも関わらず、児童文学者自体の間でも「童話作家は、児童の生活を知らなさ過ぎる」と言う、ちゃちな先生のご批判を気にして、それに頭をさげていく馬鹿げた卑怯者がいるのです。そんなことでは、良い童話が生まれるはずもありません。我々児童文学者は、そのような教師と、まず手を切ることです。
 筆が走ってしまった。悪気じゃない。そんな先生ばかりでもないことは、言い添えておきますが。
 五つ割ったことよりも、二つ割ったほうが合理的だと、理屈ばかり考えている教師が非常に多いということを言いたかったのです。
 それだけじゃない。どんな理由にしろ、結果的にみて、五つ割ったよりも、二つ割ったほうが、罪が軽いと判断する大人たちのなんと多いことか。
街を歩いてもみたまえ、オフィス通いの女性が、務めに出て働く、仕事をするのでありながら、耳に飾りをつけてござる。働くということと耳飾をつけることと、どのような関連があるのだろう。それはまた、「生活を楽しく明るく」なんて言って、それを当世風にけしかけている、馬鹿げた大人のいる事だ。
 若い連中が、強盗や人殺しを平気でやる。彼らは働く意志の尊さよりも、働いて得る賃金ばかりを願って、手段方法を選ばない。結果的に見て、大金がとれれば、そのほうが合理的なのだ。
 原爆、水爆にしろそうだ。二つ割ったことは五つ割ったことよりも数が少なくて、罪が軽いという、唯物的な合理主義が、つくらしめるのだ。人生なんてそんなものじゃない。私の考えはそうじゃない。二つ割ったことよりも、あやまって五つ割ったことのほうが、全て正しいとは言はないが、救われるように思うのだ。救われるものでありたい。この救われると思うものを、われわれは童話に書いていきたいのだ。
 そんな意味で、近頃の児童文学界の、どんな理由があるにせよ、五つ割ったことは、二つ割ったことよりも、結果的に罪が重いと言うような、理屈ばかりを探してきて、童話を書いているような現状をみると、私は嘆かわれてならない。幼児の魂の技師であるべき童話作家が、そのわかりきったことさえ、今の世間の風潮に流されてぐらついているのだ。そんなことでは、いい童話が生まれてくるはずがない。

木村徳太郎

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三つの流れの回顧 木村徳太郎
「読売新聞」 昭和二十七年十二月
 
 今年の児童文学界を回顧してみると、三つの流れを知ることが出来る。その一つは、長編童話への機運で、児童文学者協会の定例第四回研究会にも、長編童話をめぐる問題がとりあげられ、テキストとして「母のない子と子のない母と」「五十一番目のザボン」「三太物語」をめぐつて、もっと劇的な筋の発展、リアリズムの不徹底等について、活発な論戦が繰り広げられ、また「にせ者よさようなら」等の長編創作童話が発表されて、児童文学界に長編創作童話への関心が高まったことは、非常に注目すべき流れであった。
 それと、一つの大きな流れは、無着成恭氏の「やまびこ学校」以来、児童文集や、詩集が相変らずさかんで、これは児童文学界にとって、文学に関心をもっている少年少女が多いことを裏書しているものにとって、非常に嬉しいことである。だが、少年少女の多くが、将来作家や詩人になろうとしていると考えるのは間違いで、無着成恭氏の「ふぶきの中」にのべられているように__これは詩であるよりも現実の生活なのだ。しかも、その詩以前の詩のほうが、詩人の作った詩よりも、人を感動させ共感をよびおこすとしたら、どういうことになるのだろうか__というように、現実の生活にじっくりと腰を落ちつけ、そこから来る感動をとらえて、素朴にうちだしたその感動を、読者の心に起させてゆがんだ社会をより浄くするための少年少女の純な魂のうごきが、文学に関心をもたせているのだと考える方が正しい。故に、詩をつくるよりも田をつくれという言葉は、今日ではあたらない。また少年少女のその純な魂のさけびといったものが、今日の社会に、文学を通じて、大きく貢献しているという事実を、識者も認めざるを得ないことであろう。
他方、詩人によって「詩」の話や「新日本童謡集」等が発表されて、詩に向う児童への正しい指針も生み出された。
 以上のような二つの流れとは別に「現在児童文学史」「世界名作物語」「日本名作物語」等、過去の児童文学の再検討が行なわれたことも、流れへの回顧の一つであった。翻訳では「チビのムックの時間です」「あらしの前」「あらしのあと」等の戦後の作品も紹介された。
 さて児童文学界に現れた今年度の実際の作品から三つの流れを窺うことが出来たが、児童文学界全般に通じていえることは、児童文学者協会の児童文学賞、同新人賞、文部大臣賞が設けられて、児童文学への社会関心が深まったことである。それと、日本人自体が、独立日本の自覚をうすうす身に付けるようになった今日、現在までの商業政策によったと思われる非文学的な児童読物を嫌悪し、心の底から、真の意味の児童文学へのあこがれといった風な機運が向いてきたことが、なによりも増してうれしいことであり、その現われとして、児童文学者と教師との提携による、文学的教育運動が提唱され、児童文学への正道を着々と歩みはじめたことが、今年度の児童文学界全般に通じて、見落されぬ大きな課題でもあった。
(児童文学者協会員)


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