来た道行く道通りゃんせ/風にのって花ひとひら

のんびりしたブログですがよろしくお願いいたします。

オカリナを吹こう

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ | 次のページ ]

オカリナ行脚

イメージ 1

イメージ 2

向源寺観音の栞と、九十近いお婆さんが手作りで「足腰が丈夫になる」ように編まれた藁草履のお守り。

オカリナを吹こう (7)美しきもの

 異常気象のせいか、局所的に非情な豪雨をもたらし大きな被害を与えている所もあるが、滋賀県庁前に表示される琵琶湖の水位は、連日マイナスになるばかりだ。   暑い! 暑い!
オカリナ行脚も酷暑の中でと案じられた。
 
   「おう、雨!」
 起き抜けに雨音を聞く。木の葉の重なりが黒い陰を作っている。その黒い陰の中にダイヤモンドのように煌く雨露が乗っていた。久しぶりに見る雨の輝きは、秋をいざなう美しいプリズムのように見えた。そうだ今日は処暑だ。暑さも柔らぐはずだ。

 そして、第7回のオカリナ行脚は、灼熱にさらされることもなく爽やかな日和に恵まれることとなった。今までのオカリナ行脚には、いつも傘が悪戯坊主のように同行していた。猛吹雪での傘。いきなりシマケ(強い時雨)ゴミ集積所から拾った傘。紫外線が容赦なく降り注ぎそれを遮るための日傘。いつ荒れるか分からない山歩きにはリュックに傘を忍ばせた。いつも傘が同行していた。

 家を出るときは霧雨が送り出してくれた。しかし、高月駅に着くと傘も帽子もいらない爽やかな湖北の風が迎えてくれたのだ。
今回は同行者が少ないこともあり「行脚」と言うより贅沢な旅行者の気分になってしまった。あそこもここも訪問したい、そんな思いの溢れるオカリナ行脚となった。
 グループホーム(認知症対応型施設)の「あいこでしょう」さんへ二時二十分に訪問。そこから徒歩十分ほど先の高月図書館へ。図書館では「ビデオ鑑賞会」と「お話会」の始る隙間に「オカリナ演奏」を入れさせていただくことになっていた。時間が非常に偏ってしまった。

 「あいこでしょう」さんへ訪問する前に向源寺(渡岸寺)の国宝十一面観音を訊ねた。七体ある「国宝」十一面観音のなかの一つで、最も美しいと言われている観音だ。
 境内に入ると、おりしも地蔵盆で可愛い子供たちの「お茶はいりませんか〜」の声で迎えられた。無粋にも「お金は要るの?」と聞くと「無料ですが、お志は遠慮しませ〜ん」と言う。それを言う生真面目な顔に思わず笑って盆に小銭を置いた。お婆さんが「お地蔵さんも観てやって下さい」と声をかけて下さる。真新しい赤い涎掛けを誇らしげにかけ、お地蔵さまが初秋を感じさせる透明の風の中に微笑んでおられた。私にも子供の時があった。奈良県室生寺の近くで少女期を過ごした。その時にお出会いした室生寺の十一面観音がいつも心に残っていた。
そして、滋賀県に居を移したとき同じ国宝である高月町の十一面観音にも是非お出会いしたいものだと思っていたのだ。今、その念願が叶う。
 井上靖「星と祭」「美しきものとの出会い」にしばし登場し、また白州正子等多くの文人に「最高傑作」と礼賛の文章を書かせる観音である。
戦火から守るために、長らく村人たちによって土中に埋められていたと言う。そのために金箔が剥げ落ち黒くなっている。
漆黒の鈍色(にびいろ)を放つその観音に私は圧倒された。
 室生寺の観音は、女性的な優しさの漂うふくよかなお顔が母を知らない私に、母親像を重ねさせていた。向源寺の観音はお顔が慈悲深いのは当然として、私が釘づけになったのは腰のひねりである。肉感的で軽く左に捻るその流動美に息を飲んだ。信仰の対象として作られ、ここまで官能的なプロポーションに、ただただ見とれてしまったのだ。
 美しい。美しい。何もかも(頭上面・眉・鼻・胸・)が腰へ腰へと秀麗に流れていく。
 子供のときに高月観音を見、室生寺の観音を後に見るのではなく、先に室生寺の観音に出会え(母)今、高月観音(女人)に出会う、この順番が私にとても感慨深いものをもたらした。大きな感動が広がっていく。そして私は自分が女であることに幸せを感じた。この流線美に幸せを感じた。

 東隣りにある歴史民俗資料館にも寄ってみた。湖北の歴史、民俗、文化のうねりが日本人の魂のように入ってくる。この雪深い湖北の高月の地に私は畏敬を感じた。

 あっ!もう二時になる。「あいこでしょうさん」へ向わなければ……。
「あいこでしょうさん」では僅かな時間しかとれなかった。本来その土地のお年寄りと「一時を過ごしオカリナの音色を楽しんでもらいたい」と言うのが目的だったのに、次の高月図書館へ行く時間がせまっている。私はあせってしまった。自分の行きたい所を優先してしまったことに罪悪感がかすめていった。
 高月図書館は「出会いの森」という整備された木立ちと、ジャスミンの一種で、高月町の木「モクセイ」の妖精を表した「茉莉花」のブロンズ・モニュメントが迎えてくれた。慌しい演奏を終え、図書館の二階にある「井上靖記念館」へ寄る。高月観音を拝見すれば、是非にもこの資料館へ寄らねば……
しかし訪ねる人は少ないのだろうか。鍵をわざわざ係りの人が 開けて下さった。近年は図書館を訪れる人も少ない傾向らしい。勿体無いと思う。こんなに素晴らしい図書館と文化の香る地だ。通過性の時流であって欲しい。
ツァーなどで観音を訪れる人は多いらしい。ボランティア・ガイドが立て板に水を流すように心地よい説明をして下さる。
図書館にも、子供たちが溢れ、是非とも立て板に水のように流れるお話を聞いて欲しいものだと思った。

 もう一つ行きたいところがあった。「雨森芳州庵」。
儒学者で「誠信の心」を国内外に発信した人である。「誠信外交」は六十一歳のときに「交隣提醒」の著で表し、現在にも通じる外交の秘訣を書いている。それは「互いに欺かず、真実を以って交わる」と......これは外交だけに関わらず、市井の我々の日常の生活においても信条にしたいことであろう。そして八十八歳から和歌づくりをはじめ二万首近くの和歌を詠じている。
 庵へ続く小道は、水車と綺麗な水路が心を癒してくれる。驚くような大樹の欅が沢山有る。どれも高月の「月」からか、ツキの樹と呼ばれ、注連縄が掛けられ「野神」として祭られている。この地のご先祖さまたちやそれに繋がる今の人たちが自然に祈りと感謝の気持をもち、自然を崇めておられるのがオーラのように伝わってくる。そしてまた、水路の清冽な水は家の中にも取り込まれ生活に潤いをもたらしているそうだ。我が家の近くにも同じ様に、綺麗な水を持つ「かわばた」集落と、中江藤樹先生が居られる。清冽な水は清冽な人に繋がるのだろうか、ふとそんなことを思う。
 庵に着くと冷たいお茶を振るまって下さった。そのお茶を持って広い広い縁側に座わる。小石を真ん中に綺麗にサラエの目が輪を描いている。足をぶらぶらさせて涼を取っていたが、自然と正座になった。静かに冥想する。ちっぽけな行脚の時間が大宇宙を流れて行くようだった。
 どこからか蜩の鳴き声が聞こえる。
そして、ふと目をやれば「日韓青年交流記念樹」と名札の掛かった数本の木槿が、花を溢れさせていた。木槿は韓国の国花である。散っては咲き、散っては咲く生命力の強さが讃えられている花である。花言葉は「信念」だそうだ。
宗旦槿が紅を底に沈め燃えるような想いを秘めて咲いている。芳州の、秘めても「互いに欺かず、真実を以って交わる」紅がそう語っていた。
 オカリナ行脚がなければ、思っていてもなかなかその地を訪れる機会のない日常だ。「オカリナ行脚」に感謝だ。随分と楽しませてもらっている。

 同行者が、綺麗に雨が上がている高月の里の空に、傘を忘れて来た。
「あいこでしょう」さんに忘れて来たようだ。取りに戻ると言う。

 私は今回、施設訪問を手短に短時間で済ませてしまったことを反省していた。罪悪感を感じていた。
「次回にもう一度再訪問するから待っていてね」と、傘を取りに戻って行く同行者に伝えてもらった。オカリナ行脚にまたしても傘が、悪戯坊主のように姿を見せた。いつものようにまた同行していたようだ。
そう言えば「行脚」の星!(と私が勝手に思っているのだが)山頭火の頭上にも、いつも「すげ傘」が有ったではないか。そんなことを思い一人笑った。

 この日を境に琵琶湖周辺はずいぶんと涼しくなった。「オカリナで琵琶湖一周」が、ますます楽しくなってきた。



    
       今日のこと今日に終えしか花槿   



2008.08.26

オカリナ行脚

イメージ 1

オカリナを吹こう (6)
歴史の中を歩いて

 「降水確率40%以上なら中止してください。山は逃げません。」6回目のオカリナ行脚は、このアドバイスから始まった。梅雨明け宣言はまだだった。天気図は傘、雷、曇マークで埋る日々だ。
 梅雨時、体力的に弱音を吐きたくなる。デイサービス施設訪問を決めると、待っていて下さる人たちがいる。約束を破るわけにはいかない。「一度、施設訪問をやめて、みんなで気楽に楽しむ行脚があってもいいね」と、木ノ本駅へ進む『オカリナ行脚』を賤ヶ岳登山にした。
 賤ヶ岳は古戦場として知られる標高422mの山だが、滋賀県の人はこれぐらいは山ではないという。
 登山口に近づくと、前回に通ったときにはなかった「通行止め」の案内がある。観光地として人の訪れる事が多くなってきた余呉湖だ。道幅を広げているらしい。工事の係員が「迂回せよ」という。女性の係員が「迂回しても熊はでえへんよ」という。工事現場の数メートル手前での「通行止め」案内は、余所から来た者には酷であろう。もっと前方に、或いは駅で告知しておくべきだと、説得力ある交渉を同行者がしてくれる。感謝である。
 登山が生まれて初めてだという同行者もいた。平地はいくらでも歩けるが山道はきついという。湿った落ち葉で足元がすべる。細い山道の横は薄暗い杉木立ちの谷である。彼女の顔がだんだん青くなり息が上がってきた。同行者たちで、彼女の荷物を手分けして持ち、ある者は凍った缶コヒーを頬にあてがい、ある者はタオルにアイスノンをくるみ首に巻き、ある者は足に筋肉消炎のスプレーを振り掛け、「もうすぐ頂上だからね。頂上のおむすびはおいしいよ」と励ましている。私は感心してしまった。連携プレーの介抱のよさ、親身に彼女を気遣う姿が有難く嬉しかった。事故なくみんなで楽しくオカリナを吹きたい。一歩間違えば事故につながる。天候といい、事態といい運が良いといえた。しかし、運とは何だろう。無防備にやってくる事象ではなく、助け合う人の繋がりそれらが運を作りだすように思えた。運とは、ある意味で自分たちで作くっていくものではないだろうか。
私は素晴らしい仲間に出会え真に運が良いと言えた。
 綿菓子のように大きなモリアオガエルのタマゴがある。図鑑で見るヤマジノホトトホトトギス、ヤマアジサイにも出会う。ネットやテレビで目にしたことはある。情報が溢れ、現在はバーチャル登山だって出来る。しかし、こうして目の前で見る感動は格別だ。鼓動が聞こえ、風音が生きている。空気がうごめき流れているのだ。登山が始めてという彼女に、一番乗りの体験をしてもらおうと先頭を彼女に替わる。彼女の晴れ晴れしい顔が嬉しい。みんなの顔も輝いていた。
 木々の間から、射しこむ薄日の影に「賤ヶ岳合戦」が浮かんで来る。賤ヶ岳は琵琶湖八景の一つの景勝地であるが、天正11年4月20日、賤ヶ岳、余呉湖畔で羽柴秀吉と柴田勝家の戦いが繰り広げられ、秀吉を天下人に導いた場所である。ここに累々と屍が重なり、眼下に見える余呉湖は武具を洗い流す血で真っ赤に染まったのだ。西に奥琵琶湖と比良山系が広がり、真下の北側に余呉湖が見える。東に伊吹山、木之本の街並み、遠くに小谷城のあった山が、柴田勢が陣取っていた県境に近い山並みも横たわっている。遠くに竹生島も見える。360度のパノラマが雄大な自然を映していた。が、戦跡碑や戦没者の碑が確かに歴史の流れていたことを語る。
 そして、その流れに流された女性もいた。美貌と聡明さを兼ねたお市の方。浅井長政、柴田勝家、豊臣秀吉の間を運命の如く漂い流された女性である。あの時代の運は、自分で作ることも出来ず人の輪も無く、ただただ非情だけが流れるものであったのだろうか。
 合歓の大木が、濃い緑の中に紅を散らしている。美貌で、悲劇のヒロインが合歓の花と重なる。
 平成の世に余呉町の花として咲き乱れる紫陽花がある。紫陽花が流れ行く水のように、歴史の流れのように咲いている。そして合歓の花が紫陽花にこぼれていく。歴史のなかを息づくように花々も彩っていた。
 突然「ときの声」があがる。夢?
小学生の一団が大挙して登ってきたのだ。郊外学習らしい。私は子供たちに合唱を願い出た。崩れるように腰を下し、兜を横に槍に身を支える兵士の像がある。その上を子どもたちの歌う「故郷」と、オカリナの音が渡っていった。
子供たちが、「ありがとうございました」と、整列しお辞儀をして下山していく。「こちらこそありがとう」。その行儀のよさに感心した。
 すべって尻餅を付く頭上を、リフトが笑うように通り過ぎて行く。木の本側に下りると、鬱蒼と緑の滴りをみせる伊香具神社があり、琴糸の生産率全国一を誇る大音の里があった。琴の音が聞こえてくるような鄙びた民家があった。「糸とり資料館」である。水上勉の「湖の琴」のモデルになった料理旅館も営業されていた。長年の風雪にたえ、幹が空洞化しながらも樹勢を失わず「野神」とし祭られている大樹に頭を下げる。
 平地になると、登山が初めての人も、私の足取りも軽くなり「テレビで美味しいパン屋が紹介されていた」、そんな話題に目を輝かす。野良仕事の人に聞くと、道路に石ころで地図を書いてくれた。情報社会に驚いた。
 木の本の街中に入ると日差しがきつい。喫茶店で休憩をすることにした。パン屋のことを聞いてみるが知らないという。情報社会も不思議だ。
 木の本は木の本地蔵院の門前町であり、北国街道の宿場町として栄えたところだ。前回の余呉駅と一駅しか違わないのに、活気のある街並みだった。隣家との境に防火と装飾を兼ねた建築様式の「うだつ」があがっている。犬矢来、弁殻格子、杉玉が旅心を誘う。木の本地蔵院のそばに探していたパン屋があった。名物?のサラダパンを買う。歩き疲れ喫茶店で待っている人の分も買っている人がいる。ほんとに心優しい人たちばかりだと感心する。
 みんなは本線で帰る。私は湖西線で帰ることにした。行脚を始める前は、一人で乗り物を乗ったり、一人で知らない街を散策することが出来なかった。それが行脚を重ねているうちに出来るようになった。
 乗車時間までにまだ時間がある。木の本地蔵院へ寄ってみた。高さ6mの地蔵菩薩大銅像が迎えてくれる。日本三大地蔵の一つで、目にご利益があるらしい。箱に使い古された眼鏡がたくさん入っていた。最近、老眼が進んできた。私も手を合わせた。蛙の焼き物が並んでいる。蛙が、目を患った旅人に片目を与えたという言い伝えがあるらしい。今でもお寺に棲む蛙は片目だという。また、御戒壇巡りがあって、真っ暗闇の回廊を一足一足進んで行き、6つ目の角を曲がった所の(何も見えない)お地蔵様の足下にある錠前はお地蔵様の手に繋がれており、錠前に触れて願い事をすると叶うとのことだ。暗闇を歩くのは恐くも感じたが、慣れてくると56.7メートルの距離は快感になり心が安らいでくる。
内緒の願い事をした。
 本堂に上がると阿弥陀如来立像と阿弥陀如来坐像が祀られている。開け放った向こうに築山形式の庭園が広がっている。柱に手をおくと温もりを感じる。耳を当るといにしえの鼓動が聞こえる。庭を眺め冥想をした。
 中学生のころ、父に連れられ奈良の寺社仏閣をよく廻ったものだ。そんなとき、父は木陰に腰掛け歴史の中に入り瞑想することを教えてくれた。柱や天井の鼓動を聞くことを教えてくれた。あれから何十年もが過ぎる。いつのまにか前へ前へと歩むことだけに気をとられ、日常に追われそんな時空をすっかり忘れていた。 

 今回のオカリナ行脚は、歴史を感じ、歴史の流れの中に私も生きていること。そして、人の輪の有難さを教えてもらえた。

    
       水ゆたか歴史に落つる合歓の花   


2008.07.19

オカリナ行脚

イメージ 1

オカリナを吹こう (5)
余呉湖と紫陽花

昭和53年に滋賀県へ転居してきた。
転居から現在の、わずかな年月にも時代の変貌は大きい。
そんな変貌をも感じつつ琵琶湖一周をしている。

 「オカリナでびわ湖一周『オカリナ行脚』」を、滋賀県最北の余呉駅へ進めた。
私が余呉という地名を知ったのは、水上勉の小説「湖の琴」であり、天女の残した子が菅原道真公だという「羽衣伝説」であり、天下分け目の戦いとなった「賤ヶ岳合戦」からである。余呉の湖は、鏡のように波一つない湖であり、憧れとロマンを限りなく広げ、深い山々と歴史、伝説、人の悲哀が、満々とする湖水に融けているかのように私の心を響かせる、想像の世界だった。

 滋賀の地に来て、また別の余呉湖を知った。

 「ふるさとの生活」宮本常一の著書には、余呉の10mの大雪の様子を「屋根の破風から出入りして,イロリの火一つが家の中のあかりで、雪の底のあなのような中でくらしている」と書かれている。豪雪地帯であり、そのいくつかの集落は、集団疎開を繰り返すことにより、村がつくられていった歴史があるようだ。あまりにも過酷な自然に、新たな「命」「希望」を求めて疎開、移転をくりかえしてきたのであろうか。しかし、そんな僻遠の地ではあっても、過酷な自然はまた、自給自足の生活をする山の資源にあふれ、生活を支えるに十分だっただろうし、田畑が領地の厳しい搾取に苦しめられていた平地の人々より、よほどのんびりとした暮らしぶりであったかもしれない。

 余呉の地を是非訪問したいと思っていた。
平成の現在にも、かってのように集団移転をくりかえし、そして廃墟と化し、余呉の地図から消えようとする村があると知ったからだ。

「滋賀県北部余呉町の丹生ダム建設予定」。
 調査の着手が昭和55年、建設事業の着手が昭和63年、完成予定が平成22年となっている。住民の大半はダム建設には反対だったという。水没地域の住民の戸惑いや不安を、少しでも住み慣れた同じ余呉町に生活基盤をおくことで解消しようと、町は代替の移転地を整備し移転をうながした。そのときの住民の苦渋の決断はいかほどだったろうか。
かって賤ヶ岳、関ヶ原合戦で敗れた武将が落ち延びた地であったかもしれない。江戸時代には宿場町として栄えた地でもあるらしい。
そこは、延々と先祖から受け継いできた、地と心の場所だ。豪雪の雪の底の穴から這い出るためだけの移転ではなかっただろうにと思う。自然の厳しさから逃げたのではない。命を存えるために移転したのではない。ふるさとをすてたのではない。「移転することによってみんなが良くなる」「町にダムを作ることで過疎から整備される」それを信じ、住み慣れたふるさとを後にしたのではないだろうか。私はそう思う。
 平成7年11月に、水没地域の離村式がおこなわれた。水没移転戸数は40戸。そして、ダム建設のための移転補償の条件として住み慣れた家屋を取り壊すことだった。

 現在「ダム事業の原則凍結の提言」がなされている。
水没予定地だった集落へ続く道は「通行止」となり、道は荒れ、山から流れ出る水は土砂を積み、川のようになり、道にはコケが生えているという。
 私に、ダムの是非は分からない。口をはさめるものでもない。しかし、水没もせず、荒れ果て、朽ちていくふるさとを人はどう思っているのだろうか。静かで美しい歴史の水をたたえる湖に、悲哀の漣も揺れているのではないだろうか。一度はダムに、観光事業への夢をかさねた総人口約3,900人、世帯数1200世帯余りの町は、いま「限界集落」という過疎へ歩んでいるのだ。

 余呉湖は琵琶湖より水面が49メートル高く、周囲7キロ足らずの小さい湖である。流入る川もなく、流出る川もなく それでいて 碧い水を満々とたたえ、鏡のように四季折々の山の姿を映しだすことから、神様の忘れ物の鏡、「鏡湖(きょうこ)」とも呼ばれている。
 余呉町の花は「紫陽花とコスモス」である。私は鏡湖の湖辺に咲き乱れる紫陽花をみたかった。
余呉町にはデイサービス施設が二カ所あった。「デイサービスセンター駅前・コミニティ」と「やまなみデイサービスセンター」だ。
行脚を「余呉湖一周と、湖の紫陽花を見ること」「施設の二ヶ所とも訪問すること」に決めた。
 歴史をかいくぐってこられた、たくさんの余呉町のお年寄りと会いたかった。ふるさとの移転を余儀なくされ年を重ねた人たち。厳しい自然を生きぬいてきた人たち。そんな人たちとふれあい握手をしたかった。
 今回は雨でも決行することにした。行脚の成否は天候が大きく左右する。行脚に参加できない人の「絶対お天気になる。祈っているから」の声に背をおされ、6月25日、余呉湖へ向かった。祈りが届いたかのように、梅雨空の陰湿さはなく、梅雨の晴れ間のうだる夏日でもなく、絶好の日和になった。
 余呉湖は伝説と歴史で満たされている。「羽衣伝説」「飴を買いに来た幽霊」「送り狼」「鍋黒柿」「河童の話」「賤の恋」「蛇の目玉石」、どれも神様と自然と人間と動物とが共生をしている宇宙の根源の匂いのするものばかりだ。
そしてそれだけではない、たくさんの血が流された場所でもある。遊歩道の矮性のコスモスは早くも花を揺らしている。その花に埋まるように戦場跡の碑がたくさんあった。碑と花が湖へ、数々の物語を映しだすかのようにあった。余呉湖のフナは胸のひれの下が赤い「照りフナ」、子アユは「紅さしアユ」と、どれも淡く赤みがかっている。これは賤ヶ岳合戦のとき、余呉湖に流れ込んだおびただしい血を吸ったからだといわれる。
 句碑もたくさんある。芭蕉や先人たちが歩いたことなども想ってみる。「薄暗く、人は通るのを恐れた」と記されている、うっそうとした「気」の漂うような所もあった。車は一台も通らない。人も通らない。湖だけが明るく一枚布のように静かにゆたっているのだ。揺れ動く水面は、 陽と月の光を受けて 金波銀波に輝き、それが人の心に数々の伝説を生み、歴史の息遣いをひたひたと感じさせるのだろう。桑の木が多いのは「湖の琴」のように、強く輝く糸を紡ぐ養蚕業が盛んだった名残だろうか。おそるおそる実を一つ口にふくむ。物悲しい味がした。

 湖辺の紫陽花に会いたかった。

 紫陽花は、色とりどりに彩を競うのでなく、水色の薄藍色の濃淡が長く長く続き、もう一つの湖のように咲き乱れていた。薄藍色の紫陽花が湖にぽろぽろ転げていくように咲いていた。紫陽花と湖が一体化し湖に一本の歩道が開け、私に湖水の中を歩いているような錯覚をおこさせた。
 出会えたのだ。鏡の渚が揺れ、薄藍色の紫陽花が煌いているのに。


   あじさい     金井 直

 こんなにもふかい色
 こんなにもつきつめた静寂
 これはもう この世のものでありながら
 そうではなくなったひとつの湖水
 みごとにもりあげられた
 新鮮なくだもののような
 水色の花房
 この 葉のしげみは
 湖畔をまどるみどりの吐息

 そこに一体
 どんな夢や思い出が宿り
 ありなしの風に美しくゆれるというのだろう
 いや 何も宿りはしない そこには
 人の胸の中のような
 どんな動揺もありはしない
 なぜなら それは何ものをも越えて
 ただ そこに在るだけなのだから
 しかし ああ
 この世の誰がこんな花の魂をもち
 その中に投身できるというのだろう 


  詩(うた)のような湖と、紫陽花の湖水があった。
どこかで鶯がないた。それ以外は何の音もしない。湖がただ静かに、一枚の絹布のように水面をひろげているだけだ。この布は悠久のときを揺れているだけなのだろうか。それとも数々の悲哀を水底深く沈め、眠らせている静けさなのだろうか。
そんなことを想いながらの、湖周約7キロは、容易く完歩できた。私の心は溢れる湖水のように満たされていった。

 余呉湖一周を終え、「デイサービスセンター駅前」へ行く。ここは空き民家を改築し、生活感をそのままに、過疎がすすむ社会参加の希薄さを、新たなコミュニティセンターとして地域の活性化の役割に役立てようと昨秋に開設したばかりの所だ。
「あかとんぼ」「ふるさと」を演奏すると、泣き出された方があった。
「ダム事業」のため、ふるさとを余儀なく替えねばならなかった人たちかもしれない。そんなことを思うと、私も「泣かせてごめんね」と、涙声になっていた。
「こんな遠いところへようきて下さった」と手を握ってくださる。有り難いことだ。こういうことがあるから、歩め、次の行脚が出来るのだ。もし行脚がなければ、余呉湖はただロマンと伝説の場所だけで通りすぎていただろう。地の果てのように思う遠いところだったかもしれない。
人びとも、私たちがどこから来たか話しても分からないようだった。余呉の地以外に外へ出る機会がなかったのかもしれない。しかし、握手する手は温かく、息遣い、鼓動が伝わってくる。これが生きているということなのだろう。
 珍しく「オカリナを見せて欲しい」といわれた。同行者のオカリナ8本を輪に並べてみる。写真に撮って下さった。オカリナは、まるで余呉湖一周の遊歩道に色とりどりに咲いていた矮性のコスモスの輪のようだった。
 人と人のふれあいにはいろんな発見がある。そして連れ立って行脚する。その幸せに私は浸っていた。
「やまなみデイサービスセンター」へも訪問する。一緒におやつを頂いた。有り難いことだ。

 今回の余呉駅の行脚は良く歩いた。しかし歩き疲れはない。余呉湖からの風が心地よい。
駅のホームから広がる余呉湖をみる。「ほんとうに私たちはあそこを一周してきたのかしら」といい合う。なんだか不思議な気分だ。歴史の中を歩いてきたような気持ちだ。
 余呉湖が静かに光っている。宇宙から見れば、私たちは湖のまわり(大きな薄藍色の紫陽花のまわり)を歩いている小さい蟻にみえたかもしれない。私たちは歴史の中の小さい蟻なのかもしれない。そんなことを思う余呉湖行脚だった。

    
       余呉の湖(うみ)あぢさゐ揺れて湖水なり   


2008.07.01

 

オカリナ行脚

イメージ 1

イメージ 2

オカリナを吹こう (4)

 「琵琶湖」は、楽器の琵琶の形から名づけられた。それを東西南北に分割すると、オカリナ行脚は、西側のくびれから始まり広面を過ぎ、琵琶の底部(北湖)へ進んでいる。底部に行くほど、琵琶の音(ね)は豊かな自然と澄んだ波音を増していくが、限界過疎地という不協和音をも響かせる。
 前回行脚のマキノ駅の次ぎは永原駅であるが、デイサービス施設(通所介護施設)がない。「JR駅を基点に、デイサービス訪問」だが、人が少なく僻地である。
 高齢者を支える地域包括支援センターが、各市町村に必ず一つはある。しかし、平成の大合併が、市町村の区切りをずいぶんと変えてしまった。永原も塩津も西浅井町地域包括センターの管轄になる。永原に施設はないが塩津にはあった。順番に永原から塩津へ歩を進めば、竹生島に手が届くといわれる葛篭尾崎(つづらおざき)、霧の中に潜むかくれ里の菅浦(すがうら)集落、葛籠尾崎の湖底遺跡と、神秘的な琵琶の音を聴くことが出来る。が、その音を聴くには、つづら折れの入り組んだ岬を20キロ近く歩かねばならない。「歩き終えて、オカリナが吹けるのだろうか」「ここは1泊するところ」「いや、歩きが目的ではない。琵琶湖と共に暮らしてこられたお年寄りとの一時を、オカリナで共有するのが目的」と、喧喧ごうごうの話し合いが持たれた。結果、一つ一つの駅をクリアして行くことが励みではあるが、永原駅を飛ばし塩津駅に進む事に決まった。
塩津駅はJRの北陸線で、米原駅から北上する滋賀県内最後の北の駅であり、山科(京都)から分離した湖西線と合流する。 北陸本線の駅として1957年10月に開業され、2006年に、滋賀県民の願いだった琵琶湖環状線としてつながった。開通時に知人は、一区間の切符(入場券)と駅弁をたずさえ琵琶湖一周(琵琶湖環状)をしたという。一周する車窓は、琵琶湖が絵巻物のように姿を変え、それは素敵だったと話してくれた。私もそんな車窓の旅をいつかしたいと思っていた。
 湖西に住む私は、湖西線で塩津駅に出るのが近い。だが全員が東海道本線で行くと言う。一人の車中はつまらないし未知の駅を一人で乗降したことがない。誰かの後ろについて行動するのが常だ。自他共に認める方向音痴なのだ。
塩津駅がどんなところか先にリサーチしてくれた人が、「なんにもないところ」と脅かす。そこで全員が、東海道本線で行き、長浜駅で食事をし塩津駅へ向かうことになった。私は帰路を湖西線にすれば、図らずも琵琶湖環状線の旅が実現する。
 山科から長浜までは郊外電車の趣き。湖東の山々をバックにレンゲやポピー畑が広がる。長浜ドームがみえ、バイオ大学がみえ、大きな下坂大仏が、楽しませてくれた。長浜で食べる蓬蕎麦も野趣の香りと旅心を満喫させてくれた。
 長浜から塩津の車窓は、都会の緑と異なり早苗までが鄙びた緑色にみえてくるのが面白い。
この沿線を、オカリナ行脚で訪問する時はどんな季節になっているのだろう。
元気で再来したいものだと思う。

 塩津駅は長い長い構内を持つ無人駅だ。小さな駅舎に野の花が一輪活けられ旅人の心を癒してくれる。駅舎は「海道・あぢかまの宿」との合築で「あぢかま」とは鴨の別名である。私たちが訪問する西浅井町社会福祉協議会も「あじかまの里・デイサービス」だ。
 夏日に炙られるように国道303号を歩く。これまでの行脚は、雨に背をおされぎみだった。今回はうだるような陽にさらされる。沿道の雑草は背を高く、はやくも真夏の照り返しを受けている。日焼け止めクリームを塗り、帽子と日傘で防御だ。行脚とは天候との戦いでもある。
 人口は少なくとも、整備された道と車は日本のどこへでも繋がるのだろう。頻繁に車が走り抜けていく。喧騒を避け、国道から横道に入ることにした。木陰に神社があり、シャガやオドリコソウが山の霊気を吸って咲いていた。川土手に出る。人が通らないのか、夏草が道をふさいでいる。昔なら蛇に出くわす所だがそれもない。夏アザミ、キンポウゲ、スイバ、アカツメグサが揺れている。そして、川では太公望が鮎つりをしていた。つりあげられた鮎が光った。私たちは大拍手をする。遠くを見ると白い雲、夏風が爽やかに抜けていく。草をかきわけの行脚も、なかなか良いものだと汗をぬぐう。
「あじかまの里・デイサービス」では、たくさんの方たちが待っていて下さった。若い職員さんたちの笑顔が好ましい。高齢者に関わる仕事をする若者の姿を多くみる。嬉しいことだ。
 楽しい時間はすぐに過ぎていく。暗譜曲だけでなくリクエスト曲もいただいた。大きな声で、オカリナを伴奏に歌って下さる。琵琶湖の北の端、過酷な自然とともに生き抜いてこられた老人たちの顔は輝いている。その輝く笑顔を手本にしたい。私たちもいづれ同じ道をすすむのだ。壁を見ると鉄道唱歌が66番まで張り出してある。びわ湖周航の歌を8番までリクエストされたことがある。これを66番まで、もしリクエストをされたらどうしよう・・・・・・。

35番大垣
「父やしないし養老の滝は今なお大垣を」
36番関が原
「帰せしいくさの関ケ原・草むす屍いまもなお・吹くか胆吹の山おろし」
37番米原
「前に来るは琵琶の海・ほとりに沿いし米原は・北陸道の分岐線」
38番彦根
「彦根に立てる井伊の城・草津にひさぐ姥ケ餅・かわる名所も名物も・旅の徒然のうさはらし」
39番河瀬・能登川・八幡・野洲・
40番瀬田
「ゆけば石山観世音・紫式部が筆のあと・のこすはここよ月の夜に」
41番「粟津の松」42番「比良の高嶺はゆきならで」43番「堅田おつる雁がねの」


汽車が行脚をしている。
人はそれぞれに、古からどれだけの行脚を積み重ねてきたのだろう。そんなことを思う。
 行脚とは人とのふれあいだろうか。未熟な私たちを受け入れ、お互いに笑顔を交し合える事の幸せ、こうして行脚の出来ることに改めて感謝をする。
 演奏を終え、3キロばかりをまた塩津駅へもどる。帰路は東海道本線と、湖西線に別れる。
「永原駅まで歩いてみますか」と言われる。
永原駅をとばしていた。永原駅を抜かすことは本位でなかった。私は大喜びで歩くことを選んだ。

 塩津浜の集落を抜けると、今回断念した「つづれ岬」奥琵琶湖パークウエイの入り口の標識がみえてくる。いつかまたこの道を歩き、岬めぐりをしてみたいものだ。
 山裾をひたすら歩く。「岩熊トンネル」がみえてきた。トンネルの手前に大きな桐の木が花をつけている。昔は女児が生まれると桐の木を植え、桐箪笥を持たせ嫁がせたと言う。かってはこの辺りにも住居があったのだろうか。数本の桐が静かに揺れていた。薄紫の花の隙間から、岩熊トンネルの出口の明りが透かされている。光が見えているので短距離と思ったが、800メートル近くあるらしい。車道より広い立派な歩道があり照明も明るい。しかし大型トラックが頻繁に通る。走り去る音が壁に反響し不気味でもある。とても一人では歩けないだろう。
お連れがいるから歩けるのだ。しかし、トンネルの照明は人の顔を灰色に映し出す。反響する音と共にそれはとても不気味だ。私は連れの顔を見ないようにしてひたすら歩いた。
トンネルを抜けると、なだらかな下りで永原の集落が近づく。下校の小学生達と出会う。「こんにちは!」その元気の良い声に驚いた。元気で明るい挨拶を、最近受ける事が少なくなった。足が痛くなりかけていたが、その元気な声に治ってしまった。
 「コミュニティハウスKoti」と書かれた、ログハウス風の駅舎が見えてきた。永原駅だ。連れは私を永原駅まで送り届けると、引き帰し東海道本線で帰るという。(あとで聞くと長浜まで30キロばかりを歩いたと言う。驚きの一言だ)
 永原駅へ足を運び沿線をもれずにつないでいけたことも嬉しいが、こうした優しい気配りや暖かい心が身に染みる。よい仲間にめぐり合えたことが嬉しい。
 永原駅の業務は地元に委託されているのだろう。私服の女性が切符を渡してくれた。ゆったりと鄙びた空気に身体が包まれていく。プラットホームに上がると誰もいない。列車は一時間に一本、まだまだ来ない。ベンチに深く腰をかけ空を見た。暮れなずみ始めた空が、私を遠い世界へと吸い込んでいく。
 夕刻は、帰宅を急ぐあわただしさ。夕日の沈む美しさ、一日を終える安堵感・・・・・。
そんなものとは別に「夕暮れの匂い」がした。駅のロタリーで子供たちが自転車遊びをしている。ときどき歓声をあげる。子供たちのざわめき以外は無音の世界である。人影がどこにもない。昼間の明るさの残るプラットホームにも人影はない。一人で列車を待つ私の匂いと、子供たちの歓声の匂いだけが漂う。匂いではない「匂い」が漂ってくる。
豆腐屋さんのラッパの音が聞こえてくる。子供たちに「ごはんよ〜〜」と呼ぶ母親の声が聞こえてくる。はるか遠い朧月夜の「夕暮れの匂い」だった。とても素直な気持になっていく匂いだった。母親の胎内に還っていくような匂いだった。

 オカリナを吹いてみた。誰もいないプラットホームに響いて行く。オカリナの音に、懐かしい匂いがのせられていく。
「オカリナを続けていてよかったなぁ〜」と、つくづく思った。

 図らずも車窓からの琵琶湖一周も出来た。しかし車窓からは、景色はあるが人影がまったくみられない。
人影は、行脚をしてこそみえるものなのかもしれない。人影(温もり、学び、息遣い)は駅を降りて、歩いてこそ感じるものなのかもしれない。

 今回の行脚で、いろんな想いとたくさんの感謝の気持をいただいた。
それは澄みきった「匂い」が、夕焼け空にとけて行くようだった。

    
          高々と過疎の日和に桐の花

200405.30



 唯(だれ)も見えない      木村徳太郎      
 

         落陽(いりび)の

         色した

         砂日記。


         唯(だれ)も

         見えない

         春四月。


         小波が

         こっそり

         日記つけてゐた。


         明日は

         晴れだよ

         鴎が啼く。 



木村徳太郎の作品(童話、論評、随想)を別頁「木村徳太郎=現在『伝書バト物語』」に掲載しています。ご愛読下さい。 




  

開く トラックバック(1)

オカリナ行脚

イメージ 1

イメージ 2

オカリナを吹こう (3)

 お花見は晴れたほうが良い。3回目のオカリナ行脚は、数日前からテルテル坊主を吊っておくことから始まった。
 花びらが、隊列を組んでコロコロと軽やかに転げて行く。トゥーシューズの踊子達がつま先でクルクル連舞する。花びらのラインダンスだ。
 マキノ・海津大崎の桜は、桜吹雪が舞い始めていた。

 駅周辺は花見客で賑わっている。バス乗り場、弁当売り場は大変な人込みだ。
私たちはバスに乗らずに歩くことにした。琵琶湖ベリを歩く。
満々と水をたたえる碧い琵琶湖と連なる山々の緑、山裾にはピンクの帯状が見える。帯状は約4kmにわたる600本ばかりのソメイヨシノが咲き誇る花のトンネルだ。トンネルは奥琵琶湖に春の訪れを告げる街道でもあり、桜花を求めて人と車があふれる喧騒のトンネルでもある。
 北湖の水は透明で、波間から白砂が揺れ動くのが見える。透明のなぎさが、光だけを吸って湖に銀の粒を浮かべている。鴨、鳰、ユリカモメが水尾を引き、波紋をつくる。浜辺には、白い花が一面に咲いている。ナズナに似ている。タチスズシロだろうか。「最近の鴨は、北へ帰って行かないよ」「ユリカモメは、京都へ都鳥と名を変えて毎日出勤するのよ」と、私達も賑やかなお喋り鳥になる。遠くに見えるピンクの帯状に、心浮き立ち昂揚するのか、声が軽やかにさざなみに乗っていく。
 しかし、遠くに見える街道のピンクの帯に入りこむと、人は蟻のように小さく桜に抱かれ、掬われてしまうのではないだろうか。オカリナを吹くことが、困難になるかもしれない。そこで湖辺に立つ桜の下で、「オカリナミニコンサート」をすることにした。
ところがだ。桜に心がせくのか、速歩きが好きなのか、同行者11人のうち、半分の姿が見えない。ゆっくりと、一歩一歩あゆむことを楽しみにしているオカリナ行脚だが、足並みが少し乱れているようだ。いつも細やかに心配りをしてくれる人が、先に行ってしまっている人たちを、呼び戻しに走ってくれた。(今回のオカリナ行脚は、これの繰り返しばかりになってしまった。)
 浜辺で弁当を広げる。びわ湖の名は、琵琶の形に似ているところから付けられた。ここはその琵琶の一番広い幅の場所だ。対岸は見えない。水平線が白い帯状に光っている。黒緑や青緑の水模様は、すり鉢のような深みと浅瀬が混ざっているからだろうか。静かにさざなみが寄せてくる。一つ一つのいにしえを語るように波音がささやいてくる。穏やかに寄せては返す小さい波だ。
そんな波間の一つ一つの銀の粒に、音を梳きこむように、織りこんで行くようにオカリナを吹いてみたかった。


桜咲く 比良の山風 吹くままに 花になりゆく 志賀の浦波 
千載和歌集  藤原良経

オカリナの音の花びらを、志賀の浦波に浮かべてみたかった。そんなことを思っていた。 すると驚いた!
      なんと!
 ユリカモメが、波間から砂地に上がって来るのだ。順番に浜に上がってきて近寄ってくる。オカリナを吹く手が止まってしまった。オカリナの音色とユリカモメに、何か因果関係でもあるのだろうか。私はユリカモメを近くで見るのは始めてだ。赤いくちばし、赤い足がなんとも愛らしい。都鳥に相応しい名前の鳥だ。都の姫君(ギヤル)たちが、駆け寄り押しかけてくれるようだった。握手をしたくなる。しかし、吹くのを止めると波に戻っていく。水が透き通っているので、泳ぎ去る足がはっきりと見える。まるでオムツの赤ちゃんが、ガニマタでハイハイをしていくような格好だ。孫のオムツ姿が脳裏をかすめた。透明の砂を一粒一粒けって赤い足が動いて行く。可愛い可愛いユリカモメだった。
 ユリカモメのお客さんが遠ざかると、次には好々爺が現れた。
琵琶湖周航の歌について、いろいろと教えてくれる。私たちは張り切って、オカリナの音(ね)で「琵琶湖周航の歌」を聞いてもらった。冗談で、「桜の下で『ストリートミュージシャン』をやろう」と言っていた。ユリカモメに聞いてもらえ、お爺さんに聞いてもらえ、目的を果たしたようで嬉しかった。
 ときどきしまけ(時雨)てくる。桜見に相応しい(日焼けを気にしないで良い)天気だが、「弁当忘れても傘忘れるな」と言われるほどに、湖国は時雨れる。
きつくなる時雨と湖(うみ)風を避け、オカリナを吹くのを中断し街道に出ることにした。湖上タクシー、土産物店が並ぶ。遠藤周作さんの「狐狸庵」にちなんで付けられたという「湖里庵」もある。古い酒屋が大きな酒樽に、野の花を活けていた。
川にせり出して踊り場の作られている所があった。小さい川だが花筏を浮かべている。大きな桜の木があり、花吹雪が舞っていた。私はここでオカリナを吹きたいと思った。
しかし気がつくと、同じ速度で歩いていたはずの同行者が、四、五人だけになっている。またも呼び戻しに走ってくれる。しかし、今度はいくら待っても誰も戻ってこない。
時間が経っても、ただ花びらが肩に降りかかるだけだった。
 仕方なしに私たちも前へ歩を進めた。私はいつも「『3分の便利』より『40分の遊び』を大事にしてね」と言っているのだが・・・・・・・。
年を重ねてくると「40分の遊び」が楽しいのだ。そして、満開の桜より、散る桜、桜吹雪に心が動くのだ。桜の散る速度は、蛍の飛ぶ速度、人魂の飛ぶ速度と同じだと言う。速度とは何だろう、考え込む。「歩を運ぶ速度」「人生の歩みの速度」「目的に向かって走る速度」・・・・・・。人それぞれに違うだろう。違う事が良いのであろう。が、同行行脚の場合はどうなのだろう。舞い散る花びらの数を数えながら考えた。
 私は、今回の行脚で、ある曲を吹くことを楽しみにしていた。そのため、ミニコンサートをやってみようと、プロブラムを作っていたのだ。


「花影」  大村主計作詞・豊田義一作曲


    十五夜お月様 一人ぼち
    桜吹雪の 花影に
    花嫁姿の お姉さま
    車に揺られて ゆきました。

    十五夜お月さま 見てたでしょ
    桜吹雪の 花影に
    花嫁姿の お姉さま
    お別れおしんで 泣きました。

    十五夜お月さま 一人ぼち
    桜吹雪の 花影に
    遠いお里の お姉さま
    私は 一人になりました。


 二三歳の姉を亡くしている。姉の花嫁姿など見たわけではない。が、この歌を歌うと涙が出てくるのだ。見たこともない姉の花嫁姿が浮かぶのだ。
「私は一人になりました」私は、嗚咽しそうになる。
桜吹雪は、花嫁姿の姉だけでなく、誰にも「人との別れ」人それぞれのいろんな別れを思い起こすのではないだろうか。桜の散る速度は心に哀しみを落とし、浄化する速度なのかもしれない。
 私たちもまた歩き始めた。 車道とは別に湖岸沿いに遊歩道が作られている。二回目に歩いた「湖周道路」(近江うみの辺の道)の続きであろう。竹生島がみえる。黒い影の遠山には、まだ雪が残こっているかもしれない。そんなことを思いながら歩いていると、碧い湖のなかに奇岩が見えた。足が止まった。琵琶湖八景の「暁霧・海津大崎の岩礁」だ。「義経の隠れ岩」と案内がある。
 義経が兄頼朝に追われ、北国に落ちのびるとき、この岩に隠れ追手をやり過ごしたとのことである。奇岩ではあるが、とても身を隠せるほどのものではない。しかし、かっての大きな奇岩が、波に洗われ、小さくなったのだろう。そんな往時を偲ばせる、苔むした奇岩だ。その上にも桜の花びらが舞い下りて行く。私は昨年の花見を思い出していた。
http://blogs.yahoo.co.jp/hanahitohira06/31977134.html
 吉野山の吉水神社で「義経潜居の間」「弁慶思案の間」「義経の馬蹄跡」「弁慶力釘」義経所用の「色々威腹巻・蔵・鎧」。静御前所用の「鎧・衣裳」。弁慶所用の「籠手・七つ道具」などを見ている。
東北へ逃げていく義経が、ここに身を隠したのだろうか。
 吉野では雪が哀しく降りかかり、ここでは桜が哀しく肩に降りそそいでいたのであろうか。
寄せる波間に花筏が動く。いまごろ吉野の山も、桜色に染まっているのだろうと懐かしく想った。

 帰路はそれぞれに別行動とる。オカリナ演奏がすめば解散。花見は自由行動と最初から伝えてある。だが、同行行脚とはなんだろう。行脚とは、尋ねた場所の記録数だけを積み重ねることではないだろう。先は長い。駅を順番に追っていくだけでも、三年は掛るだろう。気長に、そして豊かに続けていきたい。
 車窓から、前回の行脚でしまける中を歩いた道が見える。あのとき、何もなく寂しく広がっていた平野は一面に菜の花が咲いている。山裾には桜色が流れている。あそこはきっと一回目の行脚の「阿志都弥神社行過天満宮(あしづみじんじゃゆきすぎてんまんぐう)」あたりだろう。あの折れていた山桜は、きっと花をつけているのだろう。ピンクのハンカチを広げたように、面で埋っているのは比良のスキー場だろうか。車窓に、桜と菜の花と辛夷ときらめく波が流れていく。琵琶湖は美しい。美しい琵琶湖を、行脚することを喜ぼう。
 行脚と言っても、一人行脚を私には出来っこない。この素晴らしい景色をみることが出来るのも、喜びも、同行行脚があればこそだろう。 速度はめいめい異なって良い。違うことが良いのだろう。同行できることが有り難く良いのだろうと思った。

    
          花吹雪まぼろしかさね舞い舞いて

2004.04.19



 日暮れ      木村徳太郎      
 
        日暮が機織る

        きりつとん とんかたり。


        鼠色の糸に

        きりつとん とんかたり。

        紅の糸かけ

        きりつとん とんかたり。


        良い子に着せよと

        きりつとん とんかたり。

        縞目縞目に

        きりつとん とんかたり。
 
        夢を織交ぜ

        きりつとん とんかたり。

        日暮が機織る

        きりつとん とんかたり。


木村徳太郎の作品(童話、論評、随想)を別頁「木村徳太郎=現在『伝書バト物語』」に掲載しています。ご愛読下さい。 

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
花ひとひら
花ひとひら
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
友だち(7)
  • ++アイサイ
  • ハマギク
  • こうげつ
  • まんまるネコ
  • 吉野の宮司
  • plo*er_*un*yama
友だち一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事