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向源寺観音の栞と、九十近いお婆さんが手作りで「足腰が丈夫になる」ように編まれた藁草履のお守り。
♪ オカリナを吹こう (7)美しきもの
異常気象のせいか、局所的に非情な豪雨をもたらし大きな被害を与えている所もあるが、滋賀県庁前に表示される琵琶湖の水位は、連日マイナスになるばかりだ。 暑い! 暑い!
オカリナ行脚も酷暑の中でと案じられた。
「おう、雨!」
起き抜けに雨音を聞く。木の葉の重なりが黒い陰を作っている。その黒い陰の中にダイヤモンドのように煌く雨露が乗っていた。久しぶりに見る雨の輝きは、秋をいざなう美しいプリズムのように見えた。そうだ今日は処暑だ。暑さも柔らぐはずだ。
そして、第7回のオカリナ行脚は、灼熱にさらされることもなく爽やかな日和に恵まれることとなった。今までのオカリナ行脚には、いつも傘が悪戯坊主のように同行していた。猛吹雪での傘。いきなりシマケ(強い時雨)ゴミ集積所から拾った傘。紫外線が容赦なく降り注ぎそれを遮るための日傘。いつ荒れるか分からない山歩きにはリュックに傘を忍ばせた。いつも傘が同行していた。
家を出るときは霧雨が送り出してくれた。しかし、高月駅に着くと傘も帽子もいらない爽やかな湖北の風が迎えてくれたのだ。
今回は同行者が少ないこともあり「行脚」と言うより贅沢な旅行者の気分になってしまった。あそこもここも訪問したい、そんな思いの溢れるオカリナ行脚となった。
グループホーム(認知症対応型施設)の「あいこでしょう」さんへ二時二十分に訪問。そこから徒歩十分ほど先の高月図書館へ。図書館では「ビデオ鑑賞会」と「お話会」の始る隙間に「オカリナ演奏」を入れさせていただくことになっていた。時間が非常に偏ってしまった。
「あいこでしょう」さんへ訪問する前に向源寺(渡岸寺)の国宝十一面観音を訊ねた。七体ある「国宝」十一面観音のなかの一つで、最も美しいと言われている観音だ。
境内に入ると、おりしも地蔵盆で可愛い子供たちの「お茶はいりませんか〜」の声で迎えられた。無粋にも「お金は要るの?」と聞くと「無料ですが、お志は遠慮しませ〜ん」と言う。それを言う生真面目な顔に思わず笑って盆に小銭を置いた。お婆さんが「お地蔵さんも観てやって下さい」と声をかけて下さる。真新しい赤い涎掛けを誇らしげにかけ、お地蔵さまが初秋を感じさせる透明の風の中に微笑んでおられた。私にも子供の時があった。奈良県室生寺の近くで少女期を過ごした。その時にお出会いした室生寺の十一面観音がいつも心に残っていた。
そして、滋賀県に居を移したとき同じ国宝である高月町の十一面観音にも是非お出会いしたいものだと思っていたのだ。今、その念願が叶う。
井上靖「星と祭」「美しきものとの出会い」にしばし登場し、また白州正子等多くの文人に「最高傑作」と礼賛の文章を書かせる観音である。
戦火から守るために、長らく村人たちによって土中に埋められていたと言う。そのために金箔が剥げ落ち黒くなっている。
漆黒の鈍色(にびいろ)を放つその観音に私は圧倒された。
室生寺の観音は、女性的な優しさの漂うふくよかなお顔が母を知らない私に、母親像を重ねさせていた。向源寺の観音はお顔が慈悲深いのは当然として、私が釘づけになったのは腰のひねりである。肉感的で軽く左に捻るその流動美に息を飲んだ。信仰の対象として作られ、ここまで官能的なプロポーションに、ただただ見とれてしまったのだ。
美しい。美しい。何もかも(頭上面・眉・鼻・胸・)が腰へ腰へと秀麗に流れていく。
子供のときに高月観音を見、室生寺の観音を後に見るのではなく、先に室生寺の観音に出会え(母)今、高月観音(女人)に出会う、この順番が私にとても感慨深いものをもたらした。大きな感動が広がっていく。そして私は自分が女であることに幸せを感じた。この流線美に幸せを感じた。
東隣りにある歴史民俗資料館にも寄ってみた。湖北の歴史、民俗、文化のうねりが日本人の魂のように入ってくる。この雪深い湖北の高月の地に私は畏敬を感じた。
あっ!もう二時になる。「あいこでしょうさん」へ向わなければ……。
「あいこでしょうさん」では僅かな時間しかとれなかった。本来その土地のお年寄りと「一時を過ごしオカリナの音色を楽しんでもらいたい」と言うのが目的だったのに、次の高月図書館へ行く時間がせまっている。私はあせってしまった。自分の行きたい所を優先してしまったことに罪悪感がかすめていった。
高月図書館は「出会いの森」という整備された木立ちと、ジャスミンの一種で、高月町の木「モクセイ」の妖精を表した「茉莉花」のブロンズ・モニュメントが迎えてくれた。慌しい演奏を終え、図書館の二階にある「井上靖記念館」へ寄る。高月観音を拝見すれば、是非にもこの資料館へ寄らねば……
しかし訪ねる人は少ないのだろうか。鍵をわざわざ係りの人が 開けて下さった。近年は図書館を訪れる人も少ない傾向らしい。勿体無いと思う。こんなに素晴らしい図書館と文化の香る地だ。通過性の時流であって欲しい。
ツァーなどで観音を訪れる人は多いらしい。ボランティア・ガイドが立て板に水を流すように心地よい説明をして下さる。
図書館にも、子供たちが溢れ、是非とも立て板に水のように流れるお話を聞いて欲しいものだと思った。
もう一つ行きたいところがあった。「雨森芳州庵」。
儒学者で「誠信の心」を国内外に発信した人である。「誠信外交」は六十一歳のときに「交隣提醒」の著で表し、現在にも通じる外交の秘訣を書いている。それは「互いに欺かず、真実を以って交わる」と......これは外交だけに関わらず、市井の我々の日常の生活においても信条にしたいことであろう。そして八十八歳から和歌づくりをはじめ二万首近くの和歌を詠じている。
庵へ続く小道は、水車と綺麗な水路が心を癒してくれる。驚くような大樹の欅が沢山有る。どれも高月の「月」からか、ツキの樹と呼ばれ、注連縄が掛けられ「野神」として祭られている。この地のご先祖さまたちやそれに繋がる今の人たちが自然に祈りと感謝の気持をもち、自然を崇めておられるのがオーラのように伝わってくる。そしてまた、水路の清冽な水は家の中にも取り込まれ生活に潤いをもたらしているそうだ。我が家の近くにも同じ様に、綺麗な水を持つ「かわばた」集落と、中江藤樹先生が居られる。清冽な水は清冽な人に繋がるのだろうか、ふとそんなことを思う。
庵に着くと冷たいお茶を振るまって下さった。そのお茶を持って広い広い縁側に座わる。小石を真ん中に綺麗にサラエの目が輪を描いている。足をぶらぶらさせて涼を取っていたが、自然と正座になった。静かに冥想する。ちっぽけな行脚の時間が大宇宙を流れて行くようだった。
どこからか蜩の鳴き声が聞こえる。
そして、ふと目をやれば「日韓青年交流記念樹」と名札の掛かった数本の木槿が、花を溢れさせていた。木槿は韓国の国花である。散っては咲き、散っては咲く生命力の強さが讃えられている花である。花言葉は「信念」だそうだ。
宗旦槿が紅を底に沈め燃えるような想いを秘めて咲いている。芳州の、秘めても「互いに欺かず、真実を以って交わる」紅がそう語っていた。
オカリナ行脚がなければ、思っていてもなかなかその地を訪れる機会のない日常だ。「オカリナ行脚」に感謝だ。随分と楽しませてもらっている。
同行者が、綺麗に雨が上がている高月の里の空に、傘を忘れて来た。
「あいこでしょう」さんに忘れて来たようだ。取りに戻ると言う。
私は今回、施設訪問を手短に短時間で済ませてしまったことを反省していた。罪悪感を感じていた。
「次回にもう一度再訪問するから待っていてね」と、傘を取りに戻って行く同行者に伝えてもらった。オカリナ行脚にまたしても傘が、悪戯坊主のように姿を見せた。いつものようにまた同行していたようだ。
そう言えば「行脚」の星!(と私が勝手に思っているのだが)山頭火の頭上にも、いつも「すげ傘」が有ったではないか。そんなことを思い一人笑った。
この日を境に琵琶湖周辺はずいぶんと涼しくなった。「オカリナで琵琶湖一周」が、ますます楽しくなってきた。
今日のこと今日に終えしか花槿
2008.08.26
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