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のんびりしたブログですがよろしくお願いいたします。

十月の歌

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十月の歌

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画像は大正富山医薬品株式会社が出している、谷内六郎画伯の絵(10月)からお借りしました。

 宝物     秋の
「秋はなんでも染める」(詩木村徳太郎「秋の刷毛」ヨリ)

  晴れ渡った水色の空。ハイキングに行きたいなぁ〜。心が浮き立ちます。
  コスモスが揺れている。花びらで恋占い。乙女のようにときめきます。
  長く伸びる日差し。優しくて暖かい。子守唄みたいです。
  どんぐりを拾います。ポケットがふくらみ 子供に還ります。
  木の葉が散ります。居なくなったあの人に 涙がこぼれます。
  時雨がきました。涙が霧になった? 寒いけど虹が出てますよ。
  風が匂います。お腹もへりました。
  秋は沢山の絵の具が混ざります。

  心もいろんな色に染まります。

  秋ってなんでも染めるんですね。
  そんな秋が大好きです。


秋の 宝物 二つ
  「昭和31年から25年間「週刊新潮」の表紙を飾っていた谷内六郎画伯の絵を思い浮べた。父は貧しい中から遣り繰りをして、その表紙絵が「大好き」と言う私を自転車に乗せ、町の本屋さんへと急ぐ。荷台の枠に捉まり、足をぶらぶらさせながら父の広い背中に頬を寄せる。夏は、懸命にペダルを漕ぐ父の背中に、玉のような汗が浮いてくる。冬は、「寒いから、コートの背中に顔を入れて」と言う。春は、降りしきる桜吹雪と競争をする。秋は、私の手に舞ってきた木の葉を父の頭にそっと乗せてみた。
そして帰り道。私は谷内六郎画伯の絵の世界に入り込んで、おかっぱ頭の女の子やいがぐり頭の男の子と一緒になって遊ぶのだ。
その表紙絵を父は貯めていたはずなのに、いつか処分してしまったのだろうか。父の死後、私の手元に帰って来ることはなかった。(ジューン・ドロップ「木枯し」より)」

ブログ友のこうま地蔵さまhttps://diary.blogmura.com/nohohon/(こうま大輔の部屋)が、谷内六郎さんのカレンダーを送って下さった。製薬会社が出しているカレンダーらしい。倉庫に眠っていたからと八年分も送って下さった。ありがとう。ありがとう。
 谷内六郎さんの絵が手のひらにぎゅっと詰まった。「私は谷内六郎画伯の絵の世界に入り込んで、おかっぱ頭の女の子や、いがぐり頭の男の子と一緒になって遊ぶのだ。」

 私はまた絵の中で遊んでいる。10月を遊んでいる。色々に染められていく幸せな秋のひとときだ。カレンダーが宝物になった。「秋の刷毛」もカレンダーも宝物。嬉しい秋だ。

 ありがとう 、ありがとう。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 
 木村徳太郎の「秋の詩」をいくつか集めました。

秋の刷毛(ブラシ) 
 昭和32年株式会社金の星社発行。小川未明記念出版。日本名作童話4年生より(北原白秋先生に「雨」と同じくとりあげられたもので忘れられない詩=徳太郎記)
     
秋はなんでも 刷毛(ブラシ)で染める/ ビルの白壁 葡萄のいろに/
日陰(ひかげ)の土を  つめたいいろに / 並木の葉っぱ 薄黄(うすき)のいろに/秋はなんでも やさしくそめる。/


銀の落ち葉

天の落ち葉の 雪が振る / どんどんどんどん 街に降る / 
お空は秋の おはりだろう / どんどんどんどん 村に降る /
銀の落ち葉の 雪が降る /


秋と婆(ばば)さん 
 
くるくる 落ち葉の 糸車 / 秋の婆さん まはしてござる /
もうすぐ 時雨で 寒うなる /
はよはよ 紡げ(つなげ) / ぶんぶんと / 落ち葉の 糸くず  糸車 /
秋の婆さん / ちらしてござる/


日暮 
 
日暮が 機(はた)織る / きりつとん とんかたり /
鼠色(ねずみ)の糸に / きりつとん とんかたり/
虹の糸かけ / きりつとん とんかたり/
良い子に着せよと / きりつとん とんかたり/
縞目縞目に / きりつとん とんかたり/
夢を織り交ぜ(まぜ)/ きりつとん とんかたり/
日暮が機織る / きりつとん とんかたり/


東大寺 戒壇院
 
日暮て 築地 / 齒朶 紅葉  /  尾花は 枯れて ありました/
昔 昔よ 菩薩戒 / お受けなされた 戒壇堂/ いまは 侘しい / 落ち葉 焚く/堂爺が 一人 錦絆天 / 入日地下り 砂利 小道 /鹿は 遠くで なきました /


木犀咲く坂 
 
水歯磨きの 清(すが)しさで 頭のうえを 唸りがかけた /
飛行機日和 よい日和 林檎 噛み噛み 聞いてた 僕は /
木犀咲く坂 匂ふ坂 あの子は松葉杖(つえ) 止めて(やめて)見てた /


秋と病床 
 
今朝はすつかり 秋の空 /  薬の瓶も 冷えました/
背中も痛く ありました / 花瓶の花も 涸れました/
今朝もねたきり 読本で / __ああ思えます 二学期が/


秋の朝 
 
晴れた窓辺に 花 匂ふ / 机に雲が 流れてる/
雀の影が ちんちんと / 雲がとんでる 秋の朝/


とんぼつり 
 
みんな 上向く とんぼつり / 暮れの夕陽が 目に沁みる/
とんぼ ほいほい とんでゆく/ すが糸くはえて 追いかける/
とんぼくるりと 逃げてった / すが糸空に もつれてる/
みんな下向く とんぼつり / 落ちたすが糸 探してる/


月の路 
 
夜更けの路の 月の路 / 土の神様 歩かれる/
黒い服着て 月の路 / からりころりと歩かれる/
夜更けの路の 月の路 / 月の神様 唄はれる/
月に向かって 唄はれる / からりころりと唄はれる/


夕焼け 
 
ガソリンの 海に 火がついた / 火焔がぼうぼう あがってた/
いまにも頭へ 落ちそうで / こはくてこはくて 目を閉じた/


秋陽 
 
土手を行く 僕の背に おんぶよ 秋陽は子供です/
__柿の実が 光ってて 秋陽は 欲しいとぢれました/
土手を来て 黄金の田 二人で見てます お昼です/


夕暮 
 
れもんのような 陽が沈む時 街はれもんの色してた/
葉っぱの落ちた 並木が 路へ 悲しいうたを うたってた/
僕はチヨコレート ほゝばりながら 冷たい舗道(みち)を歩いてた/


ベランダ 
 
夕焼け 林檎 波の上/
赤いジュースが ながれてる/
ランプのついた ベランダよ/
ジャムの匂いが ながれてる/
お風にのった 白い船/
明日の汽笛が ながれてる/


日暮の舗道(みち) 
 
並木の枯葉 かけてゐる / 日暮の舗道 風のみち /子犬が一匹 かけてった/


月光(つきかげ)
 
ぎんなんの梢 実が白い 月光(つきかげ) /
地蔵さまお笑ひ なさるような 月光 /
線香の匂いが 流れてる 月光 /
いつまでも立ってて 祈ってる 月光 /

村祭り(みのりの秋)

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 祭り みのりの秋
 
 認知症の方と家族を対象に「臨床美術(脳いきいき講座)」が開講されている。スタッフは当番で、いろんな話題を導入部分として入れる。私は「秋」をテーマに選んだ。
「秋! 」(本来の私は”食欲の秋”なのだが”みのり”をテーマにした)。参加者全員で一体感を持つために合唱もする。秋の歌として色々候補もあったが、「村祭り」を選んだ。


       村祭り     文部省唱歌

(一)村の鎮守(ちんじゅ)の 神様の
    今日はめでたい 御祭日(おまつりび)
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    ドンドンヒャララ ドンヒャラ
    朝から聞こえる 笛太鼓

(二)年も豊年満作(ほうねんまんさく)で
     村は総出(そうで)の 大祭(おおまつり)
     ドンドンヒャララ ドンヒャララ
     ドンドンヒャララ ドンヒャララ
     夜まで賑(にぎ)わう 宮の森

(三)治(おさ)まる御代(みよ)に 神様の
     めぐみ仰(あお)ぐや 村祭
     ドンドンヒャララ ドンヒャララ
     ドンドンヒャララ ドンヒャララ
     聞いても心が 勇み立つ


 この歌は、明治四五年小学校音楽教科書「尋常小学唱歌」に掲載されたもので、コーラスグループ「ダーク・ダックス」や「ダ・カーポ」にも歌われている。
若い参加者は「ダーク・ダックス」に首を傾け、高齢者は「ダ・カーポ」に首を傾けた。私はシンガーたちの説明もしなければならなかった。歌も世につれで、時代の流れを感じる。また、この歌を知っていても「夏祭り」「春祭り」しか体験していない人は「村祭り」の歌を、夏の祭りであり春の祭りだと思っていたと言う。歌一つにもいろんな思い込みがあるのだと考えさせられた。
 私はこの歌の情景が良く分かる年代だ。
 秋の収穫(みのり)が終わり、雪虫が舞いだし、農作業が眠りに入る前の澄んだ空気の中を渡っていく「ドンドンヒャララ ドンヒャララ」は、私の体の中にしっかりと入っている。大人になっていろんな祭りを観てもいるが、私の祭りは、この「村祭り」が原点になっているように思う。
 皆んなで歌えるように歌詞を模造紙に大きく書いて行く。間違ってはいけない。歌詞を調べて、そして驚いた!
(三)番の歌詞が、戦後、相応しくないと言うことで


      稔(みのり)の秋に 神様の
      めぐみたたえる 村祭
      ドンドンヒャララ ドンヒャララ
      ドンドンヒャララ ドンヒャララ
      聞いても心が 勇み立つ

 
に、書き変えられているのだ。私は歌そのものも学校で習った記憶がない。しかし、どこで覚えたのだろうか。「村祭り」の歌には懐かしさが沸いてくるし、しっかり歌える。日本の原風景を思い起こし、そして私の原風景を思い起こさせる歌なのだ。
 日本人は農耕民族で瑞穂の国だった。祭りの発祥は、収穫を「祈る、喜ぶ、感謝」の心からだと思う。祭りの原点はここにあるのではないだろうか。二番の「年の豊年満作は、今年の間違いではないか、歌い難い」という声があがったが、これで正しいのだ。
 稲は春の早苗から暑い草取り、秋には台風もくる。そんな厳しい一年をかけて作られ、米と言う字は八十八たびの人手が掛けられ、やっと一年の収穫となる。そして一年の終わりが来る。稲作は一年周期の恵みであり、稲そのものが一年を表しているのだ。「とし」とは「いね」のことだった。「年」は稲(禾)を収穫する人の姿を象形で現している。
「いね」も「とし」も「ひと」も労い、神さまに感謝し、治まる御代に感謝するのが、お祭りであったのだ。祭りは大切な日本の行事であり、「村祭り」の歌には、日本民族の心が詰まっていると私は思う。
そして、祭りは誰の心にも優しく懐かしく流れて行くものだ。

 「ドンドン、カッカ。ドド〜ンドドン」神社で太鼓が打ちならされる。私の過ごした小学校は、私が住いとする神社の参道を挟んであった。太鼓の音が聞こえ出すと、みんなの足が机の下で脚ふみを始める。「どうして神社の祭りに、大事な授業を半日にしなければいけないのか」という話題が職員室でなされていたと聞く。しかし、子供たちはそんなことには耳を貸さない。もう誰の体も左右に揺れ始めている。勉強などうわの空だ。剛君(チヨッチャン)などは勝手に帰り支度をしている。それにつられてみんな教科書を閉じ始め、女児は先生の顔をチラチラ伺い出す。
 授業の終る鐘の音が太鼓に混じって響いてきた。大歓声があがるなり、椅子と机を整頓するのももどかしく蜘蛛の子を散らすように、みんなは神社の石段をめがけて駆け出す。境内に備えられている太鼓を順番に打ち鳴らすのだ。順番を待つ間に家へ鞄を置きに帰る子もあるが、たいていは社務所の隣にある私の住いの縁側へ放り投げにくる。
 その日は、社務所も私たちが住んでいたところもごったかえしていた。縁側には「ごくまき」(五円玉の入った小餅が撒かれるのだ)の餅が、桶に入れられ並んでいる。秋の陽射が餅を光らせていた。縁側に鞄を置いたついでに、それをこっそりポケットに入れる子もあった。見つかると「罰当たりめ」と叱られはしても、その日は何事も無礼講なのを子供たちはちゃんと知っていた。
「自分のほうへ餅を撒いてもらうように言え!」と、私に命令する子もあったが、そんなことを言っても父がそうしないのはよく知っている。祭りの日は、みんな好き勝手なことを言いあい心が浮き立っていた。
 私は動作が鈍くごくまきの餅はほとんど拾えなかった。しかし、みんなに揉まれているのが嬉しかったし、チヨッチャンが一杯餅を受けて膨らんだポケットから、必ず一つは私の手に握らせてくれた。
 普段は村で見かけない綺麗に着飾った人たちで境内が溢れていた。他所へお嫁に行った人や、村を遠く離れて仕事に出ている人が帰って来ているのだ。綺麗に着飾った人たちを子供は憧れで見ていた。青年団の若者たちがハッピハチマキ姿で忙しく動いている。そのきびきびした姿にもまた憧れた。自分たちも大きくなったら着飾って村に帰って来たい、青年団の人たちのように大きく成ったら男女力をあわせて立ち振舞えるのだと、祭りの華やかさの中に子供なりにも、艶っぽさも感じていた。
 同級生が「うちへおいで」と誘ってくれる。どの家にもご馳走が並べられていた。みんなで連れ立って順番に訪問していく。その年に出来たお米で作られたお寿司やおにぎりが並んでいた。私たちは台風のとき、稲が全部横倒しになり水浸しになっているのを見ている。そしてこれといって役にも立たなかったが、農繁期には、順番に田圃へお手伝いに行くことになっていた。私などは農作業を知らないので、まったく役に立たずお八つに出された、もぎたての柿や蒸かし芋が目当てのようだったが、それでもどの田圃でも喜んでもらえた。そんな中で収穫された新米は、どの子にもピカピカに光って見えたし、とても有り難い物だと思った。秋祭りの意味をちゃんと肌で感じていたのかもしれない。
 あのお手伝いの帰りに見た夕焼けが、いまでも一番綺麗だったように思う。

 お祭りは、子供にも何時もと違う心が起る。私はご馳走をよばれ歩いた最後にチヨッチャンの家へ行く。チヨッチャンは自分で山羊を飼っていて山羊の乳を飲んでいた。私は一度それを飲ませて欲しかった。普段はそんなことを言えなかったが、お祭りの華やかさがそれを言わせる。チヨッチャンのお母さんが「今日は神社は大忙しやろ。うちで泊まっていき。お祖母ちゃんに言うたげる」と言ってくれた。 私は嬉しかった。神社には参道に店を出す人たちや、遠くから来たお神楽の人たち、手伝いに来る神主さんで寝る場所がなかった。その人たちは夜通し起きてお酒を飲んだりする。あまりにも賑やかで寝るわけにいかなかった。
 山羊の乳はなんだか生暖かく臭かった。しかしあれも私のいままでの飲み物の中で、一番美味しいものだったように思う。
 両脇の神木の杉の木を背にして、参道に沢山の店が並ぶ。杉の木に張られた注連縄が人混みに揺れていた。綿菓子の甘い匂いと天津甘栗の焼きこむ匂い。その匂いに埋もれてヒヨコも売られていた。金魚すくいもあった。何度挑戦しても紙が破れて金魚はすくえない。チヨッチャンは上手にすくっても、ごくまきの餅はくれたが金魚はくれなかった。お多福やヒヨットコの面がそれをみて笑っていた。知恵ちゃんがお面を買おうと財布を覗きながら、「チヨッチャン、木村さん(私の旧姓)が好きなんと違う」と言う。「好き?」そんな感情が分からない私はまだ子供だった。みんなそうだった。奉納される神楽に、男の子も女の子も一緒に手を繋いで見とれていた。
 お祭りが終って、父がお神楽の話をしてくれる。それは大蛇が女の人と絡む話であったり、神さまの睦む話であったりして、なんだか不思議でもありちよっと恥かしくもあった。手を繋いで見ていたのが恥かしく思い起こされた。
 祭りとは、艶っぽい日でもあったのかもしれない。

 何年か前にその神社を訪れた。神社の隣にあった小学校は無くなっていたし、住んでいた住居は二階建になっていた。二階建ならたくさんの人が泊まれるし、私の寝る場所もあっただろうに。神輿が収められていた小屋はなくなり駐車場になっていた。沢山の年月が流れていたのだ。
 参道の杉の木を背に燈籠が並んでいた。その燈籠のなかに「献燈」とチヨッチャンの本名があるのを見つけた。胸がキューンと鳴った。祭りの太鼓が鳴った。杉の木にかけられていた注連縄が揺れた。夫のくゆらす煙草の煙が、カーバイドの匂いのように流れていった。
 祭りはやっぱり、艶っぽいものであったのかもしれない。

ドンドンヒャララ ドンヒャララ/ドンドンヒャララ ドンヒャララ
「村祭り」は大切な歌だ。昔の歌詞のままで歌い繋げよう。


   懐かしさと甘味も乗せて祭りかな


                母さん今夜は 木村徳太郎 
            
          母さん今夜は
          いゝ月夜
          ひよつとこ踊りを
          見せませう。

          あゝ祭の笛も
          もうすぎて
          背戸の高黍
          鳴るばかり。

          母さん今夜は
          月今宵
          お頭(つむ)の白髪が
          目立ちます。

          おゝ流れる星に
          渡り鳥
          群れてもつれて
          鳴くばかり。

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橿原神宮は懐かしい所です。夏は林間学校に寄せていただきました。その時の写真(父、姉、私)が出てきました。

背高泡立草 の 花言葉    
 
 橿原神宮に勤務する父の夜食用弁当が出来上がると、祖母がそれを木綿風呂敷に包む。小学校六年生の姉と一年生の私とで宿直の父に弁当を届けるのだ。行きはぎっしり詰まった重たいお弁当で姉が持ち、帰りは前日の軽い空弁当を私が持つと決まっていた。
 橿原神宮の敷き詰められた玉砂利の上を、私はわざとガサガサと音を立てて歩く。清々しい境内の敬虔(けいけん)な空気に緊張すると、逆にスキップを踏みたくなるのだ。がさつな私は、時々拝殿に上がって行き学校で習ったお遊戯のおさらいなどもした。そんな私を咎めないで、優しい禰宜(ねぎ)さんが「今度、みんなにも観せたげて」と笑って許して下さった。父の白袴とは違う紫色や水色袴の人に行き交うと「良い子やねぇ」と頭を撫でて下さった。参道へ続く店屋の小母さんたちも「賢いわねぇ〜」と声を掛けてくれる。今、思えばあれは父がみんなに好かれていたからではないだろうか。
 職員の詰め所に行くと、父が「ごくろうさん」と笑顔で出迎えてお茶を入れ昨夜の話をしてくれる。闇夜に狐に憑かれたように境内をグルグルと回り、出口が分からなくなった人のこと、森の奥から聞える妖しげな動物の声。そして、昨夜差し入れのあったお菓子の里の遠い町の話などは何度聞いても面白かった。また、神社に侵入した泥棒を捕まえて新聞記事にもなった武勇伝は、まるで物語の世界に入っているようで、楽しく時間を忘れさせてくれた。
帰りには、珍しいお菓子をポケットに入れてくれ「お祖母ちゃんに『ごちそうさま』と言うといてや」と、鳥居まで送ってくれる。

 その日、帰りの弁当箱を持つ役は私なのに、姉は持たせてくれなかった。「かー子が持つ」「いいから」と電車の中で押し問答が始まった。いつまでもうるさく言う私に、姉が根負けして空弁当箱の包みを渡そうとしたとき、車窓に黄色の花畑が広がった。私は驚いてそっちに気を取られ、弁当箱を受け取り損ねた。風呂敷包みがほどけ、弁当箱がカランコロンと転がってアルマイトの箱が剥き出しになった。
 姉も私も慌てた。姉は真っ赤になって、電車の振動に揺られながら蓋と器が別々になった弁当箱を追い駆け、拾うなり風呂敷に無造作に包み急いで車両の前方へ行ってしまった。
 それからはいくら話し掛けても姉は私を睨みつけ、黙ったままで家に帰っても口を利いてくれない。「もう、かー子となんか一緒に行かへん。これからは私一人で届けに行く」と、祖母に言っている。 
私は「弁当届け日」が大好きだった。それが出来なくなるなんて大事件だ。
 「窓に見えた花に気を取られたんや。今度からはちゃんと言うことを聞くし」と、いくら謝っても許してもらえない。「そんなお花畑なんか、あらへんだわ」「嘘ばっかりついて、大嫌いや」とまで言う。
 (あのとき私たちの前には、姉と同級生の男の子が座っていた。だから姉は、私に弁当箱を持たせようとしなかったのだ。それなのに、空の弁当箱がその子の前を「カランコロン」と転がって行った。姉が怒るのは無理もなかった。)
 姉の許しを得るためには、あの花畑の黄色い花を見せるしかないと私は思った。
それまで電車に一人で乗ったことはない。でも黄色の花は、線路脇に一面に咲いていた。近くの駅で降りれば花畑に行けるだろう。私は決行した。改札口を澄まして通り抜け、電車に一人で乗った。八木西口駅と畝傍御陵前駅の間に、黄色い花畑は広がっていた。
 畝傍御陵前駅で降りるのは初めてだった。ドキドキしながら改札をぬけて線路沿いに戻って行き、夢中でその黄色い花を摘んだ。匂いに酔いそうになり服をすっかり黄色く染めながら摘んだ。怖かった。腕に抱えられるだけ摘んでまた線路脇を懸命に戻り、駅のベンチに腰掛けたときには大声で泣いていた。夕日が落ちはじめ、夕日に黄色の花が輝き私の涙も朱黄色に染まり始めていた。

 姉は「アホやな〜。ようそんなん、一人で採りに行ったな〜」と驚く。私はこれでやっと姉に許してもらえると思った。しかし、姉は「これ草やで」と言ったのだ。
 それは戦後に北米から入って来た雑草の、背高泡立草(せいだかあわだちそう)だった。私は炒り卵みたいな綺麗な花だと思ったのに…。
 姉は「こんな草の花、採って来てからに」とぶつぶつ言いながらも、空き瓶にそれを挿して、自分の勉強机に置いてくれた。そして帰りの弁当箱もまた持たせてくれるようになった。

 姉は一九六三年九月十五日、喘息の発作から心臓を悪くして急死した。
背高泡立草は根から成長阻害物質を出して他の植物の成長を邪魔し、花の花粉は喘息の原因になると知った。私は悲しかった。背高泡立草を摘んで姉にプレゼントしたのだ。姉の喘息はあのときの背高泡立草が原因ではないか、と悔やまれてならなかった。
 苦しそうに咳き込む姉に、背高泡立草の大群が押し寄せる夢を何度も見た。あの黄色の花を「姉に上げなかったら良かった」と幾度も思った。

 滋賀県に引っ越して、背高泡立草で染めたと言う、優しい黄緑色のハンカチを貰った。そして、背高泡立草は決して喘息の原因になるものではないことを教えてもらった。田舎道の途切れた先に、突然この花が一面に現れることがある。あの日と同じように、線路脇に揺れているのを見ることもある。そんなとき、いつも姉や父の顔が浮かんで来る。

 背高泡立草の花言葉は<生命力>だ。「強く生きるのよ」最近やっと心に真っ直ぐその言葉が入って来るようになった。

    
       月見草いいえそげんな花じゃなか
        あれはセイタカアワダチソウ

          五木寛之『青春の門』(織江の唄)より 
 
「生きる事」に価値があり、「どのような生き方」ではなく「生きる」ことに意義があると言う。ならば月見草も背高泡立草も違いはなかろう。


      陽を浴びて黄金の泡増し草生きる
          セイダカアワダチソウと長き名を持ち


2008.10.18
 
 月光(つきかげ)       木村徳太郎  
 
          ぎんなんの梢の

          実が白い

          月光(つきかげ)。


          地蔵さまお笑ひ

          なさるような

          月光。


          線香の匂ひが

          流れてる

          月光。


          いつまでも立つてゝ

          祈ってる

          月光。


          立ってゝ見てる

          あかるい あかるい

          月光を。

十月の歌(霧)

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http://blogs.yahoo.co.jp/hanahitohira06/41789874.html
あのときの葉っぱがこんなに赤く染まり始めました。ほんのり染まる紅の葉は湯上り美人のよう。

 湯けむり 織る錦     
 
 大岡昇平の随筆に、福田恆存 宅へ電話を掛けた時のエピソードが書かれている。

電話をするとお手伝いさんが出てきて
「只今先生はお風呂中でございます」という。それでは奥さまをといえば、
「奥さまも只今お風呂中です」と答えた。


 私の知人にも、いつも夫婦一緒に風呂に入ると言う人がいる。私はまだ入ったことがない。

 滋賀県の湖西は、比良・比叡山に抱かれ、秋が深まり始めると、霧が広がり静かな霧雨の世界になる。色づいた木々の葉を霧が濡らしていく。乳白色の霧の中にぼんやりと紅の葉が滲む。湯けむりのなか、湯に染まった童女のような錯覚を起す。
しっとりとつややかに濡れ、滲む霧は近景遠景をグランデーションにぼかしていき、そんなぼかしに私の湯けむり物語も融けていく。

 魚屋と八百屋を営む叔父家族と同居の大家族であった。店の客足が少なくなった夕方をみはからって、叔母が従兄弟と私を連れて風呂屋へ行く。祖母が、姉と私を連れて早い時間に行くこともあった。父と一緒のときは男湯へ行く。近所のおばさんが誘ってくれることもあった。しかし、誰もが私を連れて行くのをいやがった。私は頭を洗われるのが大嫌いで、逃げ回り抱きかかえて洗おうとする人を引掻き、傷をつける。大声で泣き叫ぶ。あまりの抵抗に「湯舟に放り込んだろかと思うわ」と叔母がよく言っていた。頭の上から湯を掛けられるのが怖かったのだ。
しかし、風呂は嫌いではなかった。「ゆ」とかかれた長い暖簾をぐるぐるとよじり、ぶら下がる。奥から湯気がこぼれてきそうだった。竹敷きの広い脱衣場(昼は浪曲師が此処で興行をする)の足裏に伝わってくるひんやりした感触も好きだったし、湯けむりでかすむタイル絵の富士山も雄大だった。知らないおじさんがタオルを膨らませ湯につけ泡を連射させて遊んでくれる。小さい手で背中を流してあげると、喜んで歌をうなり真赤に湯立っていく。叔母や祖母、従兄弟姉の大集団で行った帰りは、氷屋に入る。赤色や黄色のシロップのところを一口づつ交換して食べる。湯立った顔から石鹸の匂いだけを残して汗が引いていった。店を出ると町は灯の中に影絵を映していた。風呂屋の煙突から出る太い煙が星空に勇ましく昇っていく。金木犀が匂ってくる。それは父の友人で、一人住いの絵描さんの家だ。私たち姉妹はよくそこへ遊びに行った。部屋に入ると絵の具の匂いが身体を包む。小父さんが絵筆を止めて、私たちにお菓子を出して下さる。サーカスを観に連れて行ってもらい、くまのバッチを買ってもらったこともある。石鹸の匂いと金木犀に、昼の絵の具の匂いを探して明かりのついている部屋を私は見上げる。「小父さんは結核になったから行かないように」と言われていた。子供心にも切ない思いが流れていた。(あの小父さんは有名な絵描きさんになっているかもしれない。私の絵も描いてくれたものと思うが、記憶はそこで途切れている)
そんな町の風呂屋通いから、引っ越した田舎の風呂は、100mばかり離れた井戸から両手にバケツを満水にして運こび、薪で沸かす五右衛門風呂だった。
土間の片隅にあり、電燈がなく燭台を持って行く。脱いだ服を棚に置くと小さな私の影が、蝋燭に映し出され長く伸びて揺れていた。蝋燭の燃える匂いが不安をかきたてる。風呂は、ゲス板という板を底に沈めて入るのだが、私は上手にバランスがとれず板ごとひっくりかえるのだ。ひっくりかえると鉄釜である。皮膚をさす。水運びも、風呂釜も、隙間から入ってくる北風もあまり好きにはなれなかった。(でもあのときの、北風の音。追い炊きに火吹き竹を頬いっぱいにふくらませ、パチパチと燃え上がる闇に浮んだ火のこ。火の粉の前でページを繰った本。どれもみな懐かしい)
 二十代の始め、慶応義塾大学の通信教育のスクーリングに東京で過ごした。風呂屋通いである。授業が終わり宿舎に帰るとまず葉書を書く。それをポケットに忍ばせ、友と誘い合わせて風呂屋に行く。女湯に男の人が入ってきた。サンスケさんである。こんな人がいるのだと驚いた。驚いていると、隣りにいるオバサンが「テメエ、湯を人に掛けんじゃねぇ。気をつけな」とドスのきいた声で言う。私は湯立っているどころではなかった。早々に引き上げ葉書をポストに落とす。ポストの前へ「あなたたち、地方の人?」と知らない男性が寄って来る。友と私は顔を見合わせ、風呂屋から続くダラダラ坂を一目散に駆け降りる。洗面器のなかの石鹸箱がカタカタ鳴った。平地までくると「私らのこと地方の人やて。大阪は地方になるんやねん」と、少しだけ石ケンの匂いをさせて笑い転げる。異文化に目をむき、驚き、箸が転げても可笑しいと笑う年頃の風呂だった。

 結婚後の住いは、大きなお屋敷の離れを借りた。離れに風呂はない。母屋へ貰い湯に行く。苦痛であった。大家さんは厳しい人で長湯禁止。上がる時は風呂場の水気を拭いておくなどを躾けられた。そしてそこで長女が生まれた。私はどうしても風呂が欲しく、組み立て式簡易風呂を20数万円で購入した。離れの庭の角にそれを建てさせてもらった。風呂桶は桧にした。これで自由に好きな時間に好きなように風呂に入れる。新生児を抱いて桧の香りを楽しめる。そんなはずだったがそれどころではなかった。高度成長期の真っ只中、夫は毎夜深夜の帰宅である。育児を手伝ってもらうことなどは夢だった。風呂の広さは畳一枚分位だったろうか。沐浴が終わると、風呂蓋を閉め、その上に新生児を乗せ私はバスタオルを巻く。そして赤子を抱き、庭を駆け抜け部屋に入る。雪がちらつく日は、赤ん坊の頭にも私の頭にも雪がのっていた。木々に囲まれた大きなお屋敷だったので誰にも見られていなかったと思うが、バスタオルがずり落ちる時もあった。(部屋に入るなり裸でストーブをつけ赤子に乳をやる。寝かせる。風呂にゆっくり入ったわけではないのに、私の体からは湯気が立ち上っていた)
 引っ越すことにした。ラジオ番組に「譲りますコーナ」があり、屋敷の庭隅に建てた風呂をそれに出してみた。私の声が電波にのった。運良く買い手がつき、手土産にケーキを携え、購入金額も此方の言い値で中年のご夫婦が買って下さった。人の情が嬉しかった。
 引越し先の建売住宅の風呂場は小さかったが、初めての内風呂が嬉しかった。子供たちは私の血を受け継いだのか、頭を洗うのを嫌がった。シャンプーハットと言う頭の周りを包み目や耳に湯が入らないものを被せた。湯はいくらでも自由に使える。なんども湯を掛けた。湯のぼせをするほどに、子供たちと数を数え歌を歌った。

 滋賀県に家を建て風呂場を大きく取った。周りに家のない高台だったので、湯に浸かりながら花火大会が楽しめた。(今は、二階から首を捻り捻りしながら屋根屋根の隙間から、僅かに火の粉が見えるぐらいになってしまった。)そしていつのまにか子供たちが巣立っていった。子供たちはどんな入浴をしているのだろうと思うこともある。孫の家を訪問したとき、六歳の兄と二歳の妹で風呂に入っていた。妹の方が耳を抑え、目を瞑り兄に頭から湯を掛けてもらっている。驚いた。私は洗髪が大嫌いだった。子供たちは、シャンプーハットが必要だった。凄い進化だと感心してしまった。

 私には、のんびりと入浴することがあまりなかったように思う。まして、夫婦で風呂へ入るなど考えもしなかった。今はゆっくりと入浴できる。知人のように一度一緒に入浴してみるのも良いかとも思う。が、それはやめた。そのうち、いやでも介護で一緒に入らなければならないときもくるだろう。

 入浴は一人でゆっくり湯けむりを楽しむのが良い。

 霧雨が私の肌をしっとりと濡らしていく。乳白色の霧のなかに霧の匂いが、湯の匂いがしてくる。まるで小倉遊亀画伯の、「童女入浴図」の童女のような紅の葉が湯けむりに滲んでいる。
 秋の長風呂(長い風呂物語)になり失礼を致しました。

    
       霧動き紅の葉動き霧匂ふ 


2008.10.11

それぞれの人生がある。入浴にもそれぞれの歴史がある。
 湯けむりに色んな彩が浮びあがる。
知人の便りに胸を打たれた。リュウマチを患い不自由を感じるようになって辛いが、ご主人が入浴時に頭を洗ってくれたという。
彼女は「恥じも外見もなく、『これも老いる一段階』と・・・。
便りを読みながら、涙が滲んできた。紅の葉が滲んだ。

        
   秋       木村徳太郎  
 
          秋はなんでも
          ブラシでそめる。

          ビルの白かべ
          ぶどうのいろに。
 

          日かげの土を
          つめたいいろに。

          並木の葉っぱ
          うす黄のいろに。

          秋はなんでも
          やさしくそめる。



  昭和32年2月5日発行。金の星社
「小川未明記念出版。日本名作童話4年生」より

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お茶の花

イメージ 1

     ひとつぶの茶の実(1)

二十四節気の「霜降」(10月23日)がすぎ、「立冬」(11月7日)が近い。霜の朝ももうすぐだろう。

いまは冷たい露に覆われる野だ。そして、夏の強さを失った柔らかな陽のなかに、その露の煌きを吸い

取ったかのように瑞々しく、凛々とした白さでお茶の花が咲いている。青い茶葉に隠れるように守られる

ように咲いている。下を向き静かに咲くその白いお茶の花に、私は、「ひとつぶの茶の実」の物語の「源

子(もとこ)」を重ねる。ふっくらふっくらとした丸い蕾は、八歳という源子の初々しい頬を思う。そし

て、その優しい薄緑色の蕾は、ふくよかな「お茶葉」を夢見て健気に色をつけ、開花を露と共に待ってい

る。

お茶の花の咲くのを、茶葉生産者は嫌う。「茶葉の生産」のみを考えるとき、花は木の栄養分を吸い

とり木を弱くするやっかいものらしい。露の中に蕾と花と、そしてもう大きな青い実をつけている。短期

間に花は、大きな実となり「小雪」(11月22日)のころには、古色めいた茶褐色になり弾ける。これほ

ど大きな実をつけることに、「木を痛める」と言うのは頷ける。しかし、「生産」のみの追求でなく、

「一つ二つの花があっても良いではないか」と私は思う。花が咲き、実がなってこそ、そしてその実がま

さしく「実を結ぶこと」になった物語だ。私はこの物語の「源子」を想い、お茶の花を愛しんでいる。椿

に似る直径二センチほどの小さい花の無数のおしべは、大きな塊りとなり圧倒するばかりのボリュウーム

感だ。その黄色の花糸(おしべ)の塊に目は惹かれていく。花糸の数は130〜250本はあるという。私には

花糸の塊が、遠い昔からつづく歴史の息使い、その歴史の中に健気に生きていた民の集まりのように見

えてくるのだ。物語は、静かに語りかけてくる。

「私は『源子のように健気に生きてこれただろうか』」と、問う声と共に・・・。


  1996年一人の児童文学者がこの世を去った。人知れずひっそりと旅立った。

 木村徳太郎の略歴がある(童謡芸術年刊集。昭和十三年版より)

私は 1915年9月4日に生まれた。
私は 毎日幸福に生活した。童謡芸術の仲間は皆んな嬉しい、いゝ人達ばかりなので、
私は 明るい性質になった。家業も楽しい、いゝ友達も出来た。生活もだ。
私は 生まれた時も、亡くなる時も同じところだろう。

「亡くなるときも同じところだろう」。人間としての根源的なそんな願いは、叶わなかった。

願いを少しでもかなえてやりたい。ふるさとにかえすように…。

   ひとつぶの茶の実  ______ 弘法大師の話__ 木村徳太郎
(日本歴史逸話集「歴史のひかり」五年生 昭和三十年実業之日本社発行より)

是非お読みください。掲載されている本は、古本屋にいく寸前を、偶然花ひとひらが見つけました。

*下記最新記事(ひとつぶの茶の実2)です。 
2006.10.26

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