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梅干 の 歌
8月3日、やっと近畿地方に梅雨明けが発表された。平年より15日遅く、昨年より22日も遅い梅雨明けで、観測開始以来最も遅い梅雨明けらしい。梅雨の語源は、梅の実が熟す頃と重なることや、長雨で湿度が高く黴が生えやすいことから「黴雨(ばいう)」と呼ばれ、「梅雨」に転じたという説や(毎)日のように雨が降るから「梅」という字が当てられたという説などがある。
やっと梅雨が明け、胸を撫おろしている。私にも「梅」が切り離せないのだ。
いつもなら土用に入る三日前後に首にタオルを巻きつけ、日焼けをものともせず梅干を干す。梅を一つ一つ表裏返しながら蝉の鳴き声を汗粒のように聞き、「主婦業」に徹する楽しみが、今年のどんよりした土用の曇り空に「もう少し暑くなってから」と思ったのが間違いで、梅干しを干す機会を失っていたのだ。灼熱の太陽と夜露に当たらない梅干は、塩酸っぱの中から染み出て来る甘味がない。ふんわりした柔かさがない。
長雨で生い茂った夏草を刈り、ビール箱を並べ、ヨシズを置き、梅を並べて行く。梅の香と草いきれが体を包む。夏はやっぱりこれでないと……。
今年の梅雨は、異常気象と言われ各地に大きな被害をたらした。こうして、遅くなっても例年通りに梅を干せる事が有難い。厳しい夏の暑さは辛くも感じるが、やっぱり青空に入道雲、蝉の声、そして草いきれの中に広がる梅の香り、これに出会えたことに感謝する。
「鱧まつり」 白川 淑
チンッ 盃をあてる
──おかえりやす
──殺し文句だね
──言葉だけで このひとは殺せないのに
宵山の お囃子が
鴨川(かわ)をわたり 雑踏(ひと)をぬけてくる
──祇園まつりのことを鱧(はも)まつりとも言いますのぇ
湯引きした鱧に梅肉がちょぼっとのっている
──おいしいね
とろけそうな男の唇(くちびる)
さらりと湯をくぐってきた白い肌が
青紫蘇の上にまるく蹲っている
ツンッ 鼻を撫でる梅のにおい
京では 鱧の落とし と呼んでいる
──おまつりの一番のごっつおぅどすね
氷の器が 灯りを掬っている
男の箸があたると そこだけ溶けて凹む
──うちかて 紅い梅持ってますしぃ
隠しぼくろのことなど 喋ってはいけないのに
言葉だけで このひとは殺せないので
百の骨を 剪りきざんでほしい
白い身を 湯あらいしてほしい
そして お味見してほしい
とは 言えないけれど
──もし おうちが板場はんどしたら
うち 鱧になりとうおすぅ……
言葉やわらかに このひとを殺したい
いやあ〜、なんとも色っぽい詩である。白い鱧、青紫蘇、赤い梅肉、透明の氷、彩が煌いている。「おほほ、うちかて 紅い梅持ってますしぃ」 ……。そんな事を言いながら梅干を干す。私の「紅い梅」は梅干のことだが、梅干が色っぽく見えてくるから不思議だ。囃すように蝉時雨が降り注ぐ。なんだか汗を拭う手つきまでが色っぽくなってくるような気がする。
祖母が梅干を漬けていた。湧く梅酢に赤紫蘇を入れると一瞬に紅が散り広がる。それが不思議であった。「失敗すると黴が生え、黴が生えると、その年は家族に良くない事が起こるから」と、遊び惚け泥だらけの私を、梅干しの傍に立たせなかった。今思うとあれは祖母の密かな楽しみの時だったのかもしれない。紅色に一瞬染まっていく匂い、なんだか秘密めいた色っぽい時間が流れて行くような気がする。
庭に梅の木を植え、花のふくよかさと実を漬ける楽しみを続けている。そして沢山の年月が流れていった。表裏を引っくり返す梅一粒一粒に、いろんな想いも一つ一つと重なって行く。あと何年、こうして紅い実をひっくり返せるだろうかと、ふと思う。
梅干しをひっくリ返し梅に皺をつくり、私も皺を増やして梅干婆さんになってきた。
氷の上にソーメンをのせ、青紫蘇と梅肉を混ぜてちょぼっと乗せる。大好きな夏の味覚で喉越しよくお腹に入って行く。稲穂も出始めた。新米がもうすぐ出る。新米に、今年もまろやかな梅干が乗せられる。ごくりと唾を飲む。同じような彩でも鱧にはほど遠い私である。しかし気にしない。気にしない。
二月・三月花ざかり
ウグイス鳴いた春の日の
楽しい時も夢のうち
五月・六月実が成れば
枝からふるい落とされ
近所の町へ持ち出され
何弁何合量り売り
もとよりすっぱいこの私
塩に漬かってからくなり
シソに染まって赤くなり
七月・八月暑いころ
三日三晩の土用干し
思えば辛いことばかり
それでも世のため人のため
しわは寄っても若い気で
小さい君等の仲間入り
運動会にもついてゆく
ましていくさのその時に
なくてはならない
このわたし
九月・十月秋の日々
山はもみじやかえでが色づいて
里の庭々秋の声
ふたたび仲間は
おにぎりやシソに
巻かれて旅に出る
わたしはさびしく樽の中
十一月・十二この月に
山には雪がちらちらと
里には木枯らし吹き荒れて
庭ではペッタンペッタン餅をつき
樽の中ではブルブルと
私はふるえて年を越し
正月元旦年明けて
書き初め 羽根つき
コマまわし
家で家族が笑顔で雑煮たべ
梅の香がふくらんで
花の香りを待ちながら
私は樽の中より
おめでとう
(尋常小学校国語教科書より「梅干の歌」)
こちらの方が私には似合いそうだ。汗を拭う手が せっせと働き者の手になり、梅干しを返しはじめた。
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